第9話 ボクはヒーローになれるか

病室は廊下のつきあたりの個室だった。 

そういえば、海華の父親はどこかの会社の重役だと聞いたことがある。

廊下が異様に長く感じられた。 

心臓は激しく鳴り、喉にはマラソンの後のように薄い膜が張り付いていた。


母親が先にゆっくりと扉をあけ、僕を招き入れた。僕はかろうじで会釈をしたが、顔はこわばっていただろうし、足は震えていた。二人は僕に向かってうなずき、扉をまたゆっくり閉めた。


バタンという音が、どこかの迷宮に取り残されたかわいそうなヒーローを思わせた。


白いカーテンの向こうには海華がいる。

そう思うと鳥肌がたった。 本当に、怖かった。

 


でも―、海華の姿が見たい。



そんな想いとは裏腹に、頭には両親の死体が浮かんで離れないでいた。 

僕はまだひきずっているんだ。あの衝撃が与えた『しびれ』を、まだ消し去れずにいるんだ。そう思うと、なにかくやしかった。


足が動かない。

足が震える。

前に、進めない。




「駿、いるんでしょ。」

カーテンの向こうから、僕をとりまいていた澱んだ空気をさっと吹き飛ばすような澄んだ声が、海華の声がした。



たった一ヶ月、その長さを思いしった。

海華の声が懐かしく、僕の心を震わせた。

海華に会いたかった。あの終業式の日にもどって、海華と楽しく夏休みを過ごせたらどんなによかっただろうと、そんな愚かしいことを考えた。



僕は目を閉じ、息を吸い、カーテンに手をかけ、そっとめくった。 目を開くと、隙間から海華と目が合った。


やさしくもない、鋭くもない、その視線は僕を不安にさせた。

僕がその格好で固まっていると、海華はそっと目をそらし、天井を見つめた。

僕はそれを待っていたかのようにカーテンをくぐり、海華の姿を、海華の全身を見た。


小さな顔にふつりあいな酸素マスクが痛々しかった。



僕は何も言えず、ただ立っていた。




海華もただ天井を見つめていた。



僕の上にのしかかっている空気が、声を出すことも、動くことも、この静寂をやぶる全ての行為が禁止してるように感じた。 


空気が皮膚にささり、喉には空気が張り付く。


僕はどうしようもなく、本当にただ立っていることしかできなかった。


「駿―」

海華の声が静寂をやぶった。消し去ったといったほうがいいのかもしれない。

その声は今まで静寂なんかなかったかのように、完全に僕が感じていた空気をなくしてしまった。


いや、もしかしたら、そんな空気なんて初めからなかったのかもしれない。


海華は上を見たまま酸素マスクを少しずらして喋っていた。



「ねぇ、駿―」

僕は居たたまれなくなって、海華の口元から目をそらした。







「あたしのこと、嫌い?」







はっと顔を上げたとき、海華はまっすぐ僕を見ていた。

胸に圧縮した空気をドンッと当てられたような気がして、一瞬呼吸ができなかった。


海華の涙が枕を濡らす。




喉が熱い。




『そんなことない!』そう言って、海華を抱きしめたかった。




でも、体も、唇も、ぴくりとも動かなかった。




僕は、メデューサでも見たみたいにただ立っていることしかできなかった。




立っているだけで精一杯だった。





どのくらいだろうか。

そのとき僕には永遠のように感じられた時間は実際には数秒だったと思う。

海華はぱっと目をそらし、また天井を見つめた。

僕は途方もない脱力感に襲われて、その場にガクンと膝をつき、ダラリと手を伸ばして、何もかも放り出したくなった。


全てをなかったことにしたい―都合のいいことだと分かっていたけど、そう思わずにはいられなかった。



「あたしね、駿には言ってないけど、捨て子なの。本当の両親に捨てられたの。」

唐突に、海華が話しはじめた。昨日見たテレビ番組について話すみたいな明るい声が、僕の鼓膜を震わす。


「小学4年までシセツで育ったの。それから、今の両親に拾われたってわけ。」

海華の声は本当にえらく明るかったけど、目は天井から動かなかった。


「別に苦労したわけじゃないのよ。 今の両親からは愛されてるし、他の子とかわらないように育ったの。」

そこで、海華は息を吐き出した。


「でも、でもね、これだけはやめられなかったの。」

そう言って、海華は袖をまくった。




手首に巻かれた真っ白い包帯の上に、無数の切り傷があった。




かさぶたのついたものや、肉がもりあがっているところ、赤い線のようになっているもの、本当に様々だった。


僕の口はカラカラに乾いてたし、まばたきもできなかった。


本当にグロテスクだったのに、目は傷跡を凝視してはなれなかった。

後ろにレスラーみたいなのがいて、頭をがっちり押さえて、まぶたをこじ開けてる、そんな感じだ。



「小学校2年だったかな。ドラマを見たの。 きれいな女の人が手首を切って自殺するシーンを見たの。 そのときね、あぁ、こうやったら死ねるんだって、そう思ったの。」

海華の声はあいかわらず明るかった。


「それがきっかけだったのかな、リストカットって言うの?これをはじめたの。 初めはね、はさみで傷つけるくらいだったの。血も出ないくらい。 でもだんだん深く切らないと、切らないと…、はぁっ、快感って言うか、焦りがなくなるって言うか、そう言うものをね、感じなくなっていったの。それで、それでね…」

海華の息遣いはだんだん荒くなった。 明るい声の裏に、涙を隠しているのだろうか?



「ねぇ―、駿、はぁっ、私、駿に会ったとき、この人なら、はぁっ、駿なら、私のこと分かってくれるって、はぁっ、そう、思ったの。」

海華の目が僕を見つめる。 


海華の息は荒く、言葉が途切れ、笑顔が苦痛にゆがむ。



「あたし、間違ってなかった。はぁっ…そう思うよ。」

海華が唾液をを飲み込む。 目が、まっすぐ僕を見る。



「あたし、あたしね、駿のこと、大好きよっ!」

最後の力を振り絞るみたいにして海華は言い、そのあと激しく咳き込んだ。






僕のメデューサの魔法が解けた。





「海華!」




僕は海華に駆け寄った。苦しそうな海華の顔が僕を混乱させる。

とりあえず、酸素マスクをつける。 


それからナースコールの赤いボタンを連打する。



「海華!海華!」

僕の叫び声に海華が薄目を開けた。もう僕はためらわなかった。 


先のことなんか考えてる暇はなかった。




「海華、大好きだから、愛してるから―」




僕の頬に涙がつたう。 海華がマスクの下でかすかに微笑む。海華の目からも涙がこぼれた。 

僕は海華の手を握り、必死に叫んだ。

海華は、笑って、本当に笑って、そっとうなづいた。






「佐原さーん、どうされましたー?」

二人の世界に、看護婦と医者が割り込む。

僕は扉の外に放り出され、祈ることしかできなかった。

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