第8話 悲劇のヒーロー

「病院行こうよ」

静かに、僕の後ろで美夏が呟いた。


僕は入道雲を目で追いながら、海華が死んだ場合を想定して、悲劇のヒロインならぬヒーローを演じている真っ最中だった。


「ねぇ、駿君、病院・・・」

なおも美夏は僕に話し掛ける。


青い空はまさに夏で、響く蝉の声に僕は一瞬、自分を失いそうになる。



何故、こうなってしまったのか。



「駿君、病院行った方がいいよ。ここであれこれ考えてもはじまらない。でしょ?」

駄々をこねる子供をあやすような口調で、美夏はそういい、それからしゃがみこんで僕の顔を覗き込んだ。 



僕はあわてて顔をかばった。 



泣き顔を見られたらやばいと、咄嗟に思ったのだ。

こんなときまでプライドと言うものは付きまとうのだ。



触れた指には、水分を感じなかった。



頬に手を当てる。 涙なんて全く流れてなかった。 止まったわけでもない。泣いた後のベタベタ感すら感じないのだ。





泣いてない―?





てっきり僕は、自分は泣いていると思っていた。正確に言えば、おかしなことだが、泣いていることを前提としていままで行動していた。 

だって愛した人が死ぬかもしれないのだ。それも、浅はかな僕のせいで。 

ショックで涙が出ないってやつか? 



次の瞬間、僕の口から笑みが、こぼれた。

もちろん嬉しかったわけではないし、楽しかったわけでもない。


どうしようもなかったのだ。狂ったってやつ。 

どうしようもないんだから泣いたって笑ったっておんなじだろ?



「駿君・・・」

美夏は今にも泣きそうな顔をしていた。

眉間に皺をよせ、唇を噛んでいた。でも美夏は泣いていなかった。 

きっと、僕より、何倍も強いのだろう。



「海華ちゃんに会いに行こう。今会わなかったらきっとあなたは後悔する。」

美夏の言葉は懇願に近かった。でも、まっすぐ僕を見ていた。



確かに、ここで入道雲と追いかけっこをしても何もはじまらない。



でも、僕が病院に行ったところで一体何ができるって言うんだ? 

