嘆きの川で逢いましょう

規村規子

嘆きの川で逢いましょう

 コツン、コツン、コツン。

 しとしとと降る雨の中、ゆっくりと歩みを進める硬質な響きは異様な存在感を耳に残していく。

 私はベッドから起き上がると、窓ガラスをわずかに開けた。隙間からひゅうっとひんやりとした空気が入り込み、一瞬身震いする。


「ねぇママ、死神だ! 死神が来たよ!」

「だめ! こっちに来なさい」


 ぱしゃぱしゃと軽快な水音を立て「死神」と指差した人物に近寄ろうとする子供を、そばにいた母親らしき女性が乱暴に引き止めた。

「死神」は全く気に留める様子もなく歩いている。円錐えんすい形の垂れ帽子、ひだ付きの襟、そして醜悪しゅうあくな笑顔が張り付いた仮面。まるでピエロのような風貌だ。


「気味が悪いわ……」


 周囲の人間たちは皆、軒下のきしたで遠巻きにひそひそと噂話をしている。

 国家間の争いが続く中、戦争から忘れられた山間地域に私は住んでいる。辺境の村カロン。通称、呪いの村。

 この村には国から派遣された死神と呼ばれる者が滞在し、日々地域を巡回じゅんかいしている。現世に彷徨さまよってしまった魂を、中枢ちゅうすうを流れるなげきの川を通し死者の世界へと導く役目を果たしているそうだ。刈り取られた魂の呪いが村全体をおおっていて、敵国はうかつに近づけないとも言われている。


 通り過ぎていく死神の、仮面に施されている一粒の涙を目で追った。

 雨はまだ、降り止みそうにない。


「ネノフル、ネノフル。いるかい?」


 コンコンと玄関の扉を叩く音と共に、聞き慣れた声が扉越しに小さく聞こえてきた。私は急いで玄関に駆け寄り、じょうを開けた。


「サリエリおばさん」

「怪我の具合はどうだい」

「……まだ、少し」


 半分さえぎられた視界に映るのは、心配そうにこちらをうかがう顔だった。ゆるんだ包帯の隙間に容赦なく入り込んでくる風に、チリチリと皮膚が痛む。


「かわいそうにねぇ。まだ若いのに」


 数週間前、私は大きな山火事に巻き込まれたらしい・・・。というのも、自分の身に何が起きたのかよく覚えていないのだ。医者から聞いた話では、記憶がはっきりしないのは事故のショックが原因だという。


「はいよ、いつもの。あまりもんで悪いけどさ」

「そんな事……ありがとうございます」


 手渡された紙袋の中を覗くと、パンがぎっしり詰まっている。

 サリエリおばさんは近所にある小さなパン屋の店主だ。数年前に旦那さんを亡くし女手ひとつで店を切り盛りしている中、こうして売れ残ったパンを土産みやげに様子を見に来てくれる。怪我人で一人暮らしの私を気遣ってくれる、とても優しい女性だ。


「困ったもんだよ、こうも雨が続くと商売あがったりさ」


 紙袋がやけに重たく感じられ、その言葉の意味を察した。


「それじゃあね。ちょっとでもいいから食べて、ゆっくり休むんだよ」


 おばさんは軽く手を振ると、頭上に手をかざし足早に去っていった。パタンと扉の閉まる音が、狭く簡素で薄暗い部屋に響いた。引き返す足音が遠のくのを待ち、やがて聞こえなくなるのを確認する。つい先ほど貰った紙袋の中からシナモンロールを取り出し、少しずつ口に運び入れた。

 そのうちにふと、気がつくと壁に立てかけてある姿見すがたみの前に立っていた。鏡中の私は額から左目にかけて、手足、包帯で厳重に巻かれている。


「ふふ……まるでミイラね」


 自分の顔をぼんやりと見つめたまま、あざけるように薄笑いをもらした。どんよりと絡みつくような重い空気が、部屋中に漂っている。

 それから何日眠り続けただろう。何か考えなくてはいけない事があるような気はしたが、あらがうようにただひたすら眠った。







 ビクンと痙攣けいれんした身体の揺れで、まぶたがこじ開けられた。見覚えのない天井が広がっている。

 身体を起こし立ち上がろうとした瞬間、目の前がぐらりと揺れた。身体と意識がうまく繋がっていないよう感覚だ。ベッドからずるずると崩れ落ちるようにして、どうにかい出る。

