白昼夢

 八月も半ばを過ぎた。じわじわとした暑さは増すばかりで、わんわん喚く蝉の声が耳から脳みそを食い荒らしていく。

 会社から電車で一時間と、歩いて三十分。ほとんど引っ掛けるように鞄を持って、汗で崩れた化粧も貼り付いた前髪もそのままに、痛む足を無理やり前に進め、夜の街を歩いていく。

 帰り道の神社の前がやけに騒がしかった。数日前から屋台がちらほら並び始めたと思ったら、お盆の縁日は今日だったらしい。

 華やかな浴衣姿の女の子や、おめんやヨーヨーを持った子供たちが目の前を通り過ぎていく。疲れた体には、煌びやかな彼らの姿は殴られたような衝撃を伴った。多分、自分にもああいう時代があって、あぁ、随分くたびれたものだ。あそこに混ざるには、この固いスーツじゃ惨め過ぎる。

 賑やかな通りを避けるようにして、わざと遠回りした。神社の傍を流れる大きな川は、いつもより少し流れが速かった。

 橋の上から川を覗き込んで、闇を呑み込むような水の流れをぼんやり眺める。なんだかすごく疲れた。横柄な上司の態度も御局様の愚痴も理不尽なクレームも気持ち悪いセクハラも。いっそこの窮屈なパンプスを脱ぎ捨てて、ここに飛び込んでしまおうか。

「なぁ」

 いやに明瞭な声が聞こえて、はっと振り返った。視線の先に、男が一人、立っている。

 両の瞳は私を捉えていた。男は口の端をゆるく上げて、おもむろに口を開く。

「タピオカ、飲まないか?」

 たぴおか、と口の中で繰り返す。

 もしかして私に向かって言ってるのか、この男は。

「要りませんけど」

「じゃあかき氷」

「要りません」

「なら俺と話そう。ここで」

 言うなり、男はすぐ傍らのベンチに腰掛けて、ぽんぽんと隣を叩いた。闇に溶けるような黒髪の男だった。肌が白くて、グレーの着流し姿の。整った顔立ちをしていた。もしかしなくてもあの祭りに来たのだろう。何故屋台のある通りから外れているのかは、知らないが。

「ナンパのつもり?」

「そう捉えてくれて構わない。嫌なら帰っていいけど、そのパンプスは家まで履いたままで頼む」

 警戒して男を見ていた私は、ひとつ息をついた。なるほど、そういうことか。

「そんなに分かりやすかった?」

「けっこう」

「ふぅん」

 適当に相槌を打って、その隣に座った。「疲れたから」と言い訳を添える。嘘はついてない。

「命を粗末にするなとか、周りが悲しむとか言うつもり?」

「まさか。きみがタイプだったから止めただけ」

 荒んだ気持ちで言葉を吐き出すと、返ってきた答えは予想と随分違っていて、小さく目を見張る。

 想像通りの言葉を返されたとして、それはそれでうんざりしたけれども、かといってこれもどうしたものか。もう少し気の利いた言葉でも言えばいいのにと思ったが、そういえば出会い頭にタピオカとかいう男だった、と少し呆れ顔になる。

 そんな私の表情を見て、男はからりと笑った。

「ナンパしてるのに隠す必要もないだろ?」

「なら、あの誘い文句は相当センス無いと思うけど」

「なんか最近流行ってるんだろ? タピオカ。俺は飲んだこと無いから、知らないけど。嫌いだった?」

「ううん。でも好きでもない」

「そうか」

 変な男だと思った。どこか浮世離れした面立ちもそうだし、言動も何もかもすべて。それでいてとてつもなく優しい笑顔を浮かべるのだから、ついうっかり気を許してしまいそうになる。

「屋台の方に行かないの?女の子はいっぱいいるでしょ」

「きみぐらいの美人がいるなら行くんだけどなあ」

 突き放すつもりで告げると、ストレートに口説かれた。また直接的な表現を使うな、と苦笑する。

「メイク崩れた女を褒められてもね」

「気に障ったなら謝るが、褒めたのは撤回しない」

「……あなた、変って言われない?」 

「多分きみ限定。突然タピオカに誘う人間が変な自覚はある」

「そう」

 思わず笑みがこぼれると、男も軽く笑い声をあげた。先に口を開いたのはどちらだったか、他愛のない話が続いた。随分居心地がよかった。近くの喧騒が止んでいくのを気づかなかったくらいには。

 すっかり暗くなって、屋台のあかりもほとんど消えてしまったのに気づいた頃、私は話を切り上げて立ち上がった。

「――明日も待ってる。ここで」

 離れる私の後ろ姿に向かって、彼はそう言った。


***


 我ながらどうかしていると思ったが、まだ続く縁日を言い訳にして今日も私は遠回りをした。

 果たして、彼は昨日と同じ場所に座っていた。

 私を見つけるなり、彼は目を丸くする。

「来ないと思った」

「待ってるって言ったの、あなたでしょう」

 また隣に座ると、目に見えて嬉しそうな顔をする。

 小さい頃飼ってた犬に微妙に似てるなあ、と思いながら、今日先に口を開いたのは私だった。

 仕事の愚痴だとか、子供の頃の話だとか、最近のニュースだとか、どうでもいい話をたくさんした。聞き上手な彼は、そのどれもを表情豊かに聞いていた。

 たまに出会ってすぐ、まるで数年来の友人のように話せる相手がいる。この男はまさにそれだった。

 だからだろう、もうずっと前に捨てていた夢がつい口をついて出てしまったのは。

「医者になりたかったの」

「へぇ」

 ここ数年口にしなかった、形の無いものにしてはやけに重量を伴ったその言葉に、彼のした返事は随分軽いものだった。

「死ぬ気で勉強したけど、ダメだった」 

 あの時の感覚が蘇るようで、つい語尾が細くなる。鉛がつかえるような感覚とは裏腹に、言葉はほろほろと溢れ出た。

「受験で失敗して、ぽっきり心が折れて、諦めて、適当に進学して適当に就職した」

 と言っても、物凄く悪い結果になったかといえば、そうでもない。むしろ一般的には良い高校、良い大学、と呼ばれる場所には進学した。学生生活もそれなりに楽しかったし、就職先の給料も悪くない。

