#2 受難の幕開け

 なぜ。それはシンプルな疑問だった。

 一面野原の異世界に飛ばされた伊里依いりいは、ノイズがかった巨人に潰されるはずだった。それを受け入れたはずだった。なぜならそれは、掛け替えのない特別な体験だからだ。

 伊里依は特別を重視する。普通ではいけない。普通でいたら、世界に溶けて消えてしまうから。だから、特別な死に方をして、せめて普通な人生を畳むべきだろうと考えていたというのに。

「タツガミ・イリィちゃん――貴方を、護りに来たの」

 まるで騎士のようだと思った。風体こそ魔女のそれだったけれど、銀髪の彼女は、その時だけは確かに伊里依の騎士だった。

 リリカ・リーリエ・ザッハトルテと名乗った魔女は、どうして自分の名前を知っているのだろうか。どうして、自分を護りに来たのだろうか。どうして、怪物を前にして平然としていられるのだろうか。そのどれもが、伊里依にとっては不思議で仕方がなかった。

「ふふっ。不思議そうな顔」

 そう言ったリリカの表情は、どこか嬉しそうだ。

「でも、全部に答えてあげたいけど、まずはこっちが先よ……ねっ!」

 再び放たれた怪物の震脚を軽々と避けると、リリカは大幅に距離を置いてから、抱えていた伊里依を降ろした。

 怪物へと向き直ると、あちらも真っ直ぐに見つめ返してくる。赫々かっかくとした瞳からは何の意志も読み取れず、伊里依はそれだけで身が竦んでしまっていた。

 怪物は人間よりもずっと大きな体躯を持っている。リリカだって伊里依よりは頭一つ分ほど長身だが、それでもまだ圧倒的に足りない。頭が雲に触れそうな巨体に勝る人間など、この世界にも居るとは思えなかった。

 そんな怪物に立ち向かうだなんて、無謀も良いところだ。リリカが見た目通りの魔女だったとしても、この所感が覆ることはないだろう。

(なのに……何なんだコイツ……)

 リリカの横顔には、まったくと言っていいほど憂えている気配がなかった。ましてや、怯懦などは以ての外で、そこには自信に満ちた清々しい美貌があるだけだ。

「もっと離れて見ていて欲しいけど、目だけは離さないでね、イリィ。きっと気に入ってくれると思うわ」

「はぁ……?」

 伊里依が首を傾げるのもお構いなしに、リリカはすぐ行動に移った。

 これも魔法なのか、リリカは低空を滑るように飛んで行く。銀色の長髪とマントをたなびかせる姿は、お伽噺の魔女というよりは映画に登場するヒーローのようで、勇ましさがやや美しさに勝っていた。

 ともあれ、時を開けず怪物の足下まで辿り着いたリリカは、そのまま脇を通過しつつ身体を反転させる。背後を取られた怪物が緩慢に振り返るも、完全に体勢を整え切るのを待たずに、リリカは指を打ち鳴らした。


「我が偉業は《妄炎》!

 幻想フロギストンの前で灰燼に帰せ、《ミゼラブル》!」


 直後、怪物――どうやら《ミゼラブル》と呼ぶらしい――の足が爆炎を噴出する。

『――――――――――――――――――――――――ッ!』

 雑多な悲鳴を一つにまとめたかのような、聞くに耐えない絶叫が轟いた。

 思わず耳を塞ぐ伊里依の目の前で、右足を吹き飛ばされた怪物ミゼラブルがくずおれる。それでも尚、足を燃やし続ける業火だったが、不思議と草原にまで被害が及ぶことはない。

「…………」

 そのワンシーンを、伊里依は瞬きもせずに見守ってしまっていた。

 リリカが使ったのは、きっと魔法だ。彼女は何も持っていなかったし、この辺りにガスのような異臭もしなかったことから、その推測はあながち間違いではないのだろう。何より、《ミゼラブル》の足にあそこまでの損害を与えていながら炎は周囲に一切の被害を出していないのだから、魔法以外に説明がつくのであれば、それはそれで興味があった。

