葡萄ゼリーと苺大福と豆大福と
日月明
第1話
昔から、『夢を見る』という表現が、喉をすっと通らなかった。
『見る』という言葉には様々な意味があるが、『夢』というものに関しては、うまく繋がっていないのではないかと思う。視覚に頼らず、肌で感じず、しかし見ている。拭い去れない違和感が、当然のような顔で鎮座している。
カリフォルニアロールを、寿司として出された時の違和感に近いだろうか。これを寿司と呼んで良いのかと、疑問を感じずにはいられない。『夢』と『見る』は、仲間にはなれない。しかし他に言いようもないから、隣り合って窮屈に座っている。私には、そんな風に思える。
こんなことを長々考えるのは、何も若者だけではない。先の短い爺さんだって考えるものだ。何故なら、退屈だから。
若い時分に口から出しておくと「ああ、若いな」で済まされるだろうが、八十を目前にした歳でうっかり口から溢してしまおうものなら「とうとう脳が虫食いにあったのか」「耄碌すれば脆いものだ」などと心配されることだろう。しかし、私の脳はどこを見ても穴なんてない。脳ではなく、先に身体の方にガタが来てしまったのだ。
リノリウムの床を、ゴム製のサンダルが踏む間抜けな音。その音に夢の中から微睡みへと引き戻され、引き戸のがらがらという音で完全に目が覚めた。
まだ眠気の少し残る瞼を上げると、蛍光灯の明かりが激しすぎる自己主張をしてきて、再び瞼を下してしまう。今度は先程よりもゆっくりと、恐る恐る瞼を上げた。相変わらず光からの主張は苛烈だが、どうにかきちんと目を開けることが出来た。
真っ白なベッドと真っ白な天井。病院で寝ているという事実こそ、夢であって欲しかった。
病院という建物は、人間の命綱を少しだけ太くしてくれるものだと私は思っているのだが、そのわりにはどうも殺風景過ぎるる。人間が、人間として生き続ける為に頼るところが、一番人間味を感じ無い。
「起こしちゃいましたか」
見舞いに現れた妻の明子は、額に汗をかいていた。それでも、少し前よりは汗の量が少ないように思える。もうそろそろ夏も終わりなのか。そういえば、ツクツクボウシの声も聞こえなくなってきた。白いペンキに沈められたような病室では、時間や季節の感覚が、時々わからなくなった。
「お花の水、変えておきますからね」
そう言う明子に、かぶりを振るだけで返事をして、上体を起こした。
私より五つ若い明子も、ずいぶんと歳をとったものだ。結婚した時は溌剌としていた指先も、まっすぐぴしりと伸びることはなく、錆びた針金のように弱弱しい。
明子には、ずいぶんと迷惑をかけてきた。「ごめんなさい」と謝れていないことだって、指折り数えても足りないだろう。
普段は一歩引きながら、必要な時には、大股一歩前に出て来られる。そういう強さを持った人だ。よくできた妻であり、人間としても尊敬できる。
大学時代の友人に紹介されて、結婚して、子供を四人も産んでくれて、私の人生に付いてきてくれた。最後まで苦労をかけて、申し訳ないと思う。
「私の寿命は、長くない。それも、仕方がないことだ。もういい歳だ。子供は全員自立し、長男には孫の顔も見せてもらった。未練というならば、明子の人生を最後まで共に過ごし、看取ってやりたかった」
医者に余命を告げられた時、弱気な私の心がそんな言葉をこぼしたら「そうですねえ」と、世間話をする時と同じ顔で、明子は言った。
青々とした草原が一陣の風によって一瞬の内に茶色く枯れ果てたような、そんな寂しさが私を襲った。言葉にはせずとも、大切に、愛情を持って接してきたつもりだった。しかし、明子にとって私の喪失とはそんなものなのだろうか。いや、私の最期らしいといえば、らしいのかもしれない。
人に好かれるような人間性をもって生きたかと問われると、素直に回答できないというのが湿った本音である。特別何か悪さをしたわけではない。ただ、私の性分が、世間一般と合わなかっただけなのだ。
どうやら私は、変な所で生真面目過ぎたらしい。周囲の人間が何でもなく見過ごせること、「とりあえず」と流せることが、私は目に留まってしまう。そして、そのまま問うてしまうのだ。「これで良いのか」と。
