にんぎょひめ

淺羽一

〈短編小説〉にんぎょひめ

『泣きそうな時に声を聞かせてくれたらさ、涙が落ちる前に迎えに行ったるやん』

 その台詞があんまりにも格好付けててキザったらしくて嬉しくて、思わず泣いたら、電話の向こうは急に焦ったみたいに『え、ちょ、早ない?』

 だから私は言ってやった、「うそつき」とことさら冷たそうに。

 でも、安心してくれて良かったのだ。あれは嬉しい涙だから。そして冷たい態度は、そうでもしないといつまでも涙が止まってくれそうになかったから。

 薄い携帯電話の向こうから必死になってこちらの機嫌を取ろうとしてくる声に笑いを堪えながら、いつの間にかもうどうして泣きそうになっていたのかそんな大本の理由さえどうでも良くなっていた。





「人魚姫ってさ、ハッピーエンドやん?」

 やる気の出ない合コンで不意に聞こえてきた言葉に、私は思わず目の前の生春巻きを解体する作業を中断して顔を上げた。

 一体どういう話題の流れになっていたのか、まるで見当の付かない自分に我ながら鬱陶しい女だろうなと呆れつつも改めて周囲を窺ってみた。テーブルの端で空気を読まない私を除いた面々は、なるほど誰もが楽しそうだった。でも、そんな中で不思議と私の目を引いたのは一人の男性だった。直感的に、先ほどの発言は彼のものだと思った。

 果たして、私と彼を除く全員の反応はいかにも信じられないとでも言いたげな「え~?」

「人魚姫ってあれだろ? 男に尽くすだけ尽くして、最後は泡になっちゃうやつだろ?」

「確かに素敵なお話だけどさ、童話の中でも有名な悲恋じゃない」

 終いには「いやいやお前どんだけMなんだよ」なんていっそ嘲りにも聞こえそうな冗談に皆が盛り上がる中、しばらく黙っていた彼はやがてあたかも満足した風に「いや、関西人としてはここらでボケとかんと」とことさらおどけて言った。だけど、ほんの刹那、それは単なる私の勘違いだと言われたら否定出来ない程度の短い間であったけれど、彼は悲しそう……いや、寂しそうに微笑んだ。

 私は多分、その一瞬に引かれた。

 気付けば言っていた。改めて思い返してみても、おそらくそれが挨拶以降で初めてまともに会話に参加した瞬間だった。「私も、そう思ってた」

 はっきりと分かった。それは明らかに場の雰囲気にそぐわない発言で、現に全員が今さら何言ってんだこいつとでも言いたげな視線を向けてきた。

 あぁ、またやったと思った。いつもそうなのだ、あたかも他人の会話を逆流するようについつい要らない事を言ってしまう。

 ごめんなさい、と言うのも最早はばかられ、私はすごすごと再び町工場のパート作業員よろしく先ほどまでの続きに戻ろうとした。

「ちょっと、あかんで~。その優しさはボケ殺しやわ」

 と、下げた頭がテーブルと平行になろうかという寸前、またしても私の耳にその声が飛び込んできた。「せやけど、なんやありがとうございます」

 それが自分に向けられた言葉だと気付くまで、さらにはそれこそが彼なりの優しさだと理解するまで、数瞬の間を要した。

 ゆっくり顔を上げると、思い切り視線がぶつかった。男慣れしていない子供じゃあるまいし、そのくらいで照れるなんて有り得ないはずなのに、反射的に彼の頭の向こう側を見るように目を動かしていた。

 直後、彼がわざとらしく周囲を窺うように顔を回してから、「って言うか、さっきから思っててんけど、志田しださんってもしかして……スパイ?」

 は、と固まった。しかし彼はそんなこちらの反応を予期していたのか、満面の笑みで、「いやいや、だってさっきからめっちゃ真剣に味の秘訣を探ろうとしてるやん」

指差された先を辿れば、なるほど確かに材料の一つ一つまでバラバラにされた二本分の生春巻き。

「けどさ、情報収集はやっぱこっそりやらんと。まぁ、どうしてもって言うなら、何なら俺ここでバイトしてもえぇけど。会社には内緒で」

 後半は明らかに私でなく他の面々に向けての冗談で、実際、彼はもう私を見ていなかったし、皆もさっさとそれをきっかけにした次の話題で盛り上がり始めた。だけど私はもう顔を下げなかった。