 さらに、こうしている間にも魔女の猛攻は続く。

 右足を吹き飛ばした後、今度はかしいだ《ミゼラブル》の左足を吹き飛ばす。怪物が絶叫を巻き散らしながら再生するのも構わずに、リリカはさらに左腕・横腹・腰周りと猛炎で突き崩していった。

 下方ばかり狙っているのは炎を発生させられる場所に制限があるからか、それとも単に《ミゼラブル》をより低い位置に持ってきたいからなのか、円を描いて飛ぶリリカはひたすらに炎を発生させ続ける。遠くから見ているだけの伊里依は、映画でも見ているかのような気分になってきた。

(すごい……)

 心の中で点数をつけるのも忘れて、伊里依は勇敢な魔女に魅入っていた。

 ちっぽけな人間が、巨人を相手取って優勢に立っている。不可能を可能にした瞬間というものは、それだけで見ている側にも勇気を与えてくれるものだ。予想だにしていなかったその光景は、伊里依の目には特別に写った。

 ――貴方を、護りに来たの

 すぐには理解できなかったあの言葉も、ここまでの大立ち回りを見せられては納得しないわけにはいかない。相対的に自分まで特別な存在になったような錯覚を覚えながら、伊里依は自然とリリカを応援するまでになっていた。


 だが。

 世界はどこまでも、伊里依に退屈を許さないらしい。


「……あっ」

 伊里依が思わず声を上げた――その瞬間。

 変わらずに攻撃を続けていたリリカへと、《ミゼラブル》は腕を振り下ろした。

 それは、周囲を飛び回る蚊を鬱陶しく感じたかのような、怒りに任せた一撃だったのかもしれない。《ミゼラブル》の両足は僅かに再生しつつも灰となって崩落していたし、左腕もまるで原型を留めてはいなかった。それでも、強引に振り下ろされた右の拳は、明確に銀髪の魔女を叩き潰した。

「そんな……っ」

 たったの一撃。それだけで、形勢は覆った。

 リリカが油断したわけではないことは、観戦していた伊里依にはすぐに分かった。彼女は絶えず攻撃の手を放ち続けていたのだ。少しでもあの魁偉かいいを削ごうと、死地を駆け回っていたのだ。

 けれど、無意味だった。

 リリカが能力不足だったのではない。

 あの怪物がそれだけ理不尽な存在だった、というだけの話だ。

 やはり《ミゼラブル》は、伊里依に死を与えるために世界が遣わせた存在だったらしい。そうでなければ理屈が合わないとさえ感じる。それほどまでに、戦力差が絶望的だった。

「……ははっ」

 

 結局のところ、自分は死ぬ運命にあったのだ。それはこの《眼》の特典なのかもしれないし、あるいは知らず知らずの内に恵まれすぎていたのかもしれない。特別であるということは、それだけ大きな代償を背負う必要に駆られるというだけの話なのだろう。

 怪物の赤い瞳が伊里依を射抜く。地面に突き立った腕を引き抜いて、今度こそ息の根を止めに来るのだ。何を隠そう、伊里依を殺すためにここに現れたのだから。《ミゼラブル》は自分の役割を全うしようと躍起になっているだけである。

(あれ。でも……何か、変だ……)

 ふと、伊里依は一抹の違和感を覚えて、一度思考を止めた。

《ミゼラブル》に立ち向かったリリカは居なくなった。例え魔女だろうと、あの一撃を受けて軽傷で済むわけがない。死を運ぶ存在がすぐにこちらを攻撃してくるのは、疑いようもない事実である。

 だが、どういう了見だろうか。

「…………?」

 視界は至って普通の野原を写していた。

 赤どころか、黄色さえも混じらない、どこまでも広がる緑色だ。そこに大きな怪物が立っていること以外には、異変と呼べる異変は見受けられない。

 危険の色が見えないということは、裏を返せば伊里依が襲われる未来がこないということである。


 とどのつまり、阻む魔女が健在ということであって。

 それは、リリカが死んでいないことを意味していた。


 そう伊里依が認識した瞬間――地面に突き立ったままの《ミゼラブル》の腕が

「……っ!」

 挙句、猛火は腕だけに留まらず、怪物の全身を駆け上がっていく。

 さらには、巨体を取り囲むようにしてまた別の炎が立ち昇り、渦を巻いて天を貫いた。それは炎の柱とでも呼ぶべきか、昼間だろうと陽光を塗り潰すほどの光量で世界を照らし出し、尋常ならざる威力を辺り一面に振りかざした。あまりの火力に空気は膨れ上がり、遠く離れていたはずの伊里依の元にまでその熱波が及ぶ。

