肩身の狭い異世界

髭眼鏡

肩身の狭い異世界

 鈴木は仕事を終え、やっとのことで帰宅した。


 時刻は午後十一時になろうかというところで、トボトボとアパートの階段をのぼっていく。


「ただいま」


 さりとて帰ってくる返事もない。がらんどうの部屋の中にはテレビと布団、必要最低限の生活必需品くらいしかなかった。


 よっこいしょ、と腰を下ろす。


 帰りがけに寄ったスーパーで、半額になった弁当を買ってきた。机もないから床に直置きだ。


 酒は飲めない。全くの下戸。だから飲み物といえばいつも緑茶だ。


 何気なくテレビを点ける。他愛のないバラエティとニュース番組。ほとんどBGM代わりに聞き流している。


 鈴木がどうしてこんなに質素な生活を送っているのか。

 それは、彼の嗜好のせいだった。


 鈴木は大手の建設会社に勤めていた。取り立てて優秀な社員ではなかったが、それでもそこら辺を歩いているサラリーマンよりも多くの給与を貰っている自信があった。だが貯金はない。貯金をする余裕がなかった。


 なぜ、これほどまでに困窮しているのか。


「ごちそうさま」


 食べ終わった弁当がらをゴミ袋に放り投げた。

 そして、乱雑に置かれた荷物の中からとある物を取り出す。


 鈴木はうずうずしていた。


 何せもう自宅でしか、これは保管できなくなってしまった。就業中から吸いたくて吸いたくてたまらなかったシロモノ。


 たばこ。


 国民健康増進法をご存知だろうか。

 ざっくり言えば、日本国民が健康になるために皆んなで協力しよう、という趣旨のもと発布された法律だ。


 同法第二十五条受動喫煙の防止。


 以前は場所を限定し、『ここでは吸わないでください』と管理者が定め、分煙なり禁煙なりの措置を取る、というものだった。


 しかし十年前の改正において、全ての愛煙家に絶望が訪れた。


 日本国内喫煙禁止。


 あまりにも横暴な法律。あまりにも一方的な排斥。


 当然、全国の愛煙家は立ち上がった。


 連日国会前でデモを行い、約千人の愛煙家が一斉にたばこをふかすというパフォーマンスも行なった。もうもうとした紫煙が立ち込め、火事と勘違いした通行人が消防に連絡。愛煙家は直ちに消化されるという屈辱を味わった。


 皮肉なことに、このパフォーマンスが世論を更に加速させていった。新聞の見出しには、『公害垂れ流し、なんとボヤまで』と踊った。多少の尾びれがついた記事だったが、嫌煙家に大きな攻撃材料を与えたのには間違いない。


 さらには、僅かにいた非喫煙者の擁護派すら時間を受け、喫煙家絶滅すべし、との立場を取るようになる。

 謙虚な愛煙家だった鈴木もこの煽りを受け、随分と肩身の狭い思いをした。


「よっと」


 立ち上がり、スーツからスウェットに着替える。会社に少しでもたばこの匂いを持って行こうものなら、村八分に遭いかねない。


 ケースから一本取り出す。


 貴重な一本だ、大切に吸わなくては。

 専用のオイルライターを手に取る。これがなければ吸えない。


『続いてのニュースです。あの、大物俳優三島ヒロシが結婚! 気になるお相手は、今大ブレイク中の女––––』


 テレビを消すべきか迷ったが、『まあ少しの間だし』と思いそのままにする。


 親指でフタを弾く。

 キン、と聞き慣れた金属音。


 そして男は部屋から消えた。





 鈴木が現れたのは、一面真っ暗な世界だった。所々に行灯が置かれているので、全く見えないという訳ではない。


 灯りが照らすもの。

 それは灰皿だ。


「あち!」


 転移した途端、手の甲に熱さを感じる。


 隣を見ると中年男性がたばこを吸っていた。こちらの世界は常に満員で、肩を寄せ合って一服せねばならない。


 この男見覚えがある。


 全国からアットランダムに飛ばされるので周囲の人間が全て知り合いという訳ではない。だがこのご時世、喫煙人口が少なくなってしまったから、コミュニティ自体が小規模だ。何度か顔を合わせたことがある、くらいの人には高確率で会う。