 やはりそれ以降も積極的に会話へ参加する事はなかった。ただ、それまでの自分の行動があまりと言えば身勝手だったなと、遅まきながら反省したのだ。そしてそのきっかけは間違いなく彼だった。私には、先ほどの彼の言葉が「もう少し今のこの場を楽しもうよ」と言っているみたいに聞こた。

 合コンが終わり駅も近付く解散間際、彼がこっそりと「ごめんね」と言ってきた。

 私はまるで予想していなかった謝罪にびっくりして彼を見た。すると彼はかすかに気恥ずかしそうな笑みを浮かべて「ちょっとネタみたいに使ってしもたから、気ぃ悪くしてたらって思って」

 いい人なんだな、素直にそう思った。あまり聞き慣れない関西弁も、いつしか自然と受け入れられていた。そうしたら「あ、やっと笑ってくれたやん」と小さく言われた。私は笑っていたらしかった。

「よっしゃ。これで今日も全員を笑わせたな」 冗談めかしたその言葉に今度こそ私は吹き出した。

 やや前方を歩く友人達や他の男性陣はこちらなんてまるで気にしていなくて、明るく会話しつつも、それよりも付かず離れず微妙に変化する距離感を互いに測っている風だった。隣を窺うと、彼はまだそこにいた。と、改めて意識したら急に緊張してきた。ただし、それは決して嫌なものでなく、むしろ何処か懐かしい感じさえした。

 機会があるとすれば今しかない。自分でも驚きだったのだけれど、自然とそう思った。そうしたら後はもう、ほんの少しだけ活動的になった心臓の勢いが後押ししてくれた。

「……あの、メルアドとか、聞いても良いかな」

 すると彼はほんの一瞬、きょとんとした表情を浮かべたものの――

「勿論、何なら実家の住所まで教えてもええで、めっちゃ遠いけど」

 人懐っこそうな表情で応えてくれる彼を眺めながら、そう言えば自分から異性の連絡先を聞いたのは短大を出て社会人になってから初めてだと気付いた。

 一分後、私の携帯電話のメモリーに〈 河井健吾かわいけんご 〉が追加された。





 当時、私には好きな人がいた。

 あの頃は本気でその人こそ世界で一番に素敵だと信じていたし、何よりも私にはその人しかいないんだとしていた。一人でいる時に感じる心の隙間みたいなものが、その人と一緒にいると綺麗になくなって、あぁやっぱりこの人が私にとっていわゆるパズルの最後のピースなんだ、なんていかにも時代遅れの恋愛小説のヒロインが言いそうな事を現実に考えていた。そして同時に、だとしたら私はもう一生、幸せにはなれないかも知れないと、絶対に受け入れがたい可能性を大人ぶった諦観で誤魔化していた。

 一回り近く年齢差のあるその人には、結婚五年目になる綺麗な奥さんとまだ幼稚園にも通っていない子供がいた。奥さんの話を滅多にしない彼の口から、だけど時折こぼれる娘さんの日常は、自称「冷めた夫婦関係」と裏腹に幸せそうで、おそらく私はきっと心の何処かで自分が騙されているだけだとぼんやり理解していた。ただ認められなかっただけで。

 正直に告白すると、私にとって健吾は「男」と言うよりも「お友達」と言う感じだった。いや、それも嘘だ。本当は、その都度「男」と「お友達」の間を行ったり来たりさせられる便利な相手として使っていた。

 例えば、不倫に溺れる私を助けようと言う名目で合コンに誘ってくる友人達の前では完全に前者として。最近少し冷たくなった彼の気を引く為に軽く嫉妬でもさせようと企んだりした時なんかは両者の丁度真ん中くらいの存在として。

 全くもって我ながら嫌な女だなと自覚していたが、それもこれも彼が私をちゃんと愛してくれないせいだと勝手な責任転嫁をしては、健吾に対する後ろめたさを誤魔化していた。要するに、私は紛れもなく嫌な女だった。

 それでも、健吾は優しかった。と言うよりも、もっと相応しい表現をするとすれば、二つ年上だという事を差し引いたとしても、"キザ"、これに尽きた。何となく、関西人はむしろそう言うのを嫌うイメージがあったし、何より関西弁でロマンチックな言葉を並べられてもこそばゆいだけだったから素直にそう言ったら、「アホやな。そのギャップがええんやんけ」