「うわっ!」

 普段は出さないズボラな悲鳴を上げて、伊里依は思わず顔を腕で覆っていた。このまま見続けていたら眼球が沸騰してしまいそうで、ついでとばかりに目を痛いくらいに瞑る。

 熱波は全身をしたたかに打ちつけ、踏ん張っていなければ今にも地面から引き剥がされてしまいそうだった。これだけの突風を生み出した炎柱を、あの魔女が生み出したと言うのだろうか。だとしたら、リリカは紛うことなき特別だ。

(……すっごい……)

 気が付けば、伊里依は口端が緩んでいた。

 自分は今、特別な状況に置かれている。こんな経験は二度と訪れることはないだろう……そう実感するほど、場違いにも歓喜ばかりが込み上がってくるのだ。

 こんな気持ちはいつぶりだろう。下手したら生まれて初めてかもしれない。熱で皮膚がひりつく痛みも忘れて、炎柱が収まるのを今か今かと待ち焦がれた。

 あの怪物はどうなったのだろう。貫かれた空は。そして何よりリリカ自身は、炎柱の出現によってどんな変貌を遂げたのだろうかと、伊里依は好奇心が刺激されて止まなかった。

「ほら、イリィ。もう目を開けても平気よ」

 程なくして、馴れ馴れしい声に目を開ける。

「……っ!」

 一言で表せば、もう既にすべてが終わっていた。

 平原には炎柱どころか、《ミゼラブル》の姿さえも見受けられない。丘の上にあったものは、恐らく怪物だっただろうと思われる灰の山だけで、炎柱が貫いた空は雲の一つも残っておらず、平原に至っては燃え盛った様子もなく緑の絨毯は健在だ。あまりにもあっさりとした光景に、伊里依はしばらく目を瞬かせてしまった。

「すごい……あんなのを、一瞬で……」

「気に入ってくれた?」

 得意満面の笑みに、伊里依は若干言葉に詰まった。

 素直に打ち明けるのなら、人生で一・二を争う素敵な光景だった。現状の一番が何だったのかは残念ながら思い出せないが……さりとて、見ず知らずの魔女に心を震わせられた事実がなんだか癪で、心のままに頷くことは躊躇われた。

「……あの」

「どうかした?」

 だから、伊里依は話題を強引に転換することにした。

「さっきの一撃を受けて、どうして平気なんですか? それも魔法なんですか?」

「あれ? まさかとは思うけれど……ひょっとして、心配してくれてるの?」

「そりゃ、だって……」

 リリカのクリスタルの如き瞳に見つめられて、伊里依は伏し目がちに認めた。

 見れば、彼女が纏っていたローブはボロボロだ。三角帽子だって円錐型と呼ぶには歪みが目立っている。明らかに尋常ではないダメージが与えられた証拠で、だからこそ無事であることが不思議で仕方なかった。

 衣服の破れた隙間から炎が垣間見えていることが、何よりも疑問を助長させる。心配と表現するよりは、好奇心と表現した方がずっと適切な問いかけに、しかしリリカは不満げな様子もなく。

「私の身体ね、あの程度の攻撃じゃあ死なないようになったの」

 まるで伊里依がその前のリリカを知っているかのような言い草に、首を傾げたくなる。無意識での言い回しだったのか、リリカは訂正する素振りもなく続けた。

「魔法とは別物のカラクリなんだけど、まぁ、とにかく平気なのよ。怪我だってもう治ったしね。痛みだってないわ。だから、心配してくれて……ありがとう? させちゃってごめんなさい?」