大多数の人間は、自分に対して、自分の物差しレベルで健全な生き物だ。今風に言うと省エネが最も近いだろうか。
やらなくても誤魔化せることは、やらないでいたい。面倒事は、なるべく避けたい。私はどうも、それが気にかかる性分で、それは、人に疎まれるだけの理由に成り得た。息子や娘ともよく衝突した。
同僚だって、理解してくれる数人としか仲良くなれなかった。この性分のおかげで、他人よりもすこしだけ出世できたが、得られなかったものも多いだろう。なによりも、人生の末に、愛した妻に「そうですね」とあしらわれることも無かったかもしれない。
私の人生は、正しかったのだろうか。明日死ぬともわからぬ私は、その最期の最後に、充分と満足して逝けるのだろうか。自信のほどは、米粒の先ほどしかない。
いや、後悔しているわけでは無い。気心の知れる数少ない友人と、楽しい時間をたくさん過ごしてきた。一人一人と、腹を割った話もできる。ただ、残してしまう妻や子どもや孫たちをよろしくと、頼むことの出来る友人が、もう少し多いほうが良かったのではないのかと、それだけが少し気がかりなのだ。
窓の外に目をやる。日の高さから見て、昼を少し過ぎたころだろうか。涼しくなってきた風が、カーテンを揺らしている。
もう一度、明子と「今日も暑いな」と言葉を交わせる夏が来るのだろうか。それ以前に「雪が降りそうですね」と年甲斐もなくわくわくしている明子を、今年も見ることが出来るのだろうか。
あとどれだけの時間、せめて気持ちだけでも、明子のことを守ってやれるのだろうか。この壊れかけの身体では、もう何もできないのだろうか。
「裕一さん、ゼリー食べますか。今年も雪絵が送ってきたんですよ」
「そうだな。一つもらおうか」
ニコニコしながら、明子はスプーンと、ゼリーの入った小さなプラスチック容器を寄越した。
姪の雪絵は、夏が少し過ぎたころに少し遅れた残暑見舞いを送ってくる。少し遅れてやってくるというのが、マイペースでずぼらな雪絵らしい。毎年送ってくれるという点で、褒めてやるべきだろうか。
私は、胸中の不安を悟られまいと葡萄の入ったゼリーを喉に流した。しかし、柔らかく脆いゼリーでは、私の不安を腹の奥へと沈めるのは難しいようだった。
明子は、私と同じ桔梗色の柔いゼリーをスプーンの上に山盛り掬うと、それを二秒ほど優しく眺めた。蛍光灯に照らされてふわりと光るそれと、それを眺める明子の笑顔を見ていると、桔梗色の光の中に触れられる幸せが詰まっているような気がした。
少なくとも私の心には、どんなに高級なものを食べても叶わない幸せが芽生えた。
私はこの幸せを、あと何度感じられるのだろう。明子の隣で、お互いに触れられる距離で。
スプーンを口に入れた明子は、もう七十を越えた歳だというのに、結婚した頃の面影をはっきりと感じさせる笑顔を浮かべた。
やはり私は、明子ともう一度、厳しい残暑に汗を流しながら、蝉の合唱に耳を傾けるよりも、明子ともう一度、降りそうな雪にわくわくしている孫を眺めながめるよりも、もうしばらくの間、明子と一緒に美味しいものを食べていたい。そう思いながら、私もスプーンを口に入れた。
「なあ、明子」
呼びかけると、明子は食べる手を止めずにこちらを向いた。
「私には、頼れるような友達は少ない。財産も、たくさん残してやれない。お前の人生の最後まで、お前のことを守ってやれそうにない。先に逝く私を、許してくれ」
まっすぐに、明子の目を見て話すように努めた。残り短い時間だから、きちんと話をしよう。そう思っていることが、明子にきちんと伝わるように。
明子は、また違う種類の笑顔を見せた。今度の笑顔は、年相応の、際限のない安心感を私に与えてくれる、薄いシルクのような柔らかい笑顔だった。
「今日の裕一さんは、マイナス思考の日みたいですね」
くすくすと静かに笑うと、容器に残っていたゼリーを食べきってしまい、ふうと小さく息をついた。