 後になってから考えると、健吾はきっと全てを分かっていた。実際の年齢よりも遙かに大人びた考え方をするくせに、どんな時でも絶対に直そうとしない関西弁が見事にお調子者風で、誰の前でも常にいかにも滑稽な人間を演じていたけれど、本当の彼はとても真面目で温かくて何より頑固だった。だからこそ、私はこちらが傷ついている様子を見せればいつでも構ってくれる健吾に、心の何処かで「簡単な男だな」と侮りつつ、甘えてしまっていた。現実は、単に彼が甘えさせてくれているだけなんだと言う真実にも気付かずに。

 私はすでに幸せ者だったのだと、どうしてもっと早く分からなかったんだろうと心から思う。記念日やたまの休みにかこつけては体を求められるだけの関係に喜びの反面、堪らないほどの寂しさを感じる度、健吾を電話で居酒屋に呼び出しては、学生時代、戯れに傷つけた腕に残る線のような跡をこれ見よがしに掲げて、

「あの人は、昔、どうしようもないほど落ち込んでいた私を救ってくれたヒーローなのよ」

 と繰り返し、その一方で、

「だけど、今はあの人のせいでとてもとても苦しいの」

 そして最後には決まって「だって好きなんだから、どうしようもないじゃない」と泣いた。

 鬱陶しい女だ、それもとびきりの。大して酒に強くもないのに酔っぱらってはくだを巻く女なんて、自分が男ならよっぽどの美人でも終いには面倒になるはずだ。ましてや、私は不細工でなかったとしても美人だなんて自慢出来るほどでもない。その場の勢いで酒を浴びる事があっても体型にはわりと気を遣っていたし、多少は化粧にも自信があったものの、それでも私より魅力的な子なんて数え切れないくらいにいる。そんな中途半端さが、余計に私を縛り付けて動けなくしていた。

 でも、そんな不安定な日常が永遠に続くわけもなく。あの日、きっかけはどうせ約束を忘れられていたとか行為の最中に奥さんの名を呼ばれたとか、そんなどうでも良いものであったと思うけれど。いずれにせよあの人と喧嘩した私は遂に、爆発した。そして全裸のままで台所から取り出した包丁を振り回し、一方的に「もう別れて」と叫び彼を部屋から追い出した。途端に小さくなった自身をぶら下げて女子みたいな悲鳴を上げながら下着やらカバンやらを掴んで逃げて行く後ろ姿は、あまりにも情けなくて、本当に何処にでも転がっていそうな中年じみていて、やがて部屋で一人きりになった瞬間、あぁどうして私はあんな男に夢中になっていたんだろうと思うと同時に膝から力が抜けてへたり込んだ。思い切り握りしめていた包丁は、柄に指が食い込んでしまったみたいで右手から離れなくて、まるで現実感のないものだった。

 一体どれくらいの間そうしていたのか。汗ばむほどに暖房の効いた部屋で私は顔や目が痛いほどに乾いているのを感じた。改めて右手に意識を向ければ、呆気ないほどあっさりと指は開いて包丁を放した。私は立ち上がって風呂場に行き、熱いシャワーを全開にして、その下にしゃがみ込んで膝を抱えた。冷えた浴室に白い蒸気が広がり、思わずむせそうになったけれど動かなかった。

 泣かなかった、自分でも不思議だったが。或いは泣けなかったのかも知れない。

 もしも泣いていたら、後でさらに惨めな気分になったとしても、その時だけは楽になれただろうに。

 私は独り言どころか呼吸音さえまともに口から吐き出さず、ややあって身を起こすと全身をボディソープで何度も洗った。顔も髪も関係なくごしごしとこすった。髪に指が絡まっても無視した。目に泡が入っても止めなかった。おそらく一時間以上そうしていた。

 浴室を出てリビングに戻ると、そこには彼の残り香と一緒に二人の時間の残骸が散らばっていた。けれど私は一切を視界から追い出して、下着を穿き、包丁を片付け、やがて半分ずり落ちていたシーツを完全にベッドから蹴り落とし、その上に体育座りをした。枕元にはあの人から貰ったストラップを付けた携帯電話があった。

 携帯電話に手を伸ばして、外したストラップをゴミ箱へと投げた。お粗末なコントロールは見事にストラップを見当外れの所へ落としたが、わざわざ立ち上がりはしなかった。

 ほんの束の間、躊躇したものの、私は携帯電話を操作した。

 折りたたんだ膝の上で小さなスピーカーから呼び出し音が漏れる。

 出ないかも知れない、そう思った。だって夜中の三時だ。きっと寝ていた。いっそ無視してくれれば良いのに。矛盾するようだけどそう願いもした。五回目の途中で、呼び出し音は唐突に途切れた。