 思い出した、確か。


「どうも山田さん」


「ん、これはこれは鈴木さん。何日ぶりですかな?」


「三ヶ月ぶりです」


 ここは日本ではないどこか。

 というより、地球ではないどこか。


 国民健康増進法の改正は、国内禁煙だけではない。取り残された喫煙者をどこに置くのか、それも定められたのである。


 喫煙界と呼ばれるここは、いってしまえば異世界である。ライターを転移の鍵として、喫煙者はすべからくここに飛ばされる。ここにすべて喫煙者を集めてしまえば、受動喫煙するのも喫煙者だけだ。


 火をつけて、深く息を吸い込む。芳醇な香りが肺の中を満たしていく。

 仕事を終えた後の一服は格別だ。どこで吸おうが、味に影響はない。


「寝る前の一服ですか?」


 山田が世間話ついでに聞いてくる。


「いや、仕事終わりの一服です。最近残業が多くて、ヤになりますよ」


「ヤニだけに?」


 無視して二本目に火を点ける。


「うそうそ、冗談だって。それに、そんなにバカバカ吸っていいの? こんな高級品」


 法律改正に伴い、たばこ税も見直しがなされた。今では一箱二千円を超え、簡単には手の出ない高級品となってしまった。


 それでも吸い続けるのが中毒者の性だ。

 絶対に辞めてやる、と意気込んだ時期もあった。二日で断念した。情けないと思いつつも、たばここそ人生だ、という開き直りの末この世界までやってきてしまった。


「まあ、これくらいにしか金かけるところもありませんから」


 この台詞を非喫煙者に言うと必ず、『もっと有意義なことに使えばいいじゃない。使わなくたって貯金するとか』と返される。


 大きなお世話だ。


 人の趣味にとやかく口出すやつに、ロクな奴はいない。それが鈴木の人生訓だった。


「僕も君につられて、もう五本も吸っちゃったよ」


 嘘つけ。だったらそこに捨ててある、同じ銘柄のパッケージは何だ。


 山田はどうもヘビースモーカーのようだ。前に会った時もハイペースで一箱を空けていた。今もまた、何十本目かのたばこを取り出し、おもむろに火をつけている。

 鈴木もつられて三本目を取り出す。


「僕さあ、最近若いですね、って言われるようになってさあ。自分じゃ分からないけど、鈴木くんから見てどう思う?」


 全く興味がない。

 女性の何歳に見えるかトークすら興味がないのに、その上おっさんバージョンなど苦痛でしかない。


「さあ、四十代くらいですかね」


 一応社交辞令で答える。

 と言うか、そうとしか見えない。


 しかし、山田の反応は妙なものだった。


「やっぱり、皆そう言うんだよねぇ。あ、実際は五十二なんだけどさ」


 知らないが。


 まあ、言われてみれば五十代には見えない。幾分か後退している部分もあるが、それを差し引いても四十代の容貌だった。


「なんだろうね、昔は老けて見えるなんて言われてたのに」


「若い頃から老け顔の人は、年取ってからは若く見られるって言いますからね」


「あー、そうか。そうかも。ま、四十代に見られたところで別に何がある訳でも無いんだけどさ」


 ではそろそろ、と山田が去っていく。ライターのフタを閉め、煙のように消える。


 山田の話には、少し心当たりがあった。

 鈴木も少し前から、その話題を頻繁に振られるようになったのだ。


『なんか、未成年みたい』と。


 まさか、な。


 かぶりを振る。あり得ない話だ。

 ちみちみと吸ってきたたばこを灰皿に入れ、鈴木も自宅へと帰っていった。





『優の渡辺かおりさん! 二人はドラマの共演がキッカケで交際がスタート。それから焼肉デートなどを重ね––––』


 テレビを消す。

 明日も早い。寝る支度をしよう。

 時刻は午後十一時を少し過ぎたところ。

 三本吸ったにしては、あまり時間が進んでいないようだった。





『国民健康増進法の改正からはや二十年。昨今見直しが検討されているこの法律。きっかけは喫煙者の長寿化にあります。過去十年のデータを見ますと、非喫煙者の平均寿命が八十一歳。それに比べ、喫煙者の平均寿命は九十歳と、大きな開きがあります。更に、喫煙者の若々しさにも注目が集まっています。まるで四十代のような六十歳のこの女性。美魔女として多くの女性の指示を集めていますが、この方はなんと喫煙者。彼女にあやかろうと今、女性の間ではたばこブームが巻き起こっています。専門家は、たばこに何らかのアンチエイジング作用があるのではないか、との見解を示し研究を進めています。政府はこの結果を踏まえ、法律の再度見直しを––––』

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