淺羽一

〈掌編小説〉目

 空を見上げると、そいつはいよいよ限界だと思えるほどに大きくなっていた。

 恐怖なんてもうとっくに通り過ぎてしまって、おそらく笑みが自然に浮かんできた。幾人もの人間が行き交う平日の昼間の繁華街で、わざわざ立ち止まってぼんやりと空を眺めている暇人など自分一人くらいのもので、そんな現実がまたさらにおかしくて、おかしくて、そのまま笑っている事は簡単だった。雑踏にいながら感じられる孤独は、そうでもしていなければ泣き出してしまいそうなほどに生々しく、また同時に寒々しく、それに比べれば結末の見えている恐怖なんて本当に些末なものだった。

 良く晴れた空は、夏の終わりに相応しいものだったけれど、それを覆わんばかりに浮かんでいる巨大な塊の方が、よっぽど地球の終わりに相応しそうなものだった。

 真昼に見つけられた月のように、雲の白さとは仄かに異なる色合いをしたその星は、表面に幾つものクレーターらしき凹凸を並べられていて、しかもそれらの中心にまた別の小さな丸い影を持つ姿はあたかも生き物の瞳に酷似していた。もしも、幾つもの眼球をまとめて球状に固めれば、あんな形になるのだろう。常にそんなものに頭上を占拠されている気分は、さながら文字通り四六時中、無数の目で監視されているみたいだった。

 初めてあの「目」を見つけてから、もうずいぶんと時間が経過していた。それ以降、日に日に空を削られる範囲が増えていて、多分、遠からず世界はあれに呑み込まれるのだろう。ただ、我ながら間抜けな話だが、突然の異常にもかかわらず疑問は湧いてこなかった。むしろ、それでも一向に視界が翳ることもなく周囲の色を確かめられている現状に、奇妙な不思議さを抱いていた。今となっては最早、夕暮れ時はともかく昼間に太陽の姿を捉えるなんて不可能だった。

 勿論、あれが何の前触れもなく、いきなり空の一角に出現した際には驚愕した。だが、大声で取り乱し、慌てふためき、逃げる当てもないのにとりあえず走って走って足が動かなくなるまで突っ走った後で、ようやく気付いた。あぁ、あの「目」が見えているのは自分一人だけなんだと。そして次に己の頭が遂に狂ってしまったのだと思い、泣いた。雑多な人間が歩く歩道のど真ん中で、跪き、空を仰いで、傍らを気味悪そうに通り過ぎていく人々の視線にも構わず涙を流して、けれどそれが枯れた頃にようやく理解した。

 何を今さら。世界なんて、とっくの昔に壊れてしまっていたじゃないか。あの「目」は単に、それが今頃になって目に見える形として現れただけなのだ。

 結局、日常はあっという間に元の静寂を取り戻した。曜日の感覚さえ失いそうになるくらいに淡々と過ぎていく時の中で、唯一の変化は刻一刻と地球へ迫ってくる「目」だけだった。

 ……いや、精神的な面で言えば、もう一つ、変わった事があった。以前にも増して、夜が待ち遠しくなったのだ。

 理由は単純だった。あの「目」はやっぱり月でなくて、星などうっすらとさえ見えない都会では、月を除く、「目」を含めた一切の天体が姿を消し、夜空はまさしく自分にとって平凡な平和を、例え表面上の話に過ぎなかったとしても取り戻した。暗い空で、雲もないはずなのにぼんやりと浮かぶ月を眺めていると、錯覚だと分かっていても穏やかな気分に浸る事が出来た。

 だが、かといって安らかに眠る事までは叶わなかった。これもまた大層な理由があったわけじゃない。要は、いざ眠ろうと目を瞑るたびに、再び目覚められる朝を信じられなくて不安になってしまっただけだ。だって、あの「目」はまるで「だるまさんが転んだ」をしているかのごとく、相手が見ていない時に限って近付いてきている風に感じられるから。ただでさえ、あれは毎晩、こちらが束の間の幻想に心を休ませている隙に、闇に紛れて距離を詰めてきているのだから。眠ってしまうなんて、とんでもない。本当は、昼間にまばたきをするだけですら抵抗があるのだ。避けようのない滅びに逆らうつもりはないけれど、だからといって死に対する漠然とした不安までもが完全に消え去ってくれているわけじゃない。ことあるごとに空を見上げるようになったのも必然だ。

