ぱんつの色
淺羽一
〈短編小説〉ぱんつの色
私事で恐縮だが、私は今日、生まれて初めて年頃の異性と「でぇと」なるものをする。この世に生を受けてもうじき二十と一年。これまでに二人きりで出掛けた女性など母親か祖母くらいしかおらず、大学の授業では常に堂々と構えられている私も、さすがにいささか緊張気味であった。とは言え、物心付いた頃から古今東西の様々な文学作品を友としてきた私にとって、男女間に於ける恋愛沙汰はある意味で日常茶飯事だったとも言えるのだから、そう考えるとすでに予習は万全だ。
相手の女性は
実際、同輩の携帯電話の画面に表示された写真を見た時、私の背筋を電流にも似た感覚が走った。かすかに照れた風に微笑んでいるその姿は、ふわりとしたワンピースを纏っていたものの、まさしく私の思い描いた通りだったからだ。艶やかな長い黒髪に、透き通るような肌、漆黒の瞳。私達よりも一つ年下で、隣町の女子大に通っていると言う彼女の姿は、とても美しかった。名は体を表すという言葉は、真実なのだ。
誤解して欲しくないのだが、私は決して彼女の外見のみに惹かれたわけではない。自分で言うのもわざとらしいが、私はそんなに軽い性格をしていない。いや、それどころかむしろ世間的に見れば真面目な部類に属するだろう。明治や大正じゃあるまいし、現代の自由恋愛主義を否定するつもりは毛頭無いが、それでも肌と肌を重ね合わせる相手とは常に生涯を共に過ごす覚悟をすべしと教育されてきた者にとって、長い人生に於ける一時の美しさなど決め手になろうはずが無かった。ただし、もう少しくらいなら同輩の話を聞いても構わないなと、試験管を振る手を止めた理由の一つになった事は、間違いなかったが。
何かにつけお節介な同輩は、私の珍しい態度を見るやいなやここぞとばかりに彼女の情報を、果ては女性と交際することがいかに人生を豊かにしてくれるのかと哲学じみた持論を滔々と語り始め、やがてそれらが全て終わる頃には、いつの間にそんな話になっていたのか、私は週末に彼女と二人で会う事を決められていた。
そして、いよいよ待ち合わせ時刻の午後一時まで、後二十分ばかり。私は休日の人込みの中からでもすぐに彼女を見つけられるよう、改札口を正面にして歩道の柵に腰掛けていた。次に到着する上り電車はおよそ十五分後。おそらく、彼女はそれに乗ってくるはずだった。
私は今一度、自身の格好を見下ろした。同輩からしつこいくらい「せめて、デートの日くらいはちゃんとした服を着て行けよ」と繰り返された言葉が再び耳に聞こえてきたが、もう悩みはしなかった。
実の所、これまでほとんどファッションというものに関わってこなかった私には、女性を喜ばせる服装が一体どんなものであるのか、あまりよく分かっていなかった。数ある恋愛小説を紐解けば、〈清潔感のある格好〉だの、〈枯れた風合いの中からちらりと覗く色気〉だの、〈野性味を演出した装飾〉だの、抽象的な描写を幾らでも見つけられるのだが、いざ具体的な、それも男性の服装となるとこれがなかなか難しいのだ。ましてや、物語によって主人公像も様々で、自分とあまりに違いすぎるモデルや、遙か昔の大正ロマンを参考にしても気の毒な結果になるだろう事は明らかだった。
そこで私は部屋の中から答を見つける事を諦め、街に出て、やはり本屋へと向かい、とりあえず目に付いた男性向けのファッション雑誌を数冊、適当に購入した。ハードカバーや文庫本ならばともかく、そんなものを買うなんて初めての経験だった。
再び部屋に戻り、買ってきた雑誌を、表紙を飾る宣伝文句を基準に分類してみた。それらはどうも「カジュアル系」「ストリート系」、そして「大人の男」系に大別出来るようだった。
