奈崩が壊すもの
当初、この戦闘の第一義は、淫崩が生きている間に決着を付けて、須崩と一緒に看取ることだった。
わたしはこの目的のために、冷静に、迷い無く戦う事ができた。
最短最速の拳撃で、気を顔面に集中させ、関節を狙った。
尻餅をつく形で防がれたが、好都合だった。
回し蹴りの衝撃をちゃんと通せば、奈崩の脳はバターになる。速やかな決着。
その期待は外れたが、新しい希望が生まれたのだ。
淫崩を、回復薬で救う。
わたしの第一目的は、淫崩を看取ることから、救うことに変わった。
これは天佑だった。
けれど、わたしは力んでしまった。
淫崩の言葉を思い出す。
『詠春の拳はね、強く打とうとしちゃだめ。どんな状況でも、迷い無く、冷静に撃つこと。意気込んだり硬くなったりしたら、ただの的になっちゃうから』
わたしはあの夜、天佑を前に、冷静さを欠いてしまった。
……最初に、奈崩の手の検尿管(きぼう)を追った。
奪うためだ。
それは手の先スレスレで届かない。
むしろ、がら空きになった脇に蹴りを入れられた。
わたしは生木に吹き飛ばされた。
それでも、あきらめず、彼の手に飛びつこうとする。
今度は水月を蹴りぬかれた。
両膝を床に突く。
みぞおちを両手で押さえ、涙目で奈崩を見上げる。
「はっ、はあ! 間抜け、どぅあなぁ、多濡奇ぃ。せっ、かちな女は嫌われるずぇっ」
息切れをしているくせに、声がふざけている。
わたしを見下ろして、彼は口角を醜く歪めた。
「…いい、目どぅあ。その目がみた、かったんどぅあ、よお。俺はなあ」
顎を蹴ってくるので、横に避けた。
軸足に手のひらを絡めて体勢を崩す。
すかさず中腰で、顔面に縦拳を3発。
― なら、潰してから奪えばいい。 ―
眼窩(めのくぼみ)に追撃をしようとした刹那だ。
奈崩は5本のうちの1本を、斜め後ろの生木に投げつけた。
わたしの意識は、その1本の軌跡に集中する。
全身、特にふくらはぎと大腿筋が筋走る。
奈崩の真横にステップイン。
そのまま検尿管(すぴっつ)に向かって飛ぶ。
ファウル球にアウトを取ろうと飛びつく野球選手みたいだ。
わたしの指先は、検尿管(すぴっつ)まで3cmに迫った。
けど、姿勢ががら空きだった。
みぞおちに拳がめり込んだ。
これにわたしの体はくの字に曲がる。
低空姿勢で奈崩が繰り出したアッパーが、突き刺さったのだ。
わたしはみぞおちを抱えて、地べたに転がる。
それでも視線は検尿管(すぴっつ)を追う。
それは生木に衝突して、粉々に砕けた。
破片を回復薬が暗く濡らす。
「そんな顔、すんなよぉ。多濡奇(とぅあぬき)ぃ。……まだ4本あるぜぇ? 」
面白おかしく言う奈崩が気に障(さわ)った。
それでもわたしは立ち上がり、詠春拳の構えを取った。
ひだる神は笑いながら、残りの希望(すぴっつ)4本をまとめて右の指の先でひらひらさせる。半身の姿勢。
― 闘牛士みたい、だ。……わたしは牛、か!? ―
……実際は、わたしは牛以下だった。
奪いに行くと、届く前に拳や蹴りを被弾してうずくまる。
潰し行くと、検尿管(すぴっつ)をまた1本割られた。
同時に容赦のない蹴りで脇腹を蹴られる。
ボレーシュートのサッカーボールみたいにわたしの体は跳ねるし、奈崩の姿勢は日本リーガーそのものだった。
「3本どぅあなあ。多濡奇(とぅあぬき)ぃ。そろそろ糞豚も死ぬかもなぁ」
欠けた歯でそう言って、ひひひ、と奈崩は目を細めて笑う。
揺れる白髪が死神みたいだ。
……彼の言葉は事実だった。
淫崩に残された時間は減っていく。
わたしの胸には焦りがつのる。
膝をつくのは何度目だろう。
戦闘に呼吸が追い付かない。
四肢の腱が伸びきったみたいに力が入らない。
― それでも。―
わたしは立ち上がった。
重い左脚を一歩内股に踏み出す。
ふらつく重心を右足に乗せて腰をわずかに落とす。
指を張る力の失せた左手のひらを無理やり開いた。
震える腕を奈崩にゆるく伸ばす。