『……もしもし』

 明らかに眠そうな声だった。私はすぐに応えられなかった。すると健吾は僅かに間を置いてから、『どうした』と言ってきた。それはもう普段通りの声だった。

 彼はいつも「何かあったか」とは聞いてこなかった。ただ「どうした」とだけ言ってきた。今日はどうした。いつでも優しく、最初にそう言う。それはつまり、私がほとんど何かあった時にしか彼に電話をしていない証拠だった。

 私は携帯電話を強く耳に当てた。何も答えられなかった。口を開けば泣き出してしまいそうだった。そしてそこで泣いたらそのまま狂ってしまいそうで恐ろしかった。

 すると彼は、あろう事か『泣いてんのか』と言ってきた。

 どうして分かるのかと驚いた。何てデリカシーのない男だと呆れた。

「泣いてない」

 気付けばそう返していた。

『ほんまか』

「泣いてない」

『ほんなら、どうした』

「……ちょっと、暇だったから」

『そうか。それはまぁ、何て言うか、大変やな』

「ごめん、迷惑だったよね」

『別に、もう慣れた』

 そう言うと電話の向こうで彼がかすかに笑ったのが分かった。私は思わず「ごめん」

『構へんよ』

 やっぱり彼は穏やかに笑って言った。変に慰められるよりも、その方が余計に涙腺を刺激して、私は反射的に歯を食いしばった。

『泣いてへんねやったらええよ』

「泣いてる女って面倒くさいもんね」

『アホか、そう言う意味ちゃうわ。あんな、電話の向こうで泣かれても慰めにくいやんけ』

「うそつき。だって、冗談とか得意じゃない」

『本気で泣いてる女が下手くそな冗談なんか聞くかいな。せやからな』

 と、そこで健吾は言葉を切った。それきり、電話越しには呼吸音さえ聞こえなくなる。

 私は不意に訪れた沈黙に、かすかな不安を覚えた。だから思わず急かすように聞いた。「何……?」と。

 果たして、彼は言った、あたかも意を決した風な口調で。

 それはまさしく彼らしい台詞で、本当に単なる冗談っぽくて、だけどこの時の私にとっては他のどんな言葉よりも優しく心に刺さって全身に染みた。

『泣きそうな時に声を聞かせてくれたらさ、涙が落ちる前に迎えに行ったるやん』

 あぁ、私は一人じゃないんだ。そう思ったらもう、涙なんて抑えられっこなかった。





 私は、毎日が自分次第でこんなにも楽しめるものだなんて知らなかった。

 幸せだった。彼は相変わらずだったし、日常だって私の周りではさしたる変化もなかった。にも関わらず以前と全く違ったのは、詰まる所そう言う事だった。

 あれからしばらくして私と健吾は一緒に暮らすようになった。私としてはそうなれば良いなと思っていたものの、さすがにそんな事を言うと重いと思われるなと諦めていた。だからこそ、急に言い出した彼に驚いた。

「お前、いつ泣くか分からんしな。それやったら最初っから一緒におったら、こないだみたいにお前がいきなり泣いても俺は『うそつき』にならんで済むし」

 本気とも冗談とも付かない口調の提案に、私は表面上「馬鹿じゃない?」と返していたけれど、内心では喜びに悶え転がりそうだった。実際、彼の部屋に引っ越す前夜は、準備があるからと彼が帰った後にベッドの上で枕を抱きながらほとんど徹夜で妄想した、これってまるで新婚さんみたいじゃない、なんて。

 実際、私は二人暮らしに慣れるまで――照れ隠しという意味もあり――ずっと新妻よろしく接していたし、健吾もまたそれを楽しんでいる風に見えた。だからいつしかそんな日々を自然と過ごせるようになってからも、将来的にはこのまま彼と本物の家庭を築けたらどんなに素敵だろうかと期待していたし、彼の方もそれは時期の違いこそあれ同じだと思っていた。それどころか、まだ言葉にしてこないだけで彼の事だからきっともの凄いプロポーズなんかを考えてるんじゃないかとさえ。結論から先に言えば、彼に私と結婚する気なんてさらさらなかったのに。

