ただの風邪だと、言わせてくれ

淺羽一

〈短編小説〉ただの風邪だと、言わせてくれ

 何の前触れもなく、突然に玄関の前に現れた女の姿に言葉を失った。彼女は睨み付けるみたいな眼差しでこちらを見据え、「とりあえず、中に入れてよ」と言った。若さと外見が見事に調和している風に、上手に化粧を整えられ、さりとて派手すぎないシャツにふわりとした秋色のスカートを穿いている姿は、とても可愛らしく魅力的だった。これで優しく微笑んでくれれば最高だろうにと、頭の片隅でぼんやりと思った。

 部屋に上げると、彼女は視線をあちらこちらへと動かしながら、「何、これ。引っ越しでもするの」と問うてきた。私はそれに、「そんなものかな」とだけ答えた。

「いつ頃? 何処へ行くのよ」

「まだ、もう少し先なんだけどね。ちょっと、遠い所へ行こうかなって」

「何それ。気取ってるつもり?」

 彼女は呆れ混じりの苦笑を浮かべて、「止めときなよ、似合わないから」。私もそれに苦笑を返すと、部屋の中央に置きっぱなしのままだった整理途中の荷物を、ひとまず隅にどかして、代わりにそこへ座布団を敷いた。畳敷きの和室とは言え、こんな男の一人暮らしの部屋で、床に直に座らせるのは気が引けたからだ。2Kの間取りの和室は、本来であればそれほど狭くないはずだったけれど、ただでさえ周りを梱包された段ボール箱やビニール紐でまとめられた雑誌などで囲まれている分、大人二人がそこにいるだけでとても手狭な感じがした。決して窮屈ではなかったけれど。小さな風呂桶で子供と一緒に湯に浸かっているような気分、とでも言えばいいだろうか。

「母さんの言ってた通りね」

 座布団を一瞥した彼女は、しかし座ることなく、そんな事を言った。「あの人なら、きっと今も同じ場所で暮らしているって言っていたけど、本当にその通りだなんて。物好きね、いつまでもこんなぼろアパートに住んでるなんて」。

「住み慣れた場所が、一番だから」

「ならどうして、今度は急に引っ越す気になったのよ」

 私は何とも言えず、代わりに「麦茶で良いかな」と聞いた。彼女は「何でも良いよ」とだけ言い、やはり座布団を無視して、改めて辺りを眺め始めた。私は開け放しにしていた引き戸を通って台所に行くと、棚からグラスを二つと、次いで冷蔵庫から麦茶の入ったガラス瓶を取り出した。と、そこで流し台の脇に置いてあった小袋が目に入り、麦茶の代わりにそれを冷蔵庫の中にしまった。直後、背後から「今の、何。病院の薬っぽかったけど」と声がした。

「ただの風邪薬だよ。最近、ちょうど季節の変わり目のせいか、体調を崩していて」

「その割には、ずいぶんと量があるみたいだったけど」

「お医者さんが大げさな人でね。栄養剤とか、胃薬とか、やけに沢山くれたんだよ」

「断れば良いのに。それって、診療費をつり上げようとしているだけよ」

「なかなか、性格的にそうも言えなくて」

 曖昧に笑いながら応えると、彼女は納得したのか、「風邪を引いてるんなら、こんな事してないで静かに寝とけば良いのに。もう歳なんだし」と周囲にある荷物を指さし、「まだ先なんでしょ」と言った。

「色々とね、時間が掛かるんだよ。昔の荷物が出てきたりすると、ついつい物思いに耽っちゃったりしてさ」

「それって、私と母さんがこの部屋にいた時のものとか?」

「まぁ、それもあるかな」

「そんな前のもの、まだ残してるの。もう、十年以上も経ってるのに」

「僕にしてみれば『たったの十年』さ」

 言いながら盆に載せた麦茶とグラスを持っていくと、彼女は「同じじゃない」と鼻を鳴らしたものの、今度こそ素直に座布団の上に腰を下ろしてくれた。

「ごめんね、お菓子とか、無いんだよ。来るなら来るって言ってくれれば、用意しておけたんだけど。それとも、何か買ってこようか」

「要らないわよ。私も何も持ってこなかったし。それに、いないならいないで、帰ろうって思ってたから」

 麦茶を注いだグラスに手を伸ばす彼女を見ながら、向かい側で畳の上に直にあぐらを掻いた私は「今日は、どうしたのさ。何かあった?」と尋ねた。

 二度ほど小さく喉を鳴らし、やがてグラスの縁をそっと指でぬぐった彼女は、僅かな間を空けて答えてきた。「娘が尋ねてくるのに、特別な理由が必要なの? それとも、娘だから?」。