さて、次なる問題は、果たしてその内のどれが私に似合うのかと言うことだったが、これがさっぱり分からなかった。カジュアル系は、なるほど今風な感じがしたが、ページをめくるたびに全く別物に思える服が新たに現れ、どれを基本にすれば良いのかまるで判然としなかった。ストリート系は、見ようによっては至ってシンプルな服装を独特の着こなし方によって表現しているとも感じられ、これならば手持ちの服でも真似出来そうな気がしたものの、そもそもモデルとして写っている人間が独特だった。最後に大人の男系は、個人的には最もお洒落だと思ったのだが、年若い女性の前へこれ見よがしにブランドのスーツ一式を着ていく行為は成金じみて卑猥な気がした。
結局、私は悩んだ末に、折衷案を採用することにした。要するに、それぞれの良いとこ取りだ。カジュアル系で紹介されていた人気のズボン、ストリート系で紹介されていた評判の靴、大人の男系で紹介されていた素敵なジャケット。それら全てを合わせれば、何処を切り取られても問題など無いに違いなかった。雑誌を携えた私はすぐに銀行へ向かい、その足で数軒の服屋に足を運んだ。帰りには、行きつけの理髪店を訪れて髪型も整えた。
最早、私は昨日までの私でなく、それでいて昨日までの知識や経験も全て備えた、いわば完璧に進化した私だった。しかも私は前日に佳代子さんとの会話や、その他のやりとりを一通りシミュレーションしていた。
例えばこうだ。まず、互いに挨拶と自己紹介を終えた私は、彼女の名前を褒める。すると彼女は少し照れながらも嬉しそうに笑うだろうから、すかさず今度は服装を褒めるのだ。これで二人の緊張は一気にほぐれ、そのまま自然な会話を始められる。初対面の女性に対しては、下手なことを言うよりも、とりあえず褒めろ。以前に読んだ海外小説で、主人公の詐欺師が言っていた。
私は腕にはめたアナログ時計を見た。電車が到着するまで、もうすぐだった。私は背筋を伸ばし、いつ彼女が現れても良いように、待ちかまえた。
果たして、踏切の音が鳴り、上り電車がやって来た。やがてぞろぞろと改札口を出てくる人々の中で、彼女はひときわ輝いていた。
私は思わず名前を呼びそうになり、寸前で堪えていた。彼女は、少しだけきょろきょろとしたものの、すぐに何とか平常心を装っている私を見つけ、早足の一歩手前みたいな歩調で近寄ってきた。
「佳代子さん、ですか」
分かっていたが、私は聞いた。案の定、彼女は「はい」と頷いた、笑顔だった。
写真で見る彼女と、実際に声を出している彼女とでは、まるで違った。何処がどうと言うよりも、存在感からして雲泥の差なのだ。清らかなのに華やか、艶やかなのに涼やか。
私が我に返ったのは、彼女が一通りの自己紹介を終えてからだった。私は慌てて遅れを取り戻そうとした。
「素敵な名前ですね」
「とっても良いお天気ですね」
幸か不幸か見事なタイミングで重なった声に、彼女が一瞬、固まった。私が想定していた一連の流れは、たったそれだけで瓦解した……かに思えた。
しかし彼女はやはり素晴らしい女性だった。
「本当ですか、ありがとうございます」
仄かに照れた風に、けれど嬉しそうに笑う彼女の姿に、私は心から救われた気がした。
気付けば、私は自然とこう告げていた、「素敵な服ですね。何と言うか、清楚で」。
事実、彼女の服装は清楚な感じだった。それがどんな名称の服で、何処のメーカーのものかなんて知らなかったが、とにかく彼女にぴったりの清楚な感じだった。きっと穿いているパンツだって純白に違いない、それも木綿の。こんなにも清楚な女性の下着は木綿で純白なのだと、相場は決まっているのだ。
すると、彼女はまたしても「ありがとうございます」と微笑んだ後で、今度は私に向かって、「えっと、そちらも素敵な服装ですね。その、個性的で」。
個性的、それはつまり特別だと言うことだろうか。だとすれば何と素晴らしい褒め言葉なのだろう。私は早くも今日の「でぇと」が成功に終わると確信していた。
「それじゃあ、何処へ行きましょうか」
可愛らしく問うてきた彼女に、私は歩き出しながら「お昼はもう食べましたか」。
「出掛けに、ちょっとだけ。あんまり時間がなかったから」