 健吾は勿論きちんとした場ではTPOをわきまえている人であったが、そうでない場合は何処に行く時も変わらなかったし、また好奇心が旺盛なのか単なる子供なのか色んな場所へ私を連れて行きたがった。ただ、唯一の例外、と言えるのかどうか微妙なのだが、とにかく病院だけは嫌いだった。

 例えば、私が少しでも調子を崩すとすぐに大騒ぎして、救急車よりも俺が担いで行った方が早いとか言い出しそうなくらいの勢いで私を病院へ連れて行こうとするのに、自分が怪我をしたり風邪を引いたりしても、まず私が怒り出さない限り病院へ行こうとしなかった。しかも、多少の不調であればまだ見逃して上げられもするが、いよいよ高熱を出していい加減に点滴の一つでも打って貰いなさいと無理矢理に連れて行ったとしても、お医者さんや看護師さんが、ましてやそれらが女性だったなら尚更に、調子や具合を尋ねられても強がって笑って「大丈夫です」としか言わなかった。こんな時まで格好付けて、横で付き添っている私が本当に馬鹿じゃないのと怒っても、「格好付けられなくなったら、それこそ男はお仕舞いだ」とかなんとか。

 全くもって呆れる話で、遂には私も情けなくなって、そうして思わず泣いてしまって、するとようやく気まずそうに小さくなって「……ごめん」と治療を受けてくれる。周りで見ている看護師さんも最早みんな苦笑いだ。

「あなたみたいな馬鹿、一度本当に死んじゃいなさいよ」

 病院帰りの車内で拗ねる私に、助手席から「そんなん言うなよ~」と笑う彼。本当に心配したんだからと泣き出しそうになるのを堪える分、いつもより冷たい口調になってしまう私に、彼が最後の武器とばかりに「好きやで」とか「愛してんねんから」とかを連発してきて、そうやって結局は私も許してしまう。

 はっきり言って、それに関してはまるで嬉しくないお決まりなのだが、とりあえずそれも含めて私たちは安定した日々を送っていた。少なくとも私はそう信じていた。だから、彼と同棲を始めておよそ一年と四ヶ月、それは偶然にも私の誕生日の丁度一月後にやってくる彼の二十六歳の誕生日の夜、腕によりを掛けたご馳走を前にした彼が「いただきます」よりも先に口にした内容に、今晩は朝までいちゃいちゃしようと浮かれていた私はベランダから突き落とされたかのような気分を味わった。

「俺達、別れよう」

 いつものお気楽な口調とはまるで異なる話し方に、彼は本気だと直感した。「ちょっと待ってよ」と狼狽える私に、彼は短く「ごめん」と言った。

 私は嫌だった、絶対に。また同時に理解出来なかった、こんなにも幸せな日々を壊そうとする彼が。それとも、彼にとって私との暮らしは苦痛なものだったのか?

 あまりにも混乱していたのだろう、気付けば私は泣きながらテーブルを離れて、誕生日プレゼントにと買ってあったイタリアブランドの男性用長財布を取ってくると、乱暴に包装紙を破り、

「これ、ほら、欲しいって言ってたでしょ。私、ちゃんと覚えてたよ」

「そう言う事ちゃうねん」

「あ、なら、これ? 料理が気に入らなかった? ごめん、すぐに作り直すか」

恵美子えみこ

 こちらの言葉を遮って紡がれた私の名前は、決して激しい響きでなかったのに易々と私の動きを止めた。そして私はふにゃふにゃとその場に崩れ落ちた。頭上から聞こえてくる声には耳を貸さずに首を横に振り続けた。

 突然に抱き締められた直後、鼓膜へ直接に流し込まれるように声が聞こえてきた。「恵美子、頼むから」と。

 何を頼むの、と思った。そんなにも私と別れたいの、と思った。私の事が嫌いなの、と叫んでいた。

「うそつき」 私はそう言った。彼の腕を払いのけて立ち上がり何度も何度もそう言った。その度に、苦しそうに、今にも泣き出しそうに顔を歪める彼が許せなくて、新品の財布を思い切り投げつけて怒鳴った。すると悲しそうに彼がそれを拾ったりして、その行為がまた余計に憎らしかった。