「裕一さんは、私より五年も先に生まれてくれましたね」
「あ、ああ。そうだな」
突然の語り出しに、思わず間抜けな返事を返してしまった。こういう突発的なことにうまく立ち回れないのも、結局改善できなかったな。
「その五年間で、わたしよりも数歩前を歩いてくれました。わたしの知らない素敵なものを、前からそっと教えてくれました。道の小石も、飛び出た木の枝も、取り払ってくれました。だからわたしは、安心して裕一さんの背中を見つめ続けることが出来て、とても幸せでしたよ」
「そんなこと、全然なんでもない。誰でもやるような、当たり前のことじゃないか」
「その当たり前が、わたしにはとても幸せなことなんです」
そう明子は言ったが、私は納得できなかった。私には、私にしか出来ないことで明子を幸せにしてやりたかったのだ。
私にしかできない特別を、明子にあげたかったのだ。私の中で、何十年たっても明子が特別だと、そうして教えてやりたかったのだ。
空回りしていなかっただろうか。明子に、私の想いはきちんと届いていたのだろうか。それだけが、いつも気がかりだった。
いや、空回りしていただろう。前を歩く私は何度、無様につまずいたことだろうか。そのたびに取り繕って、明子は見て見ぬふりを、時には子供たちにフォローを、何度してくれていたのだろう。
無様な私が時々後ろを振り返っても、当たり前に笑ってくれていることが、どれだけありがたいことなのか、私は一度でも考えただろうか。
「友達は、わたしにだっています。子供たちだって、もう頼りになるほど成長しました。大金なんて、老いた身には必要ありません。裕一さんとの思い出があって、裕一さんが待っていてくれると思えば、私は大丈夫ですよ。安心してください」
そう言うと、明子はそっと私の手の甲に触れた。かさかさとした、潤いの少ない手だった。しかし、その手が持つ温かさは、まぎれもなく少し平熱の高い明子の温かさで、私の愛した温かさだった。
器に入りきらない言葉を発するよりも、郵便受けが詰まるほどの手紙を貰うよりも、ただの一秒だけでも、私に温度を分けてくれるだけで、私の不安は、熱湯をかけた氷のように溶けていく。
そして気が付けば、さっきまでの不安は、先週食べた昼食よりもどうでもいいものになるのだ。明子はそのことを、よく知ってくれていた。
「明子には、いつも励まされてばかりだな」
「裕一さんは、時々ネガティブさんになりますからね。そういう時背中を押せるように、わたしはいつも少し後ろを歩いていますよ。それが、夫婦というものでしょう」
「明子がつらい時はどうするんだ」
「わたしはいつも、裕一さんに手を引いてもらっていますから」
甲に触れていた手に、きゅっと力がこもった。
ああ、そうだ。私はずっと、この手を離さずに生きてきた。明子の不機嫌に触れてしまった時も、明子に私の機嫌を落とされた時も、この手だけは絶対に離さずにいた。それだけは、たとえどれだけ老いようとも、どれだけ思考が降下しようとも、絶対に間違いなく、私にしか出来ないことだと断言できる。
「わたしの手を引けるのも、わたしを守ってくれるのも裕一さんだけですから。よろしくお願いしますね」
「よろしくって、私はもう長くないぞ」
「向こうに行っても会いに行きますから、これまで通り少し前を歩いてください。お土産話と、向こうの面白い事、教えあいっこしましょう」
まるで、旅行にでも行くような話口調だった。
そういえば、私が二年ほどの単身赴任へ行くのが決まったときも、明子はこんな風だった。
「面白いものたくさん見つけて、わたしや子供たちに教えてくださいね」なんてからりと言われて、少し寂しい思いをしたものだが、帰ってすぐのくっついてくる家族は、私から寂しさを取り払ってくれた。
「寂しくないと言えば、それは嘘になります。けどわたしには、裕一さんと過ごした五十年近くの濃厚な幸せを持っていますから。長くても、せいぜい十年くらいでしょう。それくらい、わたしのなかに居る裕一さんを再確認できる良い機会ですよ」