 私は慌てて首を横に振った。「とんでもない。僕はいつでも大歓迎だよ。だけど、十二年ぶりの再会が、こんな急な来訪だなんて、驚く気持ちも分かるだろ」。

「言っている割には、ほとんど驚いているって感じはしないけどね」

「まさか、十分に驚いているよ。それに、もの凄く嬉しい。ただ、それをどう表現して良いのか、まだ戸惑ってるだけさ」

「良く言うわよ。たった一度だって、様子を見に来ることさえしなかったくせに」

「それは……」

「分かってる。別に、責めてるつもりはないから。それに、その方が私と母さんの為だって、そう思ったんでしょ」

「…………」

「ほら、すぐに黙る。やっぱり、母さんの言った通りね。身内に図星を指されたら、黙って愛想笑いを浮かべる癖まで、そのまま」

「……はは、厳しいね」

「私、結婚するのよ」

 あまりにも唐突すぎて、一瞬、何を言われたのか脳がついていけなかった。けれど、直後に事情を把握した私は、急いで「それは、おめでとう」と言った。心からそう想っていた。

 だが、彼女は少なからず厳しい表情を浮かべて、「怒らないの」と聞いてきた。それは、数秒を使ってもまるで意味を解する事の出来ない問いかけだった。

「どうして、僕が怒るのさ」

「だってまだ一年だよ、私が大学を卒業して。知ってるんでしょ」

「それは、まぁ。だけど、出会いのタイミングは、大抵がいきなりなものだから」

「でも、せっかく費用を出してくれたんでしょ。母さんに聞いたわ。養育費は高校を出るまでって約束だったのに。……母さんが、頼んだんでしょ。私が大学に行きたいだなんて、言ったから」

「そんなのは、子供が気にする事じゃない」

「気にするよ。するに決まってる。大体、仕事は何をしてるのよ。こんなぼろアパートに住んでるくせに」

「こんなぼろアパートに住んでいても、仕事はちゃんとしていたよ。君を卒業させられるくらいには、蓄えも十分にあった。だって、ずっと一人だったからね」

「だけど……」

「言っただろう、子供が気にする事じゃないって。僕はただ、父親として当然の事をしたんだよ。あぁ、父親か」

「ふざけないでよ」

「ふざけてなんかないよ」

「だって、医学部だよ。自分で言っておいてなんだけど、まさか本当に行けるだなんて思ってなかった」

「それでも、行きたかったんだろ、本気で」

「それは、そうだけど」

「だったら良いじゃないか。そして、今度の結婚の話だって、ちゃんと考えた上での結論だろ。それなら、僕は祝福するだけだよ。君は、その場の勢いや感情だけで、大切な物事を何もかも決めてしまうほど、軽率な人間じゃないから」

「……ずいぶんと、私の事を知ってるみたいな言い方ね」

 かすかに彼女の声音が硬さを増す。それに、嘘を吐いて取り繕っても意味がないだろうと悟った。同時に、正直に告白したいという気持ちもあった。だから、口からこぼれるに任せる事にした。「実を言うとね」。大きな二つの黒い目が、こちらを真っ直ぐに見つめてくる。母親に似て、綺麗な瞳だと思った。「お母さんとは、ごくたまにだけど、連絡を取っていたんだよ」。

「それは、そうでしょうね。大体、養育費とかも貰っていたんだし」

「それだけが理由じゃなくてね。君の様子を、教えて欲しかったから」

「会いに来れば良かったじゃない。さっきはああ言ったけど、その気になれば、一度くらいは会いに来られたでしょう。私にも、母さんにも、直接に」

「出来ないよ」

「どうしてよ」

 私は「だって」と、一度だけ言葉を途切れさせてから、「彼女が、それを望んでいなかったから」と告げた。瞬間、目の前の瞳に仄かな怒りが浮かんだのを、私は見逃さなかった。「母さんの事ばかり気にして、私はどうでも良かったのね」。