「浮気してたんだ」

「いや、してない」

「他に好きな女でも出来た」

「そんなやつおらへんよ」

「なら私の事、嫌いなんだ」

「嫌いちゃうよ」

「だったら何でよ。理由を言ってよ」

「…………」

 そして沈黙、辛そうな表情。いっそ「お前みたいな鬱陶しい女、最初から本気じゃなかってん」とでも言われた方がマシだとさえ思えた。何故なら、それらはつまりその理由が私にはおそらくどうする事も出来ないものである証拠みたいなものだったからだ。彼の性格なんてとっくに知っていた。私は卑怯な手段に出た。

「こんなの、健吾らしくないよ。何でよ、せめて理由を教えてよ。それとも、それも言えないくらい私なんて信用出来ない?」

 狡い女だと思った。この時ほど涙よ止まるなと思った経験なんて一度もない。

 嫌らしい意味でなく、単純に彼は泣いている女を放っておけない。苦しんでいる相手を無視出来ない。ましてや、それがいじらしくも気丈に振る舞おうとしている様を見せられたら、冷たくあしらえるはずもない。

 彼は黙っていた。だけど、改めて確かめるまでもない、内心の葛藤がありありとその眼差しに浮かんでいた。

 ほら見なさいと思った。そこで私は最後の駄目押しとばかりに、言った。

「私は、何があっても、健吾の事を信じてるよ」

 真っ赤になっているだろう瞳で真っ向から彼を見つめた。

 果たして、彼はぽつりと、何かを言うと言うよりも気付かぬ内に漏らしたと言う感じで吐き出した、「……ほんまは、もっと早く別れるつもりやってん」と。

 私は待った。何を言われても絶対に離ればなれになるつもりなんてなかった。そして遂に彼は言った。

「俺な、もうあんま生きられへんねん」

 本当に下手くそな冗談は、涙を止めてしまうのだと知った。





 格好良い男になりたいと、かつて健吾は言った。でも、その「格好良さ」は、正直な所、女の私が考えるそれとは微妙に違った。そう言う意味では、彼の前に付き合っていた男はそれを女に合わせるのが上手かった。だけど健吾は、男にとっての理想と女にとっての理想とが異なっている事実を理解した上で、だからと言ってそれを簡単に変えてしまうのはそれこそ男らしくない――格好悪い行為だと考えていた。

 私はそれを初めて聞いた時、やっぱりこの人は根っからのキザ野郎だと、決して馬鹿にしているのでなくそう思った。そして同時に、私が支えて上げないと、きっとこの人は不幸になる……と言うよりは幸せになれないと思った。だって、他人の傷を癒すだけでなく、傷そのものを代わりに背負おうとする生き方は、なるほど自己犠牲的でハードボイルド小説の主人公っぽいけれど、要するに究極の強がりでしかない。それなら、むしろ弱っている姿を自分だけに見せてくれた方が、自分は必要とされてるんだと安心出来るし、もっと単純にこちらも相手を愛しやすい。

「人魚姫ってさ、どうしてハッピーエンドだと思ったの」

 初めて彼と結ばれた夜、今さらながら裸で抱き合っている状況に気恥ずかしさを覚え、戯れにそんな事を聞いた。

 すると彼はシーツの下でもぞもぞと動いて私の視線に後頭部を向けると、「あれってさ、人魚姫の方は消えてまうけど、そのおかげで男の方は幸せになるやん」

 私は、あれ、と思った。何故なら、それは自分の理由と似ているようで少し違ったからだ。すると彼はそんなこちらの想いを感じたのか、再びぐるりと体を回して「そっちこそ、何で」

「え、と」と私は口ごもった。本音を言ってしまって良いものかどうか、少しばかり悩んだからだ。だけど、彼の眼差しがあんまりにも真っ直ぐだったから、むしろそんな小賢しい考えを抱いている事こそが悪い気がして、正直に告げた。

「人魚姫ってさ、最終的には泡になっちゃうけど、逆に言えばそこまで本気で誰かを好きになれたって事でしょ。それって、とっても幸せじゃない」

 直後に彼が浮かべた嬉しそうな笑みを、それに弾んだ胸の動きを、私はきっと生涯忘れないだろうと思った。

「なるほどなぁ。せやな、そっちの方が綺麗やな。うん、やっぱり志田ちゃんはええ子やな~」

 そう言ってぎゅ~っと抱き締めてくれたのは嬉しかったものの、我が儘を言えばもう少し彼の顔を眺めていたかった。後になると、それはまだ私を名字で呼んでいた彼にとっての照れ隠しなのだと分かるのだけれど、当時の私はただただ幸せで、またそれで十分だった。