 果たして、もうどれくらい眠っていないのか。絶えず頭に感じられている鈍い痛みの強さが急に増した気がして、顔を下ろして歩き出した。首と肩が血管に鉛でも流し込まれたみたいに重くなっている。そのくせ、感覚はやけに鋭敏になっていて、疲弊のあまりに麻痺しかけている意識では明らかに処理しきれない大量の情報が、尽きることなく神経に送り込まれてくる。一歩、足を踏み出して体が揺れるたびに、自身を支える力さえ失った脳みそが頭蓋骨の内側にぶつかって形を変えているようだった。

 と、そこで、不意に鼓膜が少なからず離れた場所からの声を掴まえてきた。

「お前らもどうせ、あの星が降ってきたらおしまいなんだっ」

 気付いた時にはもう走り出していた。

 やがて、悲鳴と笑声が混じり合う人垣を押し分けて辿り着いた先では、まだ五歳くらいだろうか、涙と鼻水で顔面をぐしゃぐしゃに汚している幼女を乱暴に抱えて、残った手に包丁を握りしめている、両目を真っ赤に充血させた男がいた。薄手のトレーナーにゴム製のサンダルと言う格好は、部屋から勢いに任せて飛び出してきた気配を臭わせていて、包丁の先にはかすかに乾いた血がこびりついていた。どうやら、まだ警察は来ていないらしいが、それでもせめてもの救いは、今のところ幼女に怪我が無さそうな事だった。

 「おかしいのは俺じゃないんだっ。お前らの方がおかしいんだっ」。男は叫びすぎて声嗄れしていたが、一向に大人しくなる様子はなく、極度の錯乱状態に陥っている……風に見えた。周囲では、冷静さを装った制止の声と、面白がるような無責任な煽り、さらには携帯電話の軽薄な電子音が、あちらこちらから聞こえていたが、男の言葉を受け止めているものは皆無だった。

 しかし、そうだったからこそ、綺麗な円を描いていた人々の中から、一歩、彼に近付いた。途端に、それに気付いた男や野次馬から幾つもの声が出鱈目に発せられる。

 言うべき事なんて一つしかなかった。「君にも、見えるのか」。そして空を指さして、こう尋ねた。「あの星が、たくさんの『目』を持つあの星が、本当に見えるのか」。

 果たして、男だけは分かってくれた。「……まさか、お前にも、見えるのか」。

 半ば呆然とする男の震える問いかけに、「しばらく前からね。その頃はまだ、あの『目』ももっと遠くにあったけど」と答えた。二人とも、もう周りの喧噪なんて聞いていなかった。

 「あぁ……」と、男が空を仰いだ。「やっぱり、俺はおかしくなかったんだ」。

 「止めなよ、そんな事」。恐怖のせいで最早まともに泣く事さえ出来なくなっている幼女へと指先を移しながら、そう告げた。「どうせ、もう後ちょっとでこの世界は終わるんだ。分かってるだろ。こんなに大きく見えるって事は、もうあの星がそう遠くない所にまで来ているって証拠だよ」。

 対して、男は怒っているとも驚いているともはたまた困っているとも言えそうな、複雑な表情を浮かべて怒鳴ってきた。「お前、見えるんだったら、どうしてそんなに落ち着いていられるんだよっ」。

 思わず内心で呆れてしまった。どうして、そんな簡単な事が分からないのかと。「見えるからこそだよ。どうせ、何をしたって終わるんだ。じたばたしたって、あの『目』からの逃げ場なんて無いんだよ」。