「なら、先に少し食べませんか。ほら、腹が減っては軍(いくさ)は出来ぬと言いますし。別に戦うつもりはないんですけどね」
「そうですね。じゃあ、あそこにしませんか」
と、彼女はあっさり頷くと、いきなり前方にあったファスト‐フード店を指差した。
「え、そこですか」。例のファッション雑誌で見つけた、この先にある若者に人気のカフェへ行こうと思っていた私は、思わず足を止めてしまった。
「ハンバーガーとか、嫌いですか。あれなら、簡単に食べられるし、安いからって思ったんですけど」
「あ、いやいや、好きですよ。週に一度は友人と食べますし」
嘘である。それどころか、俗にジャンク‐フードなどとも呼ばれるものを最後に食べたのは、かれこれ一年も前の話だ。それも、同輩に誘われて仕方なくだった。
「良かった。なら、あそこで良いじゃないですか」
否定など出来ようはずもない。何、この程度のプラン変更は想定外なのである。自分で言うのも嫌みったらしいが、私は柔軟な男なのだ。
店に入ると、カウンターの前にはすでに客が列を成していたが、店内のテーブル席にはまだ若干の余裕がありそうだった。
しばらくすると私達の番が回ってきた。「いらっしゃいませ」と、女学生くらいの店員がにこやかにメニューを差し出してきた。
「どうしますか」と、私は佳代子さんを振り返った。まずは女性の希望を尋ねるのがスマートな男子の流儀だ。
すると彼女は大和撫子に相応しい謙虚さで、「お任せします」と応えてきた。私はそれにさすがだと感心する反面、内心で少なからず困ってしまった。
さて、こういう場合は一体どうすればいいのか。「任せられました」と頷きながら、ちらりとメニューを一瞥。そこには写真付きで様々な商品名が並んでいたが、いかんせん、違いがよく分からない。パンの間にあるものがハンバーグだったり、はたまた何かしらのフライだったり、そんな差違であればまだしも、ダブルとかビッグとかスーパーとか、外見上ではほとんど同じものまでどうしてわざわざ呼び名や値段を変えているのか。その上、さらにそれらの下にはセット‐メニューなるものがずらずらと。
しかし、私は勿論、こんな場合の対処法も用意していた。「お薦めは何でしょうか」。
案の定、店員は好意的な態度で「当店ではただ今」と、メニューの中でもとりわけ大きい写真で紹介されているバーガーのセットを示してきた。迷った時は、とにかくお薦めを尋ねればいい、数年前に読んだ日本人作家の処女作に登場する一説だ。
「それから、現在、期間限定でサラダの半額サービスも行っておりまして――」
「そうですか、頂きましょう」
「後、今ならドリンクとポテトを共にキング‐サイズでご注文頂きますと――」
「そうですか、頂きましょう」
「女性の方にはカロリーを控えた――」
「そうですか、頂きましょう」
と、懇切丁寧に説明をしてくれる店員に対して、私が紳士的に対応していると、不意に佳代子さんが「あの」と声を掛けてきた。
「どうされましたか」
「……いえ、その、そんなに沢山、食べられるのかなって」
「沢山、ですか」
私が聞き返すと、彼女は僅かに困った風な笑みを浮かべていた。
なるほど、と私は思い至る。実物を見ていないので深く気にしていなかったが、どうやら私はすでに相当量の注文をしているらしい。だが、そこで急に動揺して彼女に変な誤解を与えてもいけないので、私は平然とした口調のままで「すいません、普段はいつもこのくらい頼んでいるもので。しかし、そうですね、今日はこのくらいにしておきましょうか」。
果たして佳代子さんはそんな私の返答に男らしさを感じたのか、「やっぱり、男の人って凄いですね」としきりに賞賛の言葉を繰り返していた。
やがて私は三千円近い金額を支払うと、店員から〈注文番号7〉と記されたプレートを受け取り、佳代子さんと共に窓際のテーブル席へとやって来た。