 それでも、努力しても努力しても報われない、という一度染み付いた感覚がずっと心の中に残っていて、何についても諦めがちになってしまう癖は、ある。

 やや俯きがちになった私の顔を覗いていた彼は、ふとベンチの背もたれに体を預けて呟いた。

「俺は絵描きになりたかった」

 やけに哀愁を纏ったその響きに、思わず顔を上げる。夜空に向けられた彼の表情からは初めて、笑みが消えていた。

「……どうだったの」

 恐る恐る、尋ねると、珍しく自分の事を語り始めた彼は、視線を上に向けたまま、苦々しげに答える。

「てんでだめだった。そもそも、画家になる事自体許されなかったからな。家を継がないといけないんだと。バレた時に画材も何もかも捨てられて燃やされた」

「そんなドラマみたいな」

「ドラマだったら良かったのにな」

 夜空を映した彼の黒い双眸は、確かに星が瞬いているはずなのに、まるでその煌めきだけ吸い取ってしまったかのようだった。

 このひとも、あの、この願いは叶えられないものなのだ、と悟った時のゆるやかな絶望を、味わったのだろうか。

「……タピオカ、飲む?」

 睨みつけるように夜空を見上げる彼に、いたたまれなくなってそう零すと、彼は不意をつかれたようにひとつ瞬きをして、それから声を出して笑った。

「いや、いい。飲めないから」

「……どういうこと?」

 訝しげに尋ねると、彼はおもむろに手をこちらへ差し出してくる。

「?」

「手。きみも」

 そう言われて、よくわからないまま恐る恐る手を差し出す。と、彼は軽く手を振って、私の手のひらを、ぺしん、と叩いた。

 はずだった。

 まるで実体が無いかのように、確かに私の手を叩いたはずのそれは、何の音も立てることなく私の手をすり抜けた。

「こういうこと。そこから飛び降りた。ずいぶん前に」

 驚いて固まる私に、目の前の幽霊は、そう言ってまた微笑んだ。

「……そう」

「人間、死にたくなる時なんか、いくらでもあるよなぁ」

 僅かに掠れた私の声に気づいているのかいないのか、嘯いて彼は、私を置き去りにしたままぽつぽつと続ける。

「仕返ししてやろうと思ったんだ。自分の価値観の幸せとやらを押し付けて来るあいつに。でもまぁ今思えば、才能の無いものに憧れるよりは建設的な選択肢だったのかもしれないな」

 自嘲気味に笑って、それきり彼は口を噤んだ。

 ほんの一瞬、彼と私は同じなのかもしれない、と思ったのが馬鹿らしかった。

 自分から諦めた私と、諦めさせられて、諦めた彼と。

 似ているようで全然違った。傍から見れば最悪の形であれど、彼は意志を貫き通したのだから。

「けっこう酷いことを言うけど」

「うん?」

「あなたの絵、見てみたかった」

 本心からそう告げると、彼は驚いたように、ぱちりと瞬きをした。

 それから、ふっと表情が崩れる。

「……まったく」

「きみ、どうして一緒に生まれてくれなかったんだ」

 はじめて見る顔だった。雨上がりの後の地面のような、あぁ、彼も私と同じ人間だったのか、と思わせる表情だった。

「知らない。あなたが先に生まれたんでしょ」

 驚いて思わずきつい口調になった私に、彼は「それもそうだな」と笑う。なんだか今にも消えてしまいそうだった。

「私がここに飛び込んだら」

 ふと口をついて言葉が零れる。わけもなく涙が滲んだ。

「地獄にでも行く?一緒に」

 わざと笑顔を浮かべる。対して彼は、出会った時と同じ、優しすぎる笑顔で返した。

「医者になりたかったんじゃなかったのか?」

「……そうね」

 笑みを形作った口の端が震える。うらぎりもの、と心の中の私が罵った。表面の私は、あくまで強がったままだった。

「……そうね、やめとく」

 なんだか泣き叫びたい気分だった。気づけば遠くのあかりはほとんど消えて、一生で一番長かった盆祭りは、段々と終わりへ向かっていた。

「……じゃ」

 表情が見えないように、俯きがちに立ち上がる。そのまま背を向けて歩き出した。

「……俺も、きみの白衣姿は見てみたかったな」

 後ろから声がかかって、小さく笑みが零れる。

「励ましてるつもり?」

「いや、美人だろうと思って」

「そういう趣味なの?」

「そうかもしれない」

 後ろ髪を引かれる思いを振り切るように、少し早歩きになる。

 絶対に振り返らなかった。

 彼は、私の後ろ姿に昨日と同じ言葉をかけることはなかった。

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短編 波月星花 @AlisiaLiten

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