右手も上に開いて左手の肘の横に添え、気を吐く。
― 淫崩を救う。絶対に、救うっ……!―
奈崩の瞳が険しくなった。
「ブスだなあ。多濡奇(とぅあぬき)ぃ。とぅえめえは」
吐き捨てるように言いながら、彼は真後ろの生木に、検尿管(すぴっつ)を叩きつけた。
唖然(あぜん)とするわたしを、奈崩は軽蔑する。
「甘(あま)えんのもよぉ。大概(たあいがい)にしろよお。糞膜女が舐めくさりやがっとぅえ」
息を飲むわたしの頬から、血の気が引くのが分かった。
その通りだった。
回復薬をめぐる奪い合いは、奪い合いですらないのだ。
奈崩の気分次第で、検尿管は粉砕される。
それは最短最速だ。わたしはなすすべもない。
つまり奈崩はわたしを、からかって遊んでいたのだ。
「てめえは発情期の犬か? てぇめえが満足するまで、俺に相手してえもらえるとお、思ったかあぁ?!ほんっとおぉに馬鹿だあなあ!てぇめえはあっ!!」
奈崩はそう叫んで、さらにもう1本を、真後ろの生木に叩きつけた。
わたしはそれに飛びかける。
刹那、顔面を蹴り飛ばされる。
ほぼ同時にみぞおちに拳がめりこみ、後方に吹き飛ばされた。
背をしたたかに打つ。
「…てめえを見るとぅおよお、イラつぅくんだよ」
吐き捨てるように、彼は言った。
「……多濡奇(たぬき)姉ちゃん……」
須崩が混濁から戻った。
けれど、わたしは彼女を見ない。
奈崩から、残り1つの検尿管から、目を外すことができない。
「逃げて。須崩」
切れて腫れた唇が、自然に動く。
「逃げたぁら割る」
すかさず奈崩は言う。
「糞餓鬼、これが割れたあら糞豚はおしまいだあ」
彼はわたしを見たまま、無感情にそう言い放った。
「え…?」
須崩が声を漏らす。
鼓膜に届く戸惑いの心音。
「……回復薬が入っているの。淫崩が治るの。わたしも治ったの」
何故わたしは説明したのか。
奈崩に検尿管を割って欲しくなかったからだ。
そして、須崩が逃げた瞬間、この男は必ず割る、と感じた。
でも、逃げないで、とも言えなかった。
「奈崩」
「お?」
「それを割ったら、殺す」
奈崩はきょとんとしてから、盛大に笑った。
身をくねらして、涙をつりあがった目じりの端に浮かべる。
「はは、ははは。わかってえるっつぅーの。……だが殺すてぇ脅しは嫌いじゃねえ。だから教えてえやるぜ、多濡奇(とぅあぬき)ぃ。てえめえは今、選べる。千載一遇のチャンスだあぜえ」
奈崩はつりあがった目を細めて、わたしに微笑んだ。
それはとても優しい微笑みだった。
彼のそんな顔を見るのは初めてで、しかも、この状況だ。
わたしは混乱した。
「なに、を」
「いや、単純な話だあ。てえめえは、股間の膜とぅ、豚とぅ、餓鬼全部守りたあくてぇ、このザマだあろう? だあが、今餓鬼が目覚めたぁ。チャンスだあぜえ。餓鬼見捨てて歌ってえ糞豚救ってぇ膜を守る。俺と豚殺して糞餓鬼とぅ膜守る。選べよお多濡奇ぃ。屈伏てえのもあるけどなあ……。ここまでえ体張っといてえ、膜捨てぇるってえのはねえよなあ」
淫崩、須崩、貞操。
どれかを捨てろと奈崩は言っている。
歌えば、須崩は死ぬ。検尿管は奪える。淫崩は助かる。
歌わずに回復薬を奪うのは不可能だ。奈崩を屠る事はできる。須崩は助かるが、淫崩は死ぬ。
貞操は、ありえないと奈崩は言う。
須崩の弱弱しい視線が、頬に突き刺さるのが分かった。
それは幼く、だからこその絶対的な哀願。
その刹那、わたしの頭蓋骨の内側に、花壇の映像がよみがえった。
花畑ではしゃぎ合う淫崩、須崩、わたしたち。
あの日、夏の緑に濃密だった青空から、永遠でも約束するみたいに降り注いでいた陽射し。
それが洪水みたいに溢れて、わたしの心を、ぽきんと折った。
……。
「分かった。やら、せ、て、あげ、る、から。淫崩を、たすけ、て」
わたしの声は、かすれていた。
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