二つ並んだテーブルを挟んで向かい合うと、彼女は開口一番、楽しそうに「羨ましいです。あんなに食べても、そんなに細い体型を保ってるなんて」。
「佳代子さんこそ、とても痩せているじゃありませんか」
「全然ですよ、いっつもダイエットで大変なんですから」
「そうなんですか。ですが、そんな必要がありそうにはまるで見えませんが」
「脱いだらもう本当に駄目なんですよ」
「ぬ、脱いだら、ですか」
「そうです。そのくせ、背中や腰の肉は取れないのに、胸ばっかり小っさくなって」
「はぁ……」
「なかなか上手くいかないんですよね」とあどけなく笑う佳代子さんの顔を、どうしてなのか正視し続ける事がはばかられ、私は何となく視線を彷徨わせた。
すると、いきなり彼女の方から「もう、何処見てるんですか」。
「え?」
驚いて顔を上げると、彼女はかすかに怒った風な、だけどその実は会話を面白がっていそうな表情で、軽く胸元を押さえていた。「男の人って、やっぱり胸とか好きですよね」。
「まさかっ。違います、断じてそんな不埒な真似などっ」
「本当ですかぁ」
「あ、当たり前でしょう。全く、からかわないで下さい」
「は~い。すいませんでした」
あまりと言えば予想外の展開に、テーブルの真ん中に置かれた注文プレートを凝視するしかなくなった私の耳へ届いてくる、佳代子さんの可愛らしくも悪戯っぽい声音。それは、いわば二人が早くもずいぶんと打ち解けてきている事を証明してくれるもので、つまりこちらのエスコートが見事なまでに成功している裏付けでもあったのだが、さしもの私も突然すぎて反応に困ってしまった。
いやはや、現代の女性というものは恐ろしい。或いは、これは少し遠回しな照れ隠しなのだろうか。だとすれば、分からなくもない。こんなにお淑やかで慎ましそうな女性でも、いざ魅力的な男を前にすると、緊張のあまりついつい冗談を口にして場の雰囲気を和ませたくなるのだろう。その証拠に、愉快そうに笑う彼女の耳は、心持赤く染まっているようにも見えた。
何と健気な人だろうと、私は感動した。同時に、そんな女性に気を遣わせては男の沽券に関わると、それまで以上にしっかりと彼女を支えて上げなければならない使命を実感した。
「お待たせしました」
と、そこへ店員が二人、それぞれ紙包みやポテトなどで今にも溢れそうなトレイを持って現れた。そして彼女たちはプレートと引き替えにそれらをテーブルに載せ、「ごゆっくりどうぞ」と異口同音に去っていく。あっという間に、テーブルの上は隙間もないほど香ばしい匂いで埋め尽くされた。
……よもやこれ程の量が来るとは。見ているだけで胸焼けしそうな光景に、驚くよりも先に、この店はきちんと収益を上げられているのだろうかと心配になってしまった。
「あの、どうかしましたか」
「あぁ、いや。ただ、あの販売価格でこの量だと、利益率はどれくらいだろうかと考えてしまって。やはり、商売というものは大変そうですね」
「ハンバーガーを食べに来て、そんなことを言う人、今までで初めてです」
「そうですか」
「やっぱり、頭の良い人って違うんですね」
「それほどでもありませんよ」
「ううん、世間だってそう思ってますよ。だってほら、有名国立大学の理系学科で、しかも首席なんて、家庭教師をしていても引っ張りだこでしょ」
どうやら私が同輩から彼女について幾らかの情報を与えられたように、彼女もまた私に関する情報を多少なりと得ているらしい。
そうであるならば、下手な謙遜はむしろ嫌味になるだろう。私は素直に首肯した。
「確かに、報酬などはそれなりに頂いていますね」
「凄いなぁ」
「でも、別にお金が欲しくて家庭教師をしているわけではないんです。実際、自慢でも何でもなく、貯金ならすでに幾らかはありますし」
「じゃあ、どうしてですか」
「人に教えることで、自分自身に足りない部分を知れる場合もあるからですよ。それに、真面目に学ぼうとする彼らを見ていると、こちらも応援して上げたくなるので」
