第10話 ふたりのみか

僕の目の前には川が流れている。

海は満潮らしく、水はたっぷりとあり、ゆっくり流れている。

水面は時折、太陽を反射し、きらきらと光った。


こんな美しい川が僕の大切な人の命を奪ったなんて考えられない。


いや、こんな美しい場所だからこそ、父とは母死の場所に選んだのかもしれない。


川べりはいつの間にかコンクリートで固められ、僕が初めてこの川を見たときとはだいぶ情景が変わっている。

コンクリートは言っても、柔らかいコバルトブルーとホワイトで、全体的に爽やかですっきりとした印象だ。

僕の頬をなでる風は、かすかに潮の香りがして気持ちいい

空は高く遠く、真っ白な綿雲が空中遊泳を楽しんでいる。



「久しぶりね。考えゴト?」

不意に耳元で声がした。


「美夏!」

いつのまにか僕の隣には美夏が立っていた。橋の手すりに両手を置いて、上目遣いに僕を見ていた。



出会ったときのままの姿だった。



「寂しかったわ。長い間会えなくて。ドコに行ってたの?」

美夏はあの懐かしい、いたずらっぽい笑顔を浮かべて言った。



「違う街だよ。 僕はあれ以上人を巻き込んではいけなかったし、それに、僕には頭を冷やす時間が必要だったんだ。」



「そうなの?」

美夏は首をかしげた。



「―そう。僕は失ったものがあまりに多かったために多すぎる同情を得てしまったんだ。空虚な愛情と、溢れんばかりの同情のアンバランスがゆっくりと僕を狂わせ、あのとき僕は僕を失いそうになったんだよ。海華を巻き込んで。」

美夏は僕の傍らでまっすぐ遠くを眺めていた。 僕も美夏の視線の先に目を向けた。



「僕は一度空っぽになることが必要だったんだ。」


「頭でっかちねー…それで、何か見つけたの?」

美夏は僕を見上げた。




「あぁ、医者になるんだ。」

僕は美夏の目を見つめた。



「人の命を助けたいとか、浅はかな考えなのかもしれない。

 でもね、僕は大切なものを亡くした経験も、

 自分で自分を殺そうと思った経験もある。

 その分僕は、患者や患者の家族に近い存在だと思うんだ。

 単純だろ? 馬鹿な僕にはそんなことしか思い浮かばなかったんだよ。」

美夏は僕を見てにっこり笑った。 すごく幸せそうで、素敵な笑顔だった。




―カツッ、カッ―



背後で乾いた音がした。

「海華!」

ふりむくと、海華が道路の真中でバランスを崩していた。



僕はあわてて駆け寄り、肩に手をおき、それから手をひいて反対側へ引き返らせた。



「駄目だろう?大きな道なんだし、横断歩道もないところを一人で渡っちゃ。 

 なんで僕を呼ばなかったんだい?」

僕は海華に、言い聞かせるように優しく言った。


海華はゆっくり頷いたが、顔は不服そうに膨らんでいた。


「でも、だって、だって駿は誰かとお話してたでしょ?私聞こえたんだから。だから、邪魔しちゃ悪いと思って。」

海華はそう言って下を向いた。



「海華、聞こえてたのか? まったく海華はすごい地獄耳だな。

 これじゃ浮気もできないよ。」

僕はおどけてため息をついた。



「え?え? 駿、女の子と話してたの?」

海華はぱっと顔を上げ、不安そうにきょろきょろして言った。


「さぁね。秘密だよ。」

僕はそう言って笑い、海華の頭をなで、それから手をつないで道の反対側を見た。


美夏が少し悲しげに笑ってこっちを見ていた。

初めて会った時と同じ、白いワンピースがひらひらと舞い、髪も風になびいていた。



美夏の背後の空には雲は無く、怖いくらい青かった。

「お墓参り来てよね、また会いたいから。」

美夏が声を張り上げて言った。


「あぁ!」

僕も大声で言った。




「もちろん、海華ちゃんと二人でよ! 大切にしてあげてね!」

美夏は張り裂けそうな大声で叫び、それから僕らに手を振って、すっと、空に溶けた。

一瞬のことだった。



「どうしたの?」

海華が不安そうに僕の方を見た。 僕は笑った。

「昔の大切な友だちに会ったんだ。

 僕のことが心配だったみたいだけど、もう大丈夫。」

海華はびっくりしたように閉じていた目をあけて、それからゆっくり頷いた。



「さぁ、行こう。海華の両親にご挨拶しなきゃ。 何年ぶりかな?」

「5,6年経つんじゃない?」


海華のステッキが地面をたたき、カツッカツッと音を立てた。

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