 ここにいる前の出来事が思い出せない。

 どこか懐かしい匂いに引き寄せられるように、焦点しょうてんが定まらないまま部屋の壁を伝い歩く。階段があるのを見つけると、一段ずつゆっくりと降りた。


「……パン?」


 辿り着いた厨房らしき部屋を通り過ぎると、懐かしい匂いの正体がぎゅっと詰まった空間に出る。壁一面の小さな棚にずらりと並んだパンが目に飛び込んできた。豊富な種類と色に、目がチカチカする。そう。ここは――――――


「……サリエリおばさんのお店」


 人の気配がない。入り口の窓ガラスに目を向けると、外は暗くすっかり日が落ちていた。

 ひどく胸騒ぎがする。何かよくない事が起ころうとしている。そんな不安にり立てられ、店を飛び出した。







 熱い、熱い。

 身体の内側に帯びた熱気を振り払うように、青々と生い茂る川草を一歩一歩踏みしめる。気がつけば私はなげきの川沿いを歩いていた。

 さあさあと草を撫でる風が、一瞬いだ。何かが立っている。夜の闇から不意に現れたそれを、私は凝視する。歩調を速める事なくゆっくりと近づいてくるそれにドクンと心臓が波打ち、自分の置かれた状況を瞬時に察した。


「しに、がみ……」


 これから自分の身に起こるであろう事を覚悟した気になり、ぴたりと歩みを止めた死神を睨んだ。


「死ぬ前にひとつ聞きたいんだけど。あなたがサリエリおばさんを殺したの?」


 殺したという表現は適切ではない。現世に彷徨さまよってしまった魂を成仏させるのが死神の役目ならば、サリエリおばさんは既に死んでいた事になる。

 そんな事は分かっている。そして、私も同じだという事も。


「とても好きだったわ。大好きだったの」


 死神は黙っている。視界がぼんやりとして顔がよく見えないが、うなずく素振りもないようだ。


「最後に貰ったシナモンロール、食べ切れなくて残しちゃったの。ちゃんと食べれば良かった」


 私は喋り続けた。生前世話になった女性が亡くなった事がショックだったのか、このに及んでまだ少しでも長く現世にとどまっていたいのか。とにかく、このどうしようもない悲しみと恐怖をぶつける相手が欲しかったのだ。


「きみは……そうか、そういう事か」


 驚いた。まるで生き物のように言葉を発した事に。ふんわりと耳に残る優しい男の声に、不本意ながらも心を奪われそうな予感がした事に。


「あなた、喋れるのね」


 話しているうちに不鮮明だった視界から輪郭りんかくが徐々に浮き上がり、段々と死神の姿形が認識できるようになってきた。


「そろそろ頃合いだろう」

「頃合いって、何の?」


 死神は私の問いに答える代わりに、淡々と流れている川の水際に近づいて行く。私は吸い寄せられるように後へ続き、かすかに波打っている水面に目を向けた。


「!?」


 そこに映り込んだ自分の姿を見て、驚きのあまり飛び上がってしまう。

 ほぼ同時に、脳が肥大ひだいしたかのような圧迫感に襲われた。立っていられないほどの頭痛に身体のバランスを崩し、夢中で掴んだ死神の肩に倒れ込み体重を預けた。


「しっかりするんだ」


 やがてつま先からジリジリと焼けていくような熱さが全身を駆け巡り、断続的に意識が遠のく。


「〈不帰ふきの追憶〉の副作用か。やはりまだ改善の余地があるな」


 一瞬か数分か。どれくらい落ちていたかはわからないが、彼の声がはっきりと聞き取れた瞬間、目をぱちりと開けた。



 そう、私は――――――













「思い出したかい、サリエリ」


 そう。あたしはサリエリ。辺境の村カロンで、小さなパン屋を経営している。


「ゆっくり思い出して、僕に聞かせてごらん」


 半年前に近くの山で起きた大きな火事。唯一の生存者は、近所に住んでいた14、5歳の女の子だった。全身にひどい火傷を負い、両親は亡くなってしまった。

 いたたまれない気持ちになった私は、その日売れ残ったパンを毎日のように差し入れに行っていた。世間話を交えながら、少しでも元気になってくれればと切に願った。一ヵ月後、女の子は亡くなった。