優秀であるという立場に慣れてしまうと、ふとした拍子に気が緩んでしまいそうになりがちだ。だからこそ、ひたむきに励もうとする意欲を間近で見ることは有意義であるのだ。初心忘るべからず。彼らの姿に、私はいつもこの言葉を思い出す。
「本当に、凄いです。尊敬します」
佳代子さんはそう言うと、ますます澄んだ瞳を輝かせる。私にはそのきらきらとした眼差しが、あたかも素直な教え子達のそれと重なって見え、改めて、やはり彼女は純粋な人なのだと実感した。
「それじゃあ、冷めない内に食べましょうか」
「はい。私はそのサラダとかを貰っても良いですか」
「勿論。これだけあるんです、お好きなのをどうぞ」
そう言ってから、私も最も手近な紙包みを開けて、肉とチーズのはみ出したバーガーにかぶりついた。途端に、舌の上に濃厚な肉汁とスパイスの香りが広がって、確かにたまに少量を食べるだけならばきっと美味しいのだろうと感心した。反面、こんな脂っこいものをこれだけ食べきらないとならないのだ、相当の気合いを入れなければならないぞと、覚悟も決めた。彼女の手前、無様な姿はさらせない。
大きなバーガーをかじり、キング‐サイズの容器一杯に詰め込まれたポテトを頬張り、口の中の油をこれまた甘ったるいコーラで流し込み、またバーガーを…。
「……あの、大丈夫ですか」
「はい、何がですか」
「いえ、その、さっきからほとんど喋らずに食べてるから…。そんなに、お腹が減ってたんですか」
「あ、これはすいません」と、私は慌てて手を止めた。
「良いんですけど、ただ、そんなにお腹が減ってたなら、もっとちゃんと食べられる所の方が良かったかなって」
「いやいや、大丈夫ですよ」。そう応えつつも、心優しい彼女の言葉に、敏感な満腹中枢が働き始める前に全てを平らげようと焦るあまり肝心な所をおろそかにしてしまっていたと、猛省した。
そこで私は飲料の容器とは思えないほど重量感のある紙コップを持ち上げて、口の中をコーラで洗うと、しきり直しとばかりに話題を探した。
だが、その時だった。突然、私の携帯電話が無粋な電子音を響かせたのだ。
「そうそう。そう言えば、先日、学校でおかしな事がありまして」
当然ながら、私はそんなものを無視して話を始めようとした。
けれど、ジャケットの内側で携帯電話はまだ鳴り続けている。
「ある授業中の話なんですが、そこで教科書代わりに使っているアメリカ人の論文の内容が、実はすでにドイツの学者が発表していた研究内容とそっくりじゃないかと――」
「あの、出た方が良いんじゃ」と、そこで不意に彼女がこちらの話を遮って、私の方を指差してきた。どうやら、未だに諦めない電話の相手を不憫に思ったらしい。
「いや、しかし」
「急な用件とかだといけないじゃないですか」
顔も知らない相手まで案じることが出来るとは、本当に彼女は心の広い女性だった。「どうぞ、出てください」と、彼女の声は私をそっと促した。
結局、私は電話に出ることにした。「すいません、せっかく会話の途中だったのに」。私の言葉に、彼女は無言でにこりとした。
着信相手は今日のセッティングをしてくれた同輩だった。腹の中で、事情を知っているはずの人間がどうして邪魔をするのだと少なからず怒りが湧いた。
「はい、もしもし」
『お前、今、何処で何してるんだ』
同輩からいきなりそんな風にまくし立てられて、私は反射的に「お前は馬鹿か」と返しそうになったが、眼前の彼女にそんな粗暴な姿を見せるわけにはいかないと、寸前で堪えて紳士的に対応した。
「おかしな事を聞くものだな。当然、佳代子さんと一緒だが」
その直後、電話口からは長々とした溜息と、『…やっぱりかよ』。
「失礼な奴だな。用がないなら切るぞ」
『待て、待て待て。もしかして、あの女もそこにいるのか』
「だからそう言っているだろう」
『なら、今から言うことは絶対に聞かれるな、悟られるなよ』
「何を言っているのだ、本当に」
