屈服と喪失
奈崩のつりあがった眼から一瞬、感情が消えた。
その心音は失望と落胆を刻んだ。
何故かは分からない。
その瞬間の彼には、高揚も恍惚も衝動も何もなかった。
でもそれは一瞬のことで、心音はすぐさま別の何かを刻み始めた。
支配。
言葉にするならそんなものだったと思う。
奈崩は地べたに転がる椅子にしゃがみこんだ。
それから背もたれを掴(つか)んでクルクルと回す。
立ち上がり、無造作にそれを放った。
その椅子は綺麗な放物線を描き、すとん、とわたしの左隣に着地した。
とても自然だった。
「使えよ。脚、開くだあろ」
意味が分からなかった。
映像学習で観た普通のヒト達は、みんな横になって重なりあっていたので、立ってするとかそういう思考がなく、わたしは途方に暮れた。
奈崩は舌打ちをしつつスカートを指さす。
「時間がねえだあろ?……脱(ぬ)げ。下だけでえいい。そんで、左脚を椅子(それ)に乗せろ」
わたしは無言でうなずき、スカートのファスナーを下ろした。
そのまま脱いで生木の上に置く。
それから下腹部を覆う下着の、骨盤部分の横に親指を差し入れて下にずらす。
刹那の、布の優しい肌触りに、何故か震えた。
夜の大気が下腹部を冷やしていく。
体温よりも、もっと大切なものが、剥(む)かれていく気がした。
それを言葉にするなら、尊厳となるのだろうか。
喪われていく尊厳は旋律になり、わたしに歌う事を要求した。
けれどそんなことはできず、代わりに足や腕が、細かく止まった。
刻むようなためらいの果てにようやく、左脚を椅子に乗せる。
そして、奈崩をむいた。
ずっと無言だった彼は。すでにジーンズと下着を脱いでいた。
横に伸ばした左手の先の検尿管(すぴっつ)を眺めている。
彼の先は硬直していたけれど、心音に感情はなかった。
初めて、彼を手当した夜を、ふと思い出す。
胸の奥を悲哀がこみ上げる。
彼のたたずまいに、毒虫を連想した。
そう感じてしまうことも、とても悲しかった。
……その晩、わたしは初めて、奈崩に屈服した。
※※※
……果てた刹那、奈崩はわたしの手のひらに検尿管を握らせた。
そのまま地べたに崩れる。
わたしは、目じりから落涙したまま、検尿管(きぼう)を見つめた。
そして、そのひんやりとした感触に、我にかえる。
「淫崩…っ!」
と小さく叫んで駆けだす。
切迫とも言える希望と焦燥が、雑多な物事を些細にしていた。
奈崩に報復とか、下着を履くとか、須崩を助け起こすとか、下腹部の痛み、とか、陰部から流れていくものとか、そういう一切合財を、わたしは忘れて走った。
道のりは途方もなく長かった。
もどかしいほどの希望があったからだ。
でも、淫崩をそこまで救いたいのなら、奈崩が回復薬を提示した時点で屈服し股間を開くべきだった。
少なくとも1本検尿管を割られた時点で諦めるべきだった。
須崩が目覚めて屈服した後も、下を脱ぎ左の太ももを奈崩に開くというそれだけの行為を、みっともないためらいで小刻みに止めるべきではなかった。
尊厳など無用の長物だったのだ。
……と、わたしはその後の生で悔やみ続ける事になる。
坂道、蕎麦畑横や保育所を囲む塀に沿ったあぜ道を駆けた果てに、わたしは花壇に戻った。
彼女は既に、息絶えていた。
……淫崩(みだれ)は本当に、月光に眠っているみたいだった。
けれど、14年間彼女の中にあり続けた心音は、無慈悲なほどに消え失せていた。
裏腹に、濃紺の夜空にばらまかれた無数の星屑と、大地の闇に潜む鈴虫だけが、相も変わらず歌っていた。
酷い違和感を覚える。
だって、彼女は、凛々しく立ち振る舞ったり、戦ったり、あるいは誰かを思って胸を熱くすることが似合う女性なのだ。
彼女のかたわらに、とても綺麗な顔をした男の人が1人、しゃがみこんでいた。
こちらを美しく見上げる。
「こんばんは」
と言ったけれど、わたしはお構いなしに、淫崩のそばにかがみこむ。
検尿管のキャップを開き、中身の苦い液体を口に含んで、呼吸の喪われた友の口腔に流しいれる。
空になった管は花壇の土に捨てたのだけど、男の人はそれを優雅な手つきで拾い上げ、まじまじと眺めた。
それから、中に残った液体を手のひらに落として舐める。
カラスが上空の半月を覆い隠すようにして飛んできて、彼の手からそれ)をくちばしでくわえるようにして受け取り、そのまま飛び去った。