「女の子……ネノフルの魂が、今日見つかった」


 成仏できずに半年間現世を彷徨さまよっていた、ネノフルの魂。


「死者の魂に入り込み、生前の姿を体験する〈不帰ふきの追憶〉を使った」


 彼女がどんな日々を過ごしていたかが知りたかった。実の娘のように思っていた。


「そしてなげきの川で、死者の世界へ魂を送った」

「そう。いい子だ」


 まるで赤子をあやすような、優しくゆったりとした口調。私はこの声をよく知っている。


「やるじゃないかサリエリ。一日に二つも魂を見つけるなんて」

「嘘よ」

「いっそパン屋を閉めて、この仕事に専念したらどうだ?」

「あたしは……あたしは、あんたにもう一度会いたくて死神になったんだよ!!」


 円錐えんすい形の垂れ帽子、ひだ付きの襟、死神装束に身を包んだ生前の夫の姿がそこにはあった。

 テオ、あんたが死んで、あたしは毎日気がふれたように泣いた。当たり前だった景色がバラバラになってしまった。

 パン作りに没頭することで、孤児みなしごのネノフルに接することで何とか正気を保っていたのかもしれない。ネノフル、あんたはあたしを優しいと言ったけど、助けられていたのはあたしの方だ。

 心のどこかに押し込めていた思いが涙に変換され、頬を伝いどんどん流れ落ちていくのが分かる。


「きみの言う通り、嘘だよ。実はここに来る前、他の死神に見つかって〈不帰ふきの追憶〉をやられてね」

「じゃあ……」

「うん。今の僕には実体がある」


 あたしは自然に彼の両腕へ収まりに行く。ぴったりと隙間なく抱き合うのではない、まるで木の葉を撫でるような優しいものだった。


「でも、どうせ刈られるならきみが良かった。だからきみの元へ来た」

「それって、他の死神から逃げて来たってことかい?」

「そうとも言う」


 間近で視線が交わり、互いにくすりと笑い合う。


「そういえば、あんたって昔から逃げ足だけは速かったね」

「ははっ。思い出すなぁ、きみの親父さんに追っかけられた時のこと」


 テオは優秀な死神だったが、死神をよく思わない私の両親から猛反対され、あたしたちは駆け落ち同然で結婚したのだ。

 鬼のような形相ぎょうそうで追いかけて来る父親をどうにかいて、カロン村までの汽車に二人で飛び乗ったあの日。それまで小さかった世界がほんの少し広がって、キラキラと輝いて見えたあの日。