全くもっておかしな奴だと呆れてしまった。昼間から一人寂しく酒でも飲んでいるのだろうか。それとも、こんな素敵な女性を私に紹介してしまい、嫉妬しているのか。
『とにかく、電話を切るから、メールを見ろ』
「メール?」
そんなものが届いていたことすら気付いていなかった。
『だから言うなって。とにかく、メールを見ろ。出来ればトイレにでも行く振りして、こっそり見ろ』
「どうして私がそんな真似を……」
『あぁ、分かった。なら、もう良いや。もうその場でも良いから、とにかくさっさとメールを確認しろ。そうすりゃ、全部分かるから』
と、同輩は一方的に告げるやいなや、こちらの返事も待たずに電話を切った。何と無礼な男だろうか。彼女がいなければ、私はきっとすぐさま電話を掛け直し、奴の性格についてこんこんと説教をしていたに違いない。
だが、今はそんな場合でなく。仕方なく私は面倒な用事をさっさと片付けようと、携帯電話を操作して受信メールの確認画面を開いた。
同輩の言う通り、そこには一件の新着メールがあった。時刻は、彼女と駅前で出会う、その少し前だった。
「すいません。研究室の者からメールが届いていたようでして」
「ほら、やっぱり大事な用だったじゃないですか」
「もう少しだけ待って頂いてもよろしいでしょうか」
「はい、どうぞ」
私は「ありがとうございます」と一礼し、メールを開いた。
愕然とした。
「どうか、しましたか」
「あ、あぁ、いえ……」
彼女が心配そうに問うてくれたが、私にはきちんと答えるどころか、まんぞくに表情を整えることさえ出来ていなかった。ただ、辛うじてメール内容を悟られることだけは回避出来たようだった。
〈悪いっ、今日のデート中止にしろ!あの女、かなり遊び人らしいっ!〉
焦燥感の伝わる文面の後には、見知らぬ男と二人で仲睦まじそうに歩いている佳代子さんの写真が貼付されていた。しかも、そこにいる彼女の服装は、太股も露わなミニスカートに、歩くだけで道に穴の開きそうなハイヒール、原色が目に痛い上着というもので……。
「あの、大丈夫ですか」
気遣わしげにこちらを見つめてくる佳代子さんの姿が、一転して、何か得体の知れない存在に思えてきた。
「あぁ、いえ。その、ちょっと実験が失敗したようで…」。私は引きつりそうになる頬の筋肉を叱咤して、笑みを形成した。成功しているかどうかは定かでなかったが。
何と言うことだろうか、それが許される場所であれば、私は立ち上がり大声で叫んでいただろう。佳代子さんは、いや、この女は、私や同輩を騙していたのだ。清楚なんてとんでもない、純白の木綿などとんでもない、この女は、初対面の男の前にも平気な顔をして真っ黒のパンツを穿いてくるような女だったのだ。
私はすぐさま帰ろうとした。こんな茶番に付き合っているなど、時間の無駄だ。
だが、そこで急に、私の中で抑えがたい感情が湧き上がった。
すなわち、正義感だ。このまま彼女を放置しておくのは男としての、人としての道理にもとると、私は意を決した。
「佳代子さん」
静かながらも力を込めた声に、ジュースを啜っていた彼女は「何ですか」と、一見すれば純朴そうな眼差しを向けてきた。
しかし、もう騙されはしない。私は冷徹に告げた。「あなたは、間違っている」。
「え、私、何か間違えましたか」
「確かに、年頃で遊びたい盛りなのは分かる。誘惑も多いだろう」
「はぁ……」
「しかし、だ。だからといって、人の心を弄んで良い権利など誰にも無い」
「あの、どうしたんですか」
「これを見なさい」と、私はまだとぼけようとする彼女の前に、同輩から送られてきた写真画像を画面一杯に拡大して突きつけた。「恋をすることは素晴らしいが、それはあくまでもたった一人の、本当に大切な相手とのみすべきもので」。
「あれ、お兄ちゃん」
「そう。それは例えばお兄ちゃんのような―お兄ちゃん?」
思いがけない単語の登場に、私は続けようとしていた言葉を失ってしまう。