「いえ、こちらこそ、助けてもらって……」

「良いのよ、これくらい。私が好きでしたことだもの。まさか貴方が勝手に《アストラル》に来ちゃうなんて、思ってもみなかったけど」

 アストラル。この地域の名前だろうか。

 伊里依が口に出さずにいると、リリカはすぐに察して補足してくれた。

「こっちの世界の名前。そういえば、まだ何も説明していなかったわね」

「まぁ、はい。色々と訊きたいことが、ないこともないと言うか」

「良いわ。全部に答えてあげるって言ったものね」

 微笑むリリカ。それだけで、伊里依はドキリと心臓が跳ねるのが分かった。そのケはないはずなのに、彼女の笑顔はどうしてか魅力的に写ってしまう。

 いやいや、と伊里依が邪な気持ちを振り払っていると、リリカは不意にこう切り出した。

「でも、その前に一つ。私から質問してもいいかしら?」

 まさかのお預けである。

 急かしたい気持ちがないと言えば嘘になるが、これで魔女の機嫌を損ねて疑問と好奇心を宙ぶらりにしてしまうのも勿体ない、と伊里依は大人しく聞き入れることにした。

「私としても、イリィに事情を説明するのはやぶさかではないのだけれどね。でも、この世界について知ってしまったら、イリィはもう表側の人間として生きていくことは出来ないし、教えるためにはきっと貴方が嫌がる措置で強引に掟をすり抜けなきゃいけなくなるの」

「……?」

 いまいち要領を得ない漠然とした長い前置きに、伊里依はきょとんとした。

 けれど次の一言で、彼女が冗談を言っていたわけでも、勿体つけていたわけでもないことなど、即座に理解することとなる。


「貴方に、はある?」


 その質問に、伊里依は即答できずにいた。

 あまりにも突飛な話である。

 ただ別の世界について知るだけ、リリカについて教えてもらうだけ。たったそれだけの話だったはずなのに、どうして伊里依の人生にまで事が及ばなければならないのだろう。

 それでは、まるで――

…………)

 伊里依は普通で退屈な自分の世界が嫌だった。そこに毒されて、ズブズブと溺れていく日常が怖かった。だから、捨てられる機会が来たのなら、それほど望ましい状況もないと考えていた。その好機がまさか向こうから転がり込んで来るだなんて、想像できていたわけがない。

 棚からぼた餅。瓢箪から駒。この異世界は伊里依を喜ばせるためだけに存在しているに違いなかった。

 故に、即答こそままならなかったが、答えは瞬時に固まっていた。

「イリィが望むのなら、私には手を貸す用意はあるわ。でも、望まないのであれば、悲しいけれど強要するつもりはないの。だってこれは、貴方の今後の人生に付きまとうことになる大切な――」

「良いですよ、別に」

「――問題だもの。安易に押し進めて良いはずなんて……え?」

 しれっと挟まれた合意の声に、リリカは瞬きを繰り返した。

「ほ、本当に良いの? ちゃんと考えた?」

「本当に? 本当に平気? 学校のお友達は? 好きな先輩とかは居ないの? 将来の夢とかない? やり残してることは? 本当に捨てちゃっても大丈夫? もう元には戻れないのよ? 軽い気持ちで考えてない?」

「だから、大丈夫です。友達なんて居ないし、好きな先輩も同じです。私にとっての人生なんて、捨てることを惜しむような素敵な日々ではなかったので」

「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………はぁ」

 伊里依の返答を聞いて、リリカは深く溜め息をついた。

 どうやら呆れられてしまったらしい。理由は分かり切っているし、同じ立場ならきっと伊里依も同じ反応をしていたことだろう。それくらい味気ない答え方をしてしまった自覚はあった。

 けれど、事実は事実だ。伊里依は思ったままを正直に打ち明けた。信じようが信じまいが、これが直截な心境であることには変わりない。

 それをリリカも理解してくれたのか、呆れつつも受け入れることにしたらしい。

「分かったわ。なら、ちょっと待ってて」

 打って変わってやや嬉しそうに言ったリリカが、地面に何らかの模様を描いていく。魔法陣というやつだろうか、野原の一部分だけを指先で燃やして描かれる円陣は、昨今では漫画などで散見される模様である。