私の中に、一本の線がぴんと張られた。明子の「そうですね」は、共に過ごした何十年もの時間の結晶だったのだ。
あの他愛ない一言に、他愛ないからこそ込められる思いがたくさんあったのだ。自分のことばかりがショックで、普段なら気付けることに気付けない私が、まだまだ未熟だったのだ。
枯れ果てていた心の荒れ地が、まるで初夏が返って来たように、新緑へと染まっていくのを感じる。
明子の手に、またわずかに力が入った。今にもするりと抜けていきそうな、細い毛糸のような弱々しい力だ。
私は、明子の手の甲をできるだけゆっくりと撫でる。こつこつとした、骨と皮だけの手だ。
この手に、私は何度元気づけてもらえたのだろう。柔らかくはつらつとした手の時から、こうして一緒に年老いてくれた今でも、また元気をもらっている。
この手に触れるだけで、私は幸せになれた。私の人生は、この手に触れるためにあったのかもしれない。そう思わせるだけの輝きが、明子の手にはあった。
「明子、いつもありがとう」
「いいえ、こちらこそありがとうございます」
もし仮に、私の人生が胡蝶の夢なのだとしたら、なるほど確かに「見ていた」のかもしれない。目には見えず、肌でも感じられないが、確かに私は、見ていたのだろう。明子の居る幸せという名のついた風景を、それこそ夢のような心地で。
明子は本当に、よくできた妻だ。
私には勿体ないと思う。
もっと明子に、楽をさせてやることが出来た人がいたかもしれない。もっと贅沢をさせてやれる人がいたかもしれない。
しかしその明子自身が、私だけだというのなら、これからも明子の少し前で、明子を守っていこう。いや、守らせてもらおう。人生の終わり頃にこんなことをと思ったが、人生の終わり頃だからこそ再確認できたのかもしれない。
「すまないが、もう少し眠ろうと思う」
「わかりました。残ったゼリーは、冷蔵庫に入れておきますからね。もうしばらくここに居てから、わたしは一度帰りますよ」
私が食べきらなかったゼリーの残りを食べようとする、明子の若い笑顔を見ながら、私はもう一つの夢の中へと身を沈めていった。
夜、午後十時。就寝時間が比較的早く、九時にはいつも床に就くわたしですが、病院からの一本の電話で、その日の眠気は飛び去って行きました。
裕一さんが危篤状態だと、受話器はわたしにそう告げました。
機械的に聞こえたのは、機械から発せられる音声だからでしょうか。それとも、電話の向こうの声の主が、こう告げることに慣れているからでしょうか。
母と父の時を含めて三度目に聞く宣告でしたが、何度聞いても、わたしが慣れる日は訪れないでしょう。
比べるものでも無いですが、今日の宣告は、以前よりもわたしに焦りを覚えさせました。
昼間にはわたしと、いつもと変わらない会話をしてくれていたのに。覚悟はしていたつもりでしたが、やはりその時となると、わたしの心はぐらぐらと、地震の起きている水面の様に揺れて、落ち着いてくれませんでした。
近くに住んでいる次男に電話をして迎えに来てもらい、急いで病院へと向かました。
車の中で早く早くと急いていた気持ちが通じたのでしょうか、信号に引っかかることもなく、裕一さんの待つ病室にたどり着いたのは、電話が来てからわずか二十分後のことでした。
病室の中は、まさに嵐の中でした。白い布地が暴風のごとく行き交い、なかなか病室の中へ一歩を踏み出せません。
しかし、わたしは一刻も早く裕一さんの顔を見る必要がりました。何故ならわたしには、わかったからです。裕一さんが、もう離れてしまうのだと。
何故と問われると、なんとも説明し難いのですが、強いて言うのなら、裕一さんと長年一緒に居たからでしょうか。直観というよりも、経験の方が近いのかもしれません。
もしくは、裕一さんの優しさでしょうか。「もう行くから、もう一度だけ顔を合わせよう」と、裕一さんが教えてくれているのかもしれません。
病室の前に来た途端、わたしの心に、細い槍で突き刺されたような感覚が襲ってきたのです「ああ、今がその時なのですね」と、その槍を通して裕一さんと繋がれたような気がしました。