対して彼女は、不思議そうな顔で「これ、一昨日にお兄ちゃんと買い物に行った時ですよ。その、今日に着てくる為の服を買いに行ったんです」。
「……今日の、服?」
「私、あんまり男の人の服装の好みとかってよく分からなくて。だから雑誌を見たりして色々と試したんですけど、何か、しっくりこなくて。あ、ほら、この時に着てるのも、その内の一つなんですけど。…正直、こんなに派手な服って、ちょっと恥ずかしいって言うか、大人っぽすぎるって言うか」
「………………」
「だから、それならいっそお兄ちゃんに聞いてみようと思って。身内ですけど、一応、お兄ちゃんも男の人ですから」
そう言うと、彼女は隠し事がばれた時の子供みたいに、かすかに気まずそうな、それでいて照れ臭そうな微笑みを浮かべた。
私は、無言で彼女から視線を逸らし、改めて写真を眺めてみた。
……言われてみれば、確かに、写真に写っている男女は、きわめて仲の良い兄妹のようにも見える。それに、決して彼女の雰囲気にそぐわない遊び人じみた格好も、よくよく観察してみれば、無理をして着飾っているだけという風な違和感に満ちていた。
「もしかして、私、誤解されちゃってました?」
「あ、いやっ……」
何と言うことであろうか。私としたことが、とんでもない失態を犯してしまっていたらしい。服装に関する悩みは自分自身でも十分すぎるほど味わっていたというのに。
私は激しい悔恨と恐怖のあまり、すぐさま謝ることさえ出来ずにいた。
だけどそれなのに、彼女は、佳代子さんは、ろくに真偽を確かめもせずに信頼を踏みにじった愚昧な私に対して、あろう事か困り顔にも似た表情で、「ごめんなさい。そんな格好をしていたら、誤解されるのも当然ですよね。本当に、ごめんなさい」。
信じられなかった。悪いのは間違いなくこちらであるのに、佳代子さんは、とても丁寧に頭を下げてきたのだ。
再び顔を上げた時、私の目に映った彼女の眼差しは、うっすらと赤くなっているように見えた。
私は、心の底から彼女に対して謝罪の念を抱き、それ以上に、感動に打ち震えた。
同輩よ、お節介な同輩よ、私達の早とちりのせいで傷つけてしまったにもかかわらず、それでも尚、彼女は私達を責めるどころか案じてくれている。これほどまでに素晴らしい女性が、果たして他にいるだろうか。否、断じて否だ。
彼女こそ、真の女性なのだ。
私は立ち上がり、深々と頭を下げた。「本当に、申し訳ありませんでした」。
「そんな、謝らないで下さい。悪いのは、誤解されるような格好をしていた私なんですから」
「いえ、外見だけで人を判断してしまう事の愚かさに加え、あなたのように純粋な人をほんの一瞬でも疑ってしまうなど、最早、罪です。罪悪です。犯罪です」
「大げさですよ」
「大げさなんて、とんでもない」。私は顔を上げ、必死に訴えた。「どうすれば、一体どうすれば、この死罪にも匹敵するだろう過ちを、ほんの少しでも許して頂けるのでしょうか」。
すると彼女はかすかに苦笑して、「あの、とりあえず座りましょうよ。他の人も見てますし」。
言われて初めて、私はそこが公共の場であることを思い出した。「あっ、すいません」。私は慌てて腰を下ろした。「……本当に、重ね重ね。全く、何とお詫びすれば良いか」。
「もう良いですから。あんまり気にしないで下さい」
「いえ、そうはいきません」
私は彼女を正面から見つめた。すると、こちらの誠意が僅かなりと伝わったのだろうか、やがて彼女も真面目な表情になり……。
「……分かりました」
と、彼女が頷いた。私は覚悟を決めた。
ややあって、彼女はこんなことを言った。
「それじゃ、この後、少し買い物に付き合って頂けませんか」
「……買い物、ですか」
驚く私に、佳代子さんは可愛らしい笑みを浮かべて、「はい、買い物です」と言った。
「実は、もうじきお姉ちゃんの誕生日なんです。だから、そのプレゼントを一緒に選んで頂けませんか」