「たまには会いに行ってやれよ。唯一の家族なんだからさ」


 唯一の家族。その言葉に、逃れようのない別れが迫りつつある事を感じた。そして、そっと抱擁ほうようを解いた。

 これまで無関心だった満月の光が彼の身体に淡く溶け込み、とても綺麗だ。


「おっと、もう時間だな。それじゃあ頼むわ」


 行かないで。行かないでおくれよ。

 何もかもを暴き出してしまいそうな月光は、徐々に彼の身体を通過し、向かい合っているあたしの元へ届けられる。


「あ、そうそう。ここに来る前家に寄ったよ。パン、うまそうだった」


 あたしをまた置き去りにしないでおくれよ。

 身体が動かない。適応できないかのように硬直している。肩で大きく息をしながら、熱くゆがんだ視界を何度も引っ込めた。別れへの必死の抵抗だった。


「ただなぁ、やっぱり二束のわらじ生活は心配だな。きみだってもう若くない」

「さっきと言ってる事が違うじゃないか。今度はパン屋に専念しろって言うのかい?」

「もうとらわれるなって言いたいのさ」


 その言葉で、身体のこわばりは魔法のように解けた。

 まもなく、あたしの旅は終わるんだ。

 空に手をかざし、舞うようにひらりと振る。月光を絡めたあたしの指はテオの輪郭をなぞり、金色の曲線が蜘蛛くもの糸のように後を引いた。魂を送るこの儀式は〈死の化粧〉と呼ばれている。なるべく丁寧に丁寧に、化粧を施していった。


「でも、きみはこの仕事向いてると思うよ」


 その言葉に答える間もなく、淡い光を噴出したテオの身体は粉々に割れ散った。水面へ鮮やかに降り注いでいくそれは、あたしのうつろな表情を隠していくように見えた。


「なんだい、それ」


 言いたいことだけ言って、全く勝手な男だよ。


「それが最後の言葉かい?死神向いてるって……ふふっ」


 笑って見送ってあげなさいだなんて、一体誰が決めたのかしら。


「誰が……決めたのさ。だれが……!!」


 次から次へと湧き出る涙は、はたはたと地面に落ちて小さな泉を描いていく。まだかろうじて残る理性が声を押し殺す。そんな自分も許せなかった。やがて立ち続ける力もなくなり、膝を付き、こうべれた。


 今このなげきが川を裂くようだ。今このなげきが川をひた走っていくようだ。










 コツン、コツン、コツン。

 規則正しく響く自分の足音。しばらくして別の足音が重なり、まっすぐ伸びた長い廊下にぎこちなくこだまする。


「サリエリさん」


 まだ幼さの残る声の主に、歩みを止め振り返る。あつらえたように似合う真紅の外套がいとうを身にまとい、細長い杖をつきながら足をひきずるように歩いてきた。

 声の主は仮面をゆっくりと外すと、雪のような白い肌と端正な美貌があらわになる。思わず息を呑む美しさだ。


「ヨハン、身体はもういいのかい?」

「えぇ、おかげさまでだいぶ」

「〈不帰ふきの追憶〉でこれだけピンピンしてるなんて、アンタくらいのもんさ」


 そう言うとヨハンは少し困ったような表情で、口端を小さく引き上げた。


「気をつけるんだよ。昔に比べてだいぶ普及はしたけど、まだ完全に受け入れられてるとは言いがたい術だからさ」

「生者が死者を……言い方は悪いですけど、乗っ取るようなものですからね。しばらくは実体も持ってしまうし」

「そう、当面は倫理的な問題さ。それに副作用も強い」


 ヨハンは何も答えずにいる。


「でもね、ヨハン。魂を知る。それが死者を送るという事だと思うんだ」


 まだよく分かっていないのか、ヨハンは少し戸惑ったように曖昧な相槌あいづちを打った。


「なんてね。夫の受け売りさ」

「サリエリさんの、旦那さまが作った術でしたよね」

「そ。あたしの自慢の夫がね」


 テオ、あんたの事を思い浮かべない日がないといえば嘘になる。それくらい時間は経ち過ぎてしまった。

 あれから、あたしにもたくさん後輩ができたんだよ。色んな事情を抱えてて、放っておけない子たちばっかりでさ。これも性格なのかね、結局死神の仕事は続けてるんだ。これを見越して向いてると言ったのなら、大したもんだよ。

 あんたのためにも自分のためにも、これから生き抜いていく自信はあんまりない。けど、当分は死にそうもないからさ。


「だからもうちょっとだけ、待ってておくれよ」


 懐から仮面を取り出し、施されている一粒の涙をそっと撫でる。


「? 何か言いましたか?」

「いいや何も。さて、行こうかね」


 そして、あたしは今日もなげきの川へと導くのだ。どこか懐かしい面影を匂わせる、少年の歩幅に合わせてゆっくりと歩き始めた。



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嘆きの川で逢いましょう 規村規子 @kimuranoriko

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