 私は即座に否定した。「そうじゃない」。そしてさらに続けた、「君は、彼女と一緒にいる事こそが一番に幸せなんだと思っていた。いや、今だってそうだ。だからこそ、君達の生活に一瞬でも波風を立てるかも知れないような真似をしたくなかった」。紛れもない本心だった。

 けれど彼女の表情は和らいでくれなかった。「今でこそマシになったけど。私達の生活なんて、昔は少しも穏やかなものじゃなかったわ」。

「それは、そんな時期もあっただろうけれど。でも、そうだとしたら余計に、僕は行くべきじゃ無かったんだよ」

「……なるほどね。確かに、色々と知っているのね。それも母さんから聞いていたの?」

「お母さんも、大変だったんだよ。いきなり一人で娘を育てていく事になって」

「一人、じゃなかったけどね。決まった相手でも無かったけど」

「それは、きっと、寂しかったから――」

「知ってるのよ、私。全部を知ってる。もう、子供じゃないんだよ」

「…………」

「離婚の理由が、『あなたの浮気』じゃなくて、本当は『母さんの浮気』だったって事」

 私は改めて「やはり」と感じていた。聡い子だと。嘘を吐いても意味がないと。しかしだからこそ、その間違いだけは正しておかなければならないと思った。「それは、少しだけ、違っているんだよ」。

「どう違うって言うのよ。だって、浮気をしたのは母さんの方でしょ。他の誰でもない、あの人から直接、聞いたんだから。それも二十歳の誕生日にね。本当に、最悪の成人記念日だったわ」

「それは、ほんの一部の話でしか無いんだよ」

「どういう事よ」

「確かに、彼女が僕の知らない所で別の男と会っていたのは、事実だ。けれど、それは当時の僕が仕事に追われて、家庭をないがしろにしていた事も原因だから、お母さんだけが悪いんじゃない。どっちもどっちなのさ」

「そんなの詭弁じゃない」

「まぁね。でも、本当の問題は、そんな話じゃなかったんだよ」

「……何があったの」

「僕はね、知っていたのさ」

 彼女の顔が「え」と固まった。私は、こんな話を彼女にしているという現実に、情けなさと、反面、こんな話を聞かせられるほど大人になってくれたんだなという感慨を抱いていた。「お母さんが浮気をしている事を、僕は知っていたんだよ」。

 彼女にとってそれは思いがけない真実だったのか、それまでの強気な態度は少しだけ姿を消し、代わりに複雑な気配が眼差しに宿っていた。

「一番の問題はね、僕が逃げた事なんだよ」

「逃げた?」

「そう。僕はね、逃げたんだよ。彼女を責める事からも、自分の惨めさを認める事からも。そして挙げ句の果てに、何も知らないふりをして、彼女に全てを任せようとした」

「…………」

「だけど、僕がそんな風に考えている事こそ、彼女はちゃんと知っていたのさ。全て気付いていた上で、僕が真剣に向き合う事を待っていてくれたんだ。それなのに、僕はその気持ちを完全に裏切った」

「……そんなの、それこそ詭弁よ。浮気は浮気じゃない」

「正論だね。でも、正論だけで抑えきれない感情論が自分を動かしてしまう時も、あるんだよ。今の君なら、分かるだろ」

「それは……」

 おそらくは無意識なのだろうが、そっと彼女の右手が己の下腹に添えられた。

 私はやはりまた、何も気付いていないふりをして言葉を続ける事にした。果たしてそれが正しい行為なのか、それとも卑屈な逃げなのか、それもまた昔と同じく今の時点では分からなかったけれど。「夫婦なんて、結局は男と女の延長線でしかないけれど。それぞれがこの世で唯一の組み合わせでもあるんだよ。だから、こんな言い方は突き放しているみたいに聞こえるかも知れないけれど、僕と彼女の間にあった考えの全てを、理解してくれだなんて思っていないんだ」。

「子供の私には関係ないって事」

「違う、そうじゃない。むしろ、子供の君だからこそ、受け入れて欲しいんだ。理解してくれとは言わないし、正しいと認めてくれとも言わない。ただ、それでも、そんな事実があったって過去を、そのままの形で良いから受け入れて欲しいんだ」

「…………」

「勝手な話、だけどね」

 思わず苦笑してしまうと、彼女は「本当に、勝手な話ね」と冷たく言い放った。だが、そこに生まれていた表情は、微笑みでなかったものの苦笑ではあったから、結局は「笑み」なのだと納得する事にした。