最早、私の心には彼女が単なる女性でなく、いっそ女神のごとき存在として感じられていた。これ程までに心が広く、慈愛に満ちた女性が本当に現実にいるのだ、神様仏様天使様が実在した所で何ら不思議ではないだろう。
勿論、私の回答など決まっていた。
「嬉しいです。じゃあ、これを食べたら行きましょうか」
彼女の明るい声に、私の胸の支えは綺麗さっぱり消え去って、そのせいか途端に腹が空いてきた。テーブルの上に未だ大量に残るポテトやジュースでさえも足りないくらいだ。
私がそれらを平らげるまで、五分と掛からなかった。
雨降って地固まると言う言葉ではないが、ファスト‐フード店を出た時、私達の距離は入る前よりもかなり縮まっている気がした。彼女もまた私と同じ気持ちだったに違いない。隣りで笑う彼女の様子に、私はそう確信した。
私達は並んで歩き出した。胃袋は今にも破裂しそうなくらいだったのに、体は羽根でも生えたみたいに軽かった。
と、楽しく会話をしながらしばらく歩いた時、唐突に、私の中で一つの疑問が生まれていた。しかし、それはあまりと言えば非常識な疑問で、私はそれを口に出すまいと考えた。だが、それなのに、或いはそんな意識のせいなのか、むしろその疑問は加速度的に大きく重たくなっていき……。
ふと気付くと、私はいつの間にか、歩道の真ん中で足を止めてしまっていた。
「どうしたんですか」と、彼女が振り返り小首を傾げた。
私はその姿に、少なくない躊躇いを抱いた。あくまでも学術的好奇心から生じた疑問であり、嫌らしい下心など皆無だとは言え、彼女からすれば決して愉快な問いかけではなかったはずだからだ。
けれど、元来が研究者気質の私が、ましてや彼女のような類ない存在を前にして、そういつまでも耐えられるはずが無く。
私は遂に、口を開いてしまっていた。
「もの凄く不躾な質問であることは重々承知しているのですが」
「はい、何でしょう」。こちらを包み込むような笑みが、最後に私の背中を押した。
そして私は、単なる純粋な少女の範疇に収まらず、当然ながら不埒な尻軽女でもない、彼女のごとく素晴らしい女性の穿くパンツは一体どんなものであるのかと、心中の疑問を真っ直ぐにぶつけた。
「え……」
瞬間、彼女の顔が驚きで固まった。だが、それでもしばらくすると、私の実直な態度から彼女もまたそれがとても高尚な質問であると悟ってくれたらしく。
直後、一転して真剣な表情になった彼女が、すっと私の顔へ口を近付け、こっそりと耳打ちをしてきた。
私、パンツは穿かない主義なんです、と。
……言われた意味をようやく私が理解したのは、やがて顔を離した彼女が「ほら、行きましょう」と頬を赤らめながら促してきた後だった。
「え、それは、つまり……」
かつての日本に於いて、女性の下着の線が服に写ることを避ける為、そう言う習慣があったらしい話は知っていた。だとすれば、佳代子さんのように奥ゆかしい女性が古来の風習に則った生活をしているのも、なるほど、頷ける話だった。
やはり己の目に狂いはなかったと、私はこちらへ向けられる笑顔を見て確信した。今度こそ、私の身は完全に重力から解き放たれていた。
「まずは何処へ行ったら良いと思いますか」
「お姉さんは、どんな方なんですか」
当初の予定とはずいぶんと違ってしまっていたが、こんなにも楽しそうな彼女を前に、そんなことはどうでも良かった。私は融通の利く男であり、相応に資金も準備してきているのだ。それに、何より…。
「そうですね、結構、私と似てると思います」
「だったら、佳代子さんの好みに合うものを探しましょう」
未来の義姉への贈り物を二人で選ぶなんて、とても素敵な「でぇと」ではないか。
私は幸せな気持ちで隣を歩く佳代子さんを見つめながら、きっと彼女こそが、将来、私の妻になる人だろうと、とても素直に感じていた。
〈了〉
ぱんつの色 淺羽一 @Kotoba-Asobi_Com
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