 ちょうど人が一人立てるくらいの二重円を描き、円周同士の間に見たこともない文字が綴られていく。続けて、リリカは同じ大きさの二重円をもう一つ作る。こちらにも同様だが別と思わしき文字列を書き連ねていった。

「さぁ、イリィ。こっちの陣に立って」

「はぁ……」

 おまじないでも掛けてくれるんだろうか。疑いもせず浮き立つ伊里依は、普段からは考えられないくらい素直に魔法陣の中に入った。

「片膝をついてしゃがんで」

「…………」

 また大人しく従う伊里依――だが、すぐに違和感が生じる。

(あれ? なんか、服従するみたいな……)

 ハッと顔を上げると、説明を求めてリリカを見た。

 そこで、自分が重大な見当違いをしていたのだと、嫌でも気付くこととなった。

「我が属界《アストラル》に捧ぐ――」

 リリカがそう口にすると、魔法陣が淡く発光し始める。

(嵌められた……!)

 そう察した時にはもう手遅れで、伊里依は見えない壁のようなものに阻まれ、陣から逃げ出すことができなくなっていた。

 詳細を明かさずに儀式を始めるということは、伊里依に知られると不都合な事情があるということだ。リリカが何を求めて何を目論んでいるのかは知らないが、伊里依を利用しようとしていることだけは、聞くまでもなく簡単に想像がついた。そうでなければ、こんな騙し討ちのような形で儀式を強引にスタートしたりはしないはずなのだから。

「我が偉業は《妄炎》。天秤の祝福を受けたカルディアの魔女なり」

「ちょっ」

 伊里依は制止を求めるが、リリカはまるで意にも介さない。

「満ちた杯は二つ。双方は盟約の糧となりて、汝の天秤に注がれん。従は主が幸福を希求し、主の命運は従に帰結する」

 果たして、伊里依の意志など関係なく、リリカによって最後の文言が告げられる。


「我が悦をがえんずるならば、応えよ。

 汝の意に従い、我らが契りは成就する」


 魔法陣は一際激しく閃き、伊里依はうっと目を細める。

 すると、すぐに唇に何かが触れた。それがリリカの手の甲だと気が付くよりも前に、右の手首に僅かな痛みが生まれる。

「……っ」

 そっと目を向けると、そこには茨を想起させる模様が刻まれていた。

 彫った覚えのないタトゥーを認めて、即座にこの儀式によって発生したものだと察する。魔法陣の光が弱まるに連れて痛みも引いていき、その憶測は次第に確信へと昇華していった。

「良かった。相手が人間でも、ちゃんと成功するものなのね」

「……え? はっ? な、何をっ?」

「そんなに慌てなくっても良いじゃない。別に、変なことなんてしてないわよ?」

 どの口が言うのか。何も知らない伊里依だって、これがロクな状況になっていないことくらい、考えなくても理解できる。

 単に説明する項目を増やしただけではないか。そもそも、成功するかも不確かな儀式を無理矢理に始めるんじゃない。そう詰りたい気持ちを飲み込んで、伊里依は込み上がる怒りを乗せて思い切り睨みつけた。

 だが、リリカは歯牙にもかけていないらしい。

 至って平然と微笑みを湛えながら、彼女は儀式の意味を悪びれもなくこう打ち明けた。

「貴方と使い魔の契約を結んだの。ほら、さっき人生を捨てるとか、そんな話をしていたじゃない?」

「…………」

 しばし伊里依の思考が停止する。

 使い魔。それは魔女が連れる黒猫のことを指すのだろうか。魔女に使役される、小間使いのようなもの。それを人間に頼むということは、要するにこの魔女は自分のことを人間として見ていないのか、はたまた単に格下として認識しているのか、どちらにせよ、伊里依の反応はたった一つだった。

「……は?」

 短い疑問の声だけが、広い草原に溶けていく。

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終着のアタラクシア 乃條知尋 @nagi4135

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