「本当はね、会いに来るつもりなんて、無かったの」

 何かを思い出そうとでもしているのか、ざらついた畳を手の平で静かに撫でながら、彼女は私を見ずに言った。「今日だけじゃなくて、もう二度と、会わないんだろうって思ってた」。

 私は、すでに覚悟していたはずなのに、その告白に予想以上の衝撃を受けた。改めて彼女自身の口から聞かされる現実に、己の考えなんてまだまだ理想じみていたのだと悟らされていた。だけど、口を挟むつもりは無かった。聞いて欲しい話は色々とあったし、何より聞きたい話は数え切れないほどに浮かんできていたけれど、自分の為すべきことはただ黙って彼女の話を受け入れる事だと確信していたからだ。そんなものが償いになるはずもなかったが、それさえも出来なければ父親として娘の前にいられる資格すら失うだろう。喩えそれが「元」の付く肩書きであったとしても。

「想像してみたんだ。自分が結婚してからの生活を。正直に言って、幸せになれると、そう思った」

 その口調に迷いや躊躇いは感じられなかった。「自信があったから。私は、母さんとは違うって。私達は、母さん達とは違うんだって。そりゃ、きっと色んな事が起こって、その中には大変なものだって多いだろうけど、それでも自分達ならそれも全部、乗り越えていけるはずだって、そう思った」。そして彼女は、「薄情かも知れないけれど、あなたの事を必要以上に思い出す事なんて、ほとんど無かった」と言った。

 私は、「そうか」とだけ頷いた。変に急かしたり、単純に聞き流したりせず、彼女の方を真っ直ぐに見つめた。

 彼女はしばらく言葉を切ってから、やがて私の方を向いて、「マリッジ‐ブルーになったわけじゃないの。ただ、もう一度だけ、ちゃんと確かめておきたかっただけ」と言った。

 私は、少なからず驚いた。それも良い意味で。なぜなら、彼女が純粋に微笑んでくれていたからだ。思わず涙を溢れさせてしまいそうにさえなった。しかし、寸前で堪えた私は、代わりに言葉を紡ぎ出した。「望みは、叶えられたかい」と。決して「何を」とは問わなかった。

 果たして、彼女は「えぇ」と答えた。柔らかい表情のまま、「何とかね」と頷いた。それから僅かに愉快そうな声音で、「私が結婚する相手の人、どんな人か聞きたい?」。

 私は「そりゃ、興味あるね」と返した。彼女は「仕方ないな」と大げさに肩をすくめてから、「優しい人よ」と言った。「そんなに格好良くはないし、特別に能力のある人でもないし、たまには、もっとしっかりして欲しい時もあるけど。それでも、私の傷の痛みを、ただ慰めるだけじゃなくて、ちゃんと自分でも分かろうとしてくれる人。そんな人だからこそ、一時だけでなく、ずっと一緒にいたいって想えた」。