だから、この嵐を前に怯んでいるわけにはいかないのです。
わたしは勇気を振り絞って、病室へと足を踏み入れます。裕一さんが呼んでくれているのですから、わたしが行かない理由なんてありません。
わたしを見た看護師さんが退室を促そうとしましたが、別の看護師さんがその方に触れて、わたしを入れてくださいました。
何度か話したことのある方で、わたしの顔を覚えてくださっているようでした。わたしは小さく頭を下げ、裕一さんの元へ駆け寄りました。
ベッドに眠る裕一さんを見て、わたしの背中からどっと汗がにじみ出ます。着ているシャツが、どんどんと冷えていきました。
しかしそれよりも早く、わたしの足先は血の気を失い、冷えていきました。消えていくのは裕一さんなのに、わたしの身体からどんどん熱が奪われていきます。
裕一さんへと体温を与えようと、無意識下のわたしがしているようでした。しかしそれも無駄なことだと、病床の顔を見れば、理解するしかありませんでした。
裕一さんは、胸を押さえて、今まで見たこともないような苦悶の表情をしていたのです。目を力いっぱい瞑り、服についた皺が取れなくなってしまうのではないかと思うほどに、胸元を強く握りしめていました
全身の力をその手と目に集中させているように、腹部は荒い呼吸にも関わらず力なく上下し、まとう雰囲気には、表情とは裏腹にまったく力強さを感じさせてくれません。
「裕一さん、わたしが来ましたよ」
空いている手を握ると、裕一さんは辛うじて握り返してくれるだけでした。
わたしのすぐ隣に立つ白衣の先生を見ます。
運良くと言って良いのか、当直の先生は、裕一さんの主治医の先生でした。しかし先生は、先ほどまでの嵐はどこへやら、じっとその場で立っているだけでした。
「先生、主人はどうなんでしょうか」
「私たち医者に出来ることは、すべて尽くしました。あとは、ご主人次第です」
その先生の言葉を聞いて、隣に立っていた次男が「まだ死ぬな親父!」と叫んでいましたが、わたしの耳には遠いところにある潮騒のようにしか聞こえませんでした。
ふと、裕一さんの向こう側にある窓の外が視界に入りました。曇って星もない夜空が、わたしたちを見下ろしていました。
父の時も、母の時も、こんな夜でした。星明りのない真っ黒の空が、わたしの大切な人を吸い取ってしまうのです。唯一明るい月は、こんなわたしをあざ笑うためだけに、嫌がらせのためだけにあんなに明るいのでしょうか。
父と母を奪った夜が大嫌いですが、その上で裕一さんまで奪われてしまったら、わたしは夜が怖くなって、いよいよ眠れなくなってしまいそうです。
仮に眠れても、良い夢を見ることは叶わないでしょう。そんなことになってしまったら、夢の中でさえ、裕一さんに会うことが出来なくなってしまいます。
裕一さんは、たとえわたしひとり一人でも、長生きしてほしいと願うでしょう。しかし、わたしの夢の中ですら裕一さんと話せないなら、長生きするのが辛くなってしまうかもしれません。
早く裕一さんに会えるのは嬉しいことかもしれませんが、そんな気持ちで生き続けるわたしが、面白いお土産話を裕一さんに届けることが出来るでしょうか。
次男の、より一層の大きな声でふっと我にかえりました。そうです、何よりも今は裕一さんです。
おそらくもう、本当に最期なのでしょう。絶対にまた会いに行きますが、これから何年かは思い出だけを頼りに生きないといけないのですから、ほんの一瞬でも長く、裕一さんと一緒の時を過ごしておきたいです。
裕一さんは、先ほどまでの苦悶の表情を解き放って、これから眠りにつくような、とても穏やかな表情になりました。服に皺を作っていた手も、力が抜けてその胸の上に置かれるだけになっています。
そうですか、もう行くんですね。これまで苦しみに耐えてくれていたのは、わたしが来るのを待っていてくれたのでしょうか。やっぱり裕一さんは、どんな時でも、わたしを一番に考えて優しくしてくれます。
「父さんは、母さんを甘やかす」などと、良く子供たちに呆れられたものです。