きっと僕は何一つまともにできやしない。海華を助けられるのは僕ではなく医者だ。僕は邪魔者にしかなれないのだ。




「海華ちゃんが死んじゃったらどうするの?!」



ふいに、美夏が大声をあげた。目には涙が浮かんでいた。

そこから発っせられる視線は僕をしっかり捕らえていて、僕は逃げようがなかった。ぼんやりと美夏の顔を眺めた状態で固まった。


美夏の視線は入道雲のように流れていかない。

やはり、美夏にはどこかで会ったことがあるように感じた。この目に、僕は見覚えがあった。 


記憶の糸をたぐる。 


何を引き寄せても海華の顔が脳裏にちらつく。


息をはく。


気持ちをリセットしよう。




僕は父と母の死体を目の裏で具象化する。

何かに迷った時はいつもこうする。幼いころからの知恵だ。


死を身近に想うことで全てを止める。


全ては儚いものなのだと、そのことを思い出す。

こうやって僕は今まであらゆる事を抑え、我慢し、そして忘れてきた。

忘れられない事象の元に全てをひきつけ、つぶしてきた。

いままで、そうやって生きてきた。


父の青い唇と浮腫んだ頬の傷の形。

母のスーツのジャケットは脇の部分が裂けていて、張り付いた髪の毛の間からは不釣合いな赤い唇が覗いていた。


いまでもありありと浮かべられる二人の死体が僕の心を落ち着ける。


月夜の入り江のように、冷たい水と冷たい光が僕の心を満たす。


美夏の視線は変わらない。でも僕の心は変わった。


美夏の目をまっすぐ見つめ返す。





「病院に行こう。」







「海華、海華の病室はどこですか?」

受付の若い看護婦が顔をしかめる。



「名字は?」

整った綺麗な顔立ちから少しむっとした感じが伝わる。



「あの子じゃないかねぇ、朝運ばれてきた川に落っこっちゃった子だろう?」

ナースステーションの奥から眼鏡をかけたおばさんがゆっくり出てきた。さっきまでいた若い看護婦は逆にそそくさと奥へひっこんだ。 



「たぶん・・・」

僕はゆっくり頷いた。 おばさんの看護婦はゆっくり目を細めて僕の顔をじっと見た。 黒ぶちの眼鏡はなにか厳粛な感じがした。



「海華さんには、会えません。」

近くで見るとおばさん看護婦はおばあさんに近かった。


悲しいとも残念ともいえる表情が読み取れる一方で、おばさん看護婦の顔は初めから一向に変わってないようにも思えた。


「なんでですか?」

僕の頭に最悪の結果がよぎる。声にも自然と力がこもる。


海華が死んでしまったら…そう考えずにはいられなかった。

心臓は誰かに掴まれたように収縮し、息が苦しい。



「手術は成功してね、手首の傷もふさがったよ。 でもね、命に別状がないとはいいきれません。」

おばさん看護婦はまた眼鏡の奥の目を細めて僕を見た。僕の中で、ギリギリまで引き伸ばされていたゴムが一瞬緩んだ。



「今は?今海華は?」

僕は不安を拭い去るかのように間髪いれずにおばさん看護婦に迫った。



「坊や、そんなにあわてても仕方ないときは仕方ない。 時には時期ってものがある。 今は考えなさい。海華さんの心を。 海華さんは今眠っていますよ。意識が戻ってないんです。」

おばさん看護婦はゆっくり、諭すように言った。




「佐原海華さんは面会謝絶です。意識が戻っていませんし、危険な状態ではありませんが予断は許さない状況です。非常にデリケートな問題ですし、ご家族以外の面会はお断りしております。」

僕とおばさん看護婦の間に、さっきの若い看護婦の声が割って入った。




おばさん看護婦はにっこり笑って奥の方へ消え、若い看護婦はあからさまな目線で僕を追い払った。




今は考えなさい、か。




海華が何を考えていたかなんて、僕にはきっと見当もつかないよ。

僕は待合室のソファに座って、おばさん看護婦の言葉を繰り返した。

海華は僕の中で完璧な子だった。 


頭がよくて、可愛くて、しっかり者かと思えばドジで、そんなところがまた可愛くて、優しい両親と庭付き一戸建てに住んでいて、何不自由なく過ごしていたんだと、こんな事が起こるまでそう信じて疑わなかった。 


外人の歌が好きで、カーペンターズを僕にしきりに勧めた。

料理はできなかったけど、掃除は大好きで二ヶ月に一回は部屋の模様替えを開催していた。


寒がりで、夏でも長袖を着てたし、冬はよく僕の上着を貸したっけ。そいいえば化粧はしなかったな。

海華のことは次から次に思い出せる。




でもそれは、みんな外面的なことで、海華と少し仲が良くなれば誰だって知りえたことだろう。




っとなると僕はこの一年間、一体海華の何を知っていたんだろう?

ただ、一緒に帰って、映画を見たり、英語の予習を教えあったりして、たまにキスしてじゃれあう。


その繰り返し。




僕って、もしかしてたいした事してない?




じゃぁ、何で海華は自殺を?

僕みたいなどうでもいい奴がいなくなってくらいで、生活には何も支障はないだろう? なぁ、海華?




「駿君・・・」

突然名前を呼ばれ、びっくりしてふり返ると、そこには海華の両親が立っていた。 


母親ははねた髪をむりやり大きなバレッタでとめ、花柄のブラウスに小さい水玉のフレアスカートをはいていた。

お世辞にも趣味がいいとはいえない格好に、僕は驚いた。

海華の母親はいつも家にいるときでもセンスのいい小洒落た服を着ているからだ。 父親はポロシャツにズボンと言う普通の格好だったが、いつも撫で付けられている薄い髪はあさってな方向に広がっていた。



「海華の意識が戻ったの。 会ってあげてくれないかしら。」

海華の母親は、涙目で僕に言った。

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