 亡くなるしばらく前、病室で寝たきりとなっていた彼はふと思い出したように「俺は幸せだった」と言った。「言った」と言っても、声に出して発言したわけじゃない。すでに全身の筋肉がほとんど機能しなくなっていた彼にとって、コミュニケーションの手段は私の持つ文字盤に並ぶ平仮名を一つ一つ順番に目線で指すと言うものだった。

〈おれが にんぎよひめ えみこ おうじさま〉

 一瞬、何の話をされているのか分からなかったが、じっとこちらを見つめる眼差しに記憶を掘り起こされた。

 頬が火照るのを自覚した。それは彼からの告白だった。でも、その一方で目頭が熱くなるのも実感した。すでに受け入れて覚悟していたはずの現実なのに、改めて彼から言われるとやはり悲しかった。

 もしも健吾の言う通り、私たちの物語が人魚姫であったなら、私は躊躇わず隣国の王女などでなく彼の下へ走っていただろうし、そうすれば彼もまた泡と消えずに私と結ばれていたはずだ。私はお城を追い出されてしまうかも知れないし、彼だって二度と海の中へは戻れないかも知れないけれど、それでもきっと、絶対に、間違いなく、沢山の人に祝福されて私たちは幸せになるだろう。人魚姫が悲恋だなんて、世界中の誰に聞いても言わせやしない。

〈ありがとう〉

 そう言われたから「愛してる」と返した。すると、かすかに彼が微笑んだ、かのように見えて、それから〈おれも〉と返ってきた。だから今度こそ「私こそありがとう」と言った。

 途中で挫けそうになった瞬間が皆無だったと言えば嘘になる。けれど、やっぱり最後まで離れないで良かったと心から思った。

 あの誕生日の夜、同じ病気で父親を亡くしていた彼から実は定期的に検査を受けていたと打ち明けられてから以降、私はそれまで以上に彼との時間を幸せだと感じられた。だからこそ、残酷すぎる現実に嘆く彼の家族から「本当に大変だから」と別れを勧められても揺るがずいられたし、急速に変化していく生活にも追いついていく事が出来た。

 最初の頃、彼は私に明言こそしなかったものの、自分が死んだら私まで後を追うんじゃないかと心配していたそうだ、お義母さんから聞いた。

 私は思わず笑ってしまった。まさか、と。まさか、私ががあるとでも考えていたのかと。彼がいなくなったら私だって生きていられない。そんな事、改めて確かめる必要なんてないはずだった。でも、そんな私の考えを変えたのは、お義母さんであり、彼の兄弟であり、また彼の積み重ねてきた過去そのものだった。

 彼のお見舞いには本当に大勢の人達が訪れてくれた。しかも特に仲の良かった友人などに限らずかつての同僚や知人までもが、彼の故郷の病院へ移ってからもわざわざ足を運んでくれた。それは、つまり彼の生き方の正しさを示す何よりの証だと思った。素直に、格好良いと思った。

 葬儀の日、やはり沢山の人が彼を見送りにやって来た。私は親族として立っていた。と、不意に弔問客の会話が耳に飛び込んできた。

「あいつはさ、俺達みんなの中でこれからもずっと生きてくんや」

 さすが、彼の知り合いだった。まさかそんなドラマみたいな台詞を聞くとは思っていなかった。でも、その通りだと思った。そうしたら、彼らの中にいる健吾は一体どんな人間だったのだろうと、嫉妬心にも似た好奇心が芽生えてきて、私は思わず泣きながら笑った。

 そして私は気付いた。私の中にもまた彼はいるのだと。

『泣きそうな時に声を聞かせてくれたらさ、涙が落ちる前に迎えに行ったるやん』

 どんな名言よりも心を温かくしてくれる言葉が耳に蘇る。ぽろぽろと落ちる涙の味にあの夜の愛しさを思い出す。今なお変わらず彼を愛していられる事実に嬉しくなった。

 この世界で私しか知らない彼がいる。唯一、私の中でだけしか生きられない彼がいる。だとすれば、単純な話だ。だって私には彼を二度も失うなんて出来やしないのだから。

「うそつき」

 私は誰にも聞こえないように舌の上でそう転がした。誰よりも盛大に笑って泣きながら何度も何度も「うそつき」と転がした。そうして私はその度に浮かんでくる困った風な笑顔に向かって、何があっても自分が死ぬ時までは生きてやるからと、止まらない泣き声なんかかき消えるくらいに強く告げた。

〈了〉

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