「だったらっ。どうせ死ぬんなら、最後くらい好きにしたいだろっ」

「その気持ちは分かるけどさ。でも、その子にはきっと見えていないよ」

「……何だと」

 いきなりの話題転換に付いてこられなかったのか、戸惑うように語気を弱くした男に、改めて幼女を指さしてやってから、「その子にとって、今一番に恐ろしい事は、あの『目』でも、この世界の終わりでもなくて、きっと君だよ」。

「…………」

「その子にとっては、君こそがあの星なんだよ」

「な……」

 思いがけない指摘に言葉を失った風な男は、やがて自らが抱えている幼女を見下ろし、そして巨星を見上げ、それから再びこちらを向いてきた。その目には最早、狂気も恐怖も浮かんでおらず、代わりに酷く気まずそうな感情だけが伝わってくるようだった。

「放してあげなよ。代わりに、付き合うからさ。だから一緒に、目を閉じよう。どうせ君も寝ていないんだろ。正直、一人で眠るのは、不安だったんだ」

 言いながら、また一歩、距離を詰めた。男は相変わらず包丁を握ったままだったけれど、今にも幼女を解放しそうだった。

 だが、そこで突如として予期せぬ邪魔が入った。人垣を無理矢理にどかして、警察官が三人ほど走ってきた。その内の一人は刺股を持っていた。

 駄目だと、止めろと思った。辺りに並ぶ幾つもの眼差しが、途端に安堵や嘲笑、期待に染まって、どうして勝手に決めつけるんだと叫びたくなった。確かに、悪いのは男だ。それは間違いない。だけど、おかしいのは、お前達も同じじゃないか。

 不躾な闖入者に目を奪われていたのは一瞬だった。だけど、次に男を振り返った時、事態はとっくに変わっていた。

「俺はっ……。俺はっ、あれに殺されるくらいなら自分で死んでやるっ」

 待てと言う暇もなかった。幼女を突き飛ばした男が、衆人環視の前で、己の喉元に深々と包丁を突き刺した。どぶの底で生まれた腐った気泡が、濁った水面で勢いよく弾けたみたいな音がして、男が大量の血を吐き出して崩れ落ちた。ただでさえ痛んでいる頭を、絶叫じみた悲鳴がさらにかき回してきて、無惨な光景よりもそれにこそ吐きそうになった。

 数瞬後、動揺していた警官達もすぐに我を取り戻し、何よりも先に少しばかり離れた場所に転がっていた幼女を抱き起こした。すると野次馬連中の間から、まばらだったものの拍手が起こった。加えて、「そんな奴は死んで当然だ」と言う声まで聞こえてきた。

 なるほど、それもその通りだと思った。同時に、だとすればこの世界が滅びるのも当然だと思った。

 ようやく、野次馬を遠ざけて、さらに男の体を隠すように作業が始められるが、無数の目を容易く無くしてしまえるはずもなく。

 血溜まりの中で沈む男の亡骸を見つめている内に、我知らず独りごちていた。「……ちょっと、羨ましいよ。先に眠るなんて」。

 すると、喉から吐き出された言葉を自覚した直後、それまでの疲れがどっと押し寄せてきて、何だかもうまともに立っている事さえ馬鹿馬鹿しくなってきた。

 「いい加減、見られるのも、それを気にするのもうんざりだ」。そうして、最後に一度だけ「目」を見上げてから、そのまま硬いアスファルトの上に寝転がった。誰かが心配そうな声を掛けてくれたけれど、応えなかった。自分の周りが今、どんな状況になっているかなんて、どうでも良かった。最早、全てが煩わしくて、好きにする事にした。

 間違いなく笑みが自然と生まれてきた。体の感覚は急速に失われていた。あれほど破裂しそうだった頭の中は空っぽで、胸にも不安は欠片すらなく、それはいっそ解放された心地だった。今なら、あの星が落ちてくるまでの間、幸福な夢だけを見ていられそうだ。

 やがて、ずっと機会を窺っていたのだろう、睡魔が一気に襲ってきて、だけどそれに完全に身を委ねてしまう寸前で、ふと考えた。

 そう言えば、空の広さはどれくらいであっただろうか。

 残念ながら、思い出すよりも早く意識を失った。


〈了〉

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