 ちょっとだけ、嫉妬した。同時に羨ましくなった。彼女にそこまで言わせるだなんて、私にしてみればそれだけで十分に特別な人間だった。

 すると、そんなこちらの気持ちを見透かしたのか、彼女はくすりと目を細めてから、「ほんの少しくらいなら、似ているのかもね」と語ってくれた。

 年甲斐もなく胸が躍るのを自覚した。このまま死んでも悔いはないとさえ思った。同時に、こんなにも強く「生きていて良かった」と想ったのは久しぶりだった。

「ありがとう」

「何よ、急に」

「本当に、ありがとう」

「良いわよ、もう。って言うか、私、もうそろそろ帰るから」

「そんな、晩ご飯だけでも食べていけば良いのに。何ならお寿司でも取るから」

「子供じゃないんだから。それに悪いけど、色々と忙しい身なのよ」

「そうか……」

「もう。そんなに暗い顔をしなくても良いじゃない。また、電話するからさ、暇があればだけど」

「…………」

「分かったわよ。たまには電話するわよ。それで良いでしょ」

 否定などするはずがなかった。

 やがて、彼女は「じゃ、行くね」と立ち上がった。だから私も腰を浮かせようとした。

 だが、彼女はそんな私を手で制して、「見送りなんて良いわよ」と言った。「風邪なんでしょ。なら、静かに寝ておきなさいよ。それとも私が診て上げましょうか」。

 けれど私はその申し出に、笑って、また「ありがとう」とだけ返した。そして立ち上がった。

 彼女はかすかに不服そうな顔をして見せたが、それ以上はもう何も言ってこなかった。

 玄関で踵の低い婦人靴を履いた彼女は、「ここまでで良いよ」と言ってきたが、私は「せめて下まで行くよ」と履き慣れたスニーカーに足を突っ込んだ。

 狭い廊下を通り、小気味の良い音を鳴らしながら階段を降り、私達はあっという間にアパートの前の道に出た。一瞬だけ、先に立ってもっとゆっくり歩けば良かったと思ったが、しかしそれでは彼女の姿を見ていられなかっただろうから、結局はこれで良かったのだと納得した。

「結婚式にくらいは、来てくれる?」

 不意に彼女がそんな事を言ってきた。私はほんの刹那、沈黙を間に挟んでから、「残念だけど、止めておくよ」と応えた。「心から『おめでとう』とは、言わせてもらうけど」。

 彼女はすぐさま返してきた、「どうして」と。

 癌だからだよ。勿論、そんな事は言わなかった。もうほとんど手の施しようが無くて、一か八かの治療を試みられるほどの貯金もなくて、後は先に痛みを殺しながらじきに死ぬのを待つだけだなんて、教える気もなかった。「お母さん、しばらく前に再婚したんだろ。だとしたら、義父になった人と、とっくに別れた元父が同席なんて、周りも気を遣うだろうし」。

 言い終わる頃にはもう、彼女の表情は呆れ顔に変わっていた。「本っ当~に、色々と知っているのね。でも、そんな遠慮なんて必要ないじゃない」。

「そうはいかないよ。大事な娘の結婚式だ。出来る事なら、つまらない要素は全て何もかも排除しておきたいんだよ」

「……お父さんは、勝手だよ」

 またしても彼女の表情が変化した。私はと言えば、返す言葉もなかった。

「自分一人で格好付けて、結局は周りの事を無視してるだけじゃない。お父さんのやってる事は、みんな自分勝手だよ」

「……ごめん」

 何とか返せた言葉も、そんな程度のものでしかなく。再び、彼女の顔は呆れている風なものへ戻った。「もう良いわよ。好きにすれば良いじゃない」。

「本当に、ごめん」

「だからもう良いってば。でも、その代わりに。最後に、もう一つだけ聞かせて」

「何でもどうぞ」

「本当に、ただの風邪?」

 私は即答した。「あぁ」と。それから短い沈黙さえ置かず、「本当に、ただの風邪だよ」。

 彼女はもう、何も言わなかった。私も笑みを浮かべるだけで、何も言わなかった。やがて視線を逸らした彼女は、「もう、行くね」と言った。自分でも驚くほどの寂しさが湧いてきたけれど、私はそれに「気を付けて。お母さんにも、よろしく」と明るく返す事が出来た。

 そして彼女は「バイバイ」と、私に背を向けて歩き出した。数メートルを進んでから、一度だけ振り向いてくれて、私が大きく手を振ると、小さくだけれど手を振り返してくれた。それから後はもう、ただ歩いていった。

 私は見送った。完全に見えなくなるまで、いつまでもその場で見送り続けようと思った。それなのに、あっという間に見えなくなった。何も無い真っ直ぐ続いているだけの道なのに、ぼやけた視界ではろくに愛しい背中を確かめられない。

 ぬぐった。何度も何度も顔をぬぐって、少しでも多く、一秒でも長く、娘の、せめて後ろ姿だけであっても見守り続けていたいと思った。それなのに、本当に切実にそう願ったのに、視界は一向に晴れてくれない。

 最早、本当に彼女の背中がそこにあるのか、それとももうとっくに消えてしまっているのか、それさえも分からなかった。しかし、だからこそ私は顔をぬぐう手を止めて、いつまでもいつまでも、その場で彼女を見送り続けた。

 頭の片隅で、思い出の中にいる幼い娘の笑顔と、ついさっきまで向かい合っていた彼女の姿が重なり合って、さらにはそこへ純白のウェディング‐ドレスを着ている様が想像された。途端、体中に温もりが満ちてくる気がして、私はまたしても大きく大きく手を振った。

 どうか元気でと、いつまでも幸せにを、幾度と無く口の中で繰り返しながら、自分はきっと恵まれていたのだろうと、とても素直に感じていた。


〈了〉


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