その一部始終をはた目に、わたしは淫崩の救命行動を続ける。
奈崩との戦闘で土まみれになった全身で、淫崩の心臓を押す。
― 戻ってきて……!! ―
友(みだれ)の鼻をつまんで唇に息を吹き込む。
― 戻ってきてくれたら、治るんだ、から……!! ―
再び馬乗りになり、胸元に両手を当てて、押す。
― …お願い……っ!! ―
わたしの口の中に残っていた回復薬が、震える口の端からこぼれた。
よだれのように顎に伝い、淫崩の鎖骨にかかる。
眼がしらが熱くなり、視界がかすれる中、わたしの懇願は続く。
でもその願いは叶わずに、彼女の温かさは少しずつ喪われていった。
「戻りませんよ」
とても静かな声。
わたしは男の人を睨(にら)んだ。
― 五月蠅(うるさ)い。……殺してやろうか。―
わたしの眼(まなこ)に宿る鬼気など構わずに、その人は口の端を柔らかく上げた。
「戻りませんよ。時間が経ちすぎています。ですが」
そこで一旦言葉を切り、とても優しく微笑む。
「……幸せな子でしたね。淫崩さんは」
胸の奥がぐらりと動いて、視界が揺れた気がした。
思わず首を横に小さく振る。
「苦しかった、はず」
男の人も、首をわずかに振る。
「あなたが来てくれたのです。そんなかっこうをしてまで」
彼は立ち上がり、胸元から黒い獣の毛皮のようなものを取り出した。
手品でもするみたいに広げる。
それから、こちらにしゃがみ込んで、ふさっと下腹部にかぶせる。
ついで、淫崩の寝顔に視線を落とした。
その横顔は穏やかすぎて、わたしの力は抜けかける。
「……幸せな子ですよ。多濡奇さん、あなたを見れば分かります」
彼はそこで一旦言葉を切って、手を淫崩の背と腰に差し入れる。
彼女を抱え上げながら、
「わたくし境間(さかいま)が丁重に、わたくしたちの墓地に弔(とむら)って差し上げましょう」
と続けた時、わたしは、彼が村の助役さんだと分かった。
とても偉い人だ。
大変な人格者だと伝え聞いていた。
たしかに、いや確実に、この人なら淫崩を丁寧に弔ってくれるのだろう。
保育所で潰れた子供たちは、共同墓地に埋葬される。
けれど、その葬送に子供たちが参加することは許されない。
これは村の掟(しきたり)である。
おそらく、死の悼(いた)みを刷り込むことよりも、戦闘の技量を磨くことの方が、教育上優先されるからだろう。
でも、そんなことは関係なかった。
淫崩を連れ去って欲しくなかった。
だから、
「連れて、いかないで」
と、消え入りそうな、かすれ声でわたしは言った。
だけど、境間さんは困ったようにほほ笑みながら、首を横に振るだけだった。
淫崩の喪失。悲哀による歌の衝動は臨界を超えた。
境間さんが助役さんだとか、もう関係がなかった。
喉の笛が振(ふ)るえようとする。
刹那、蛇がわたしの喉をしめた。
いつから、それがそこにいたのかはわからない。
が、それは『わたしの意識の外を這い肩を伝って』、首全体をが強くしめた。
わたしの意識は、白く消失した。
……つまり、歌で境間さんを殺しかけ、動物使いのあの人は、因果を使ってわたしを気絶させた、ということなのだろう。
翌日目覚めると、居室の寝台で、時計は昼を回っていた。
とても静かで、わたしはおもむろに、手のひらを天井にかざした。
土と擦り傷だらけの腕が視界に入る。
腰に巻かれた獣の毛皮の荒い肌触り。
下腹部の刺すような異物感。
昨夜の出来事は現実だった。
わたしは、むくりと起きて、居室を出て食堂に向かった。
食堂には奈崩がいる。
身体の芯に損耗は残っていたし、足はふらついていた。
が、そんなことは関係なかった。
― 淫崩(あのこ)の報復を、しない、と。―
憎悪に歯を食いしばる。
それは、わたしが初めて浸った感情だった。
それでもわたしは、手すりによりかかりながら、階段を降りきる。
子供たちの声がにぎやかしい食堂の扉を開けた。
しん、と静まり返り突き刺さる幾多の視線などお構いなしに、堂の端の席の前まで歩いて、仁王立ちをする。
わたしが見下(みおろ)ろすその座席には、奈崩が座っていた。
彼は、飲むよーぐるとのストローの端をかじりながら、わたしを見上げた。
回復薬で大抵の傷が癒えてしまうひだる神らしく、腫れも傷もない涼やかな面持ちだった。
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