わたしが悲しみに押しつぶされそうになっていると、握っていた裕一さんの手の人差し指が、ちょんちょんと動きました。これは、わたしを呼んでいるのでしょう。
すかさずわたしは、裕一さんの顔の近くまで寄ります。努めて、落ち着いた雰囲気を作りながら。瞳にたまった涙で、裕一さんの頬が濡れないように。
「どうしましたか、裕一さん」
すっと近づいたわたしの頭の上に、先ほどまで握っていた裕一さんの手が触れます。
撫でるとも言えないような力ない感触でしたが、それでもわたしを底なしの悲しみから引っ張り上げてくれる、わたしの大好きな力強い手でした。裕一さんの口が、小さく開きます。
「春になったら、苺大福と豆大福を一つずつ」
わたしにしか聞こえないようなか細い声で、そうつぶやきました。
その瞬間、老いて乾いていたわたしの頭の上にある裕一さんの手のひらが、潤いと力強さを取り戻しました。
そして、わたしの鈍い白に色落ちした髪も真っ黒に戻り、痛みのないするりと指の通る長髪へとなっていきます。わたしの身体全体に、風がぶわりとぶつかってきて、わたしの透き通る髪がなびきます。四月初旬の、肌寒さが少しずつ和らいできた心地の良い風でした。
たくさんの蕾が少しずつ開き始めた山桜の群れが、わたしと裕一さんを包み込んで、二人だけの空間を作ってくれます。
周囲を見渡せば、緩やかな山道と、父の様に威厳があり母の様に優しい佇まいの桜の幹がわたしたちを囲んでいます。
上へと視線を飛ばせば、青と緑に時々ピンクの混ざった賑やかなパレットのような空が、わたしと裕一さんだけの空間に蓋をしてくれました。
少し開けたところを裕一さんが見つけてくれて、地面にハンカチを敷いただけのところに二人くっついて座りました。山の風は肌寒かったのですが、隣に裕一さんがいるだけで、胸の内はぽかぽかと温かです。
そこだけ季節が追い抜いたように感じました。まだ桜は満開ではなく、少し早い二人だけのお花見でした。
たくさんお話をしました。特別なお話を、たくさんしました。繋ぎ合った手や、少しだけ触れている肩に風が当たると、そこから二人が溶けて交わっていくような感覚がありました。わたしと裕一さん二人だけの、子どものように大切で愛おしい時間を作ったのです。
プロポーズを受けた時とも、結婚した日とも、初めて身体を重ねたときとも、子どもが生まれた時とも同じくらい、わたしにとっては宝物の時間の記憶でした。
きっと、他の誰かが見たらなんでもない時間なのでしょう。あの日の思い出の一ページに埋もれてしまうのかもしれません。しかしわたしにとっては、付箋をたくさん貼り付けておきたい程の特別な思い出だったのです。
わたしの中で大切にしてきた思い出が、裕一さんも、今際の際で告げてくれるほど大切にしてくれていたと知った時、わたしの中の寂しさが極上の幸せに塗り替わってしまいました。
わたしの中の宝物は、わたしと裕一さん二人の宝物になりました。それは、裕一さんからの最後のプレゼントでした。
ぎりぎりでせき止めていた涙が、頬を優しく撫でてくれます。寂しさと喜びを織り交ぜた、心地よい涙でした。
裕一さんの口が、ゆっくりと「いってくる」を形作ります。わたしも小さく「いてらっしゃい」と言葉を返しました。
わたしの頭にあった裕一さんの手が、ゆっくりとベッドの上に落ちます。それから、少しずつ少しずつ、別れを惜しむように裕一さんの身体から体温が溶け出していきました。
次男が泣きじゃくる横で、わたしはちょっとした幸せに包まれていました。
やっぱり裕一さんは、いつでもわたしを守ってくれます。奪われるだけの大嫌いだった夜が、最高のプレゼントをもらえた、良い夜になりました。これで、裕一さんが居ない夜でも、ぐっすりと眠れそうです。
裕一さん、苺大福と豆大福を持って行きますから、わたしの手を引いて、また一緒に歩いてくださいね。
葡萄ゼリーと苺大福と豆大福と 日月明 @akaru0903
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