#1 普通の日常と“特別”な世界
「す、好きです! 付き合ってください!」
放課後。校舎裏。桜の木の下。この条件があると、なんだか告白が成功するような気もするし、ここで結ばれたカップルはその先も仲睦まじく続いていくような気もする、絶好のシチュエーションだとは思う。
けれど、ここはあと半年もしないうちに見頃になるイチョウの木の下で、校舎裏も掃除が行き届いていなくて人が寄りつかないだけである。加えて、告白をされる側というのにもいい加減慣れてきてしまったことも相俟って、特別と評価するには些か退屈が勝っていた。
(まぁ、マイナス三点かな)
最敬礼以上に腰を深く折った男子生徒を、琥珀色の瞳で見下す。見下ろすのではなく、見下す。
髪型にこだわりがあるようには見えない。制服に手を加えている様子もない。着こなしも平凡。顔が特別良かったなんてこともない。まさに路傍の石といった印象しか抱けない外見の、普通が服を着たような男子だった。
「あの。えっと……」
伊里依は声をかけようとして、相手の名前を忘れたことに気がつく。
まぁいいや、と問題を一端脇に置いておいて。
「貴方のアピールポイントって、どこですか?」
「……え?」
酷な質問ではなかったはずだが、顔を上げた男子生徒は困惑の表情を浮かべていた。
「そう、ですね……」
即答できない。マイナス一点。
伊里依は早速心中で減点した。
「うーん……」
優柔不断。マイナス一点。
「……人に優しいところ、ですかね……?」
それは普通。マイナス五〇点。伊里依が持ち合わせていないものを持っている点を加味すると、減点率は大幅に増した。
つまるところ、自身の魅力も理解していないのに挑んだ無謀な勇者だったというだけの話であって、伊里依は急速に興味が薄れていくのが分かった。ついでに、そんな体たらくで無策のまま告白してきた蛮勇に、マイナス五点ほど。
普通というのはダメだ。愚者であることよりも、ずっと愚かなことだ。普通の人間は、普通でないことを何よりも嫌う。みんなと同じでないことを、何よりも恨む。それは伊里依からしてみれば、気色悪いとさえ思える奇妙な思考だった。
人と違うことの、何が悪いんだ。
生半ではない差異を他人との間に持っている伊里依は、普通という言葉が大嫌いだった。その言葉に、その思考に、その空気に、どれだけ肩身が狭い思いをしたことか、思い返すのも億劫だ。
聞こえないように小さく溜め息をつくと、話を切り上げることにする。
「ごめんなさい。私はあなたのことをよく知らないですし、今は友達も募集していないので、このことは忘れてもらえませんか?」
「そうですか……」
食い下がることもせず、男子生徒は大きく肩を落とすだけだった。
所詮、その程度の気持ちだったということだ。きっと伊里依でなくとも、可愛い女子ならそれで良かったのかもしれない。何なら、容姿など度外視で、ガールフレンドという存在さえあれば、彼は満足できたのかもしれないとさえ思えた。
(くっだらな……)
特別でないことは、ひどく退屈なことだ。
のっぺらぼうな人生を送るだけなら、いっそのこと死んでしまえば良い――というのが伊里依の考え方である。
自分じゃなくても出来ることを選択して行使するのは、生きることを諦めた者のすることなのだ。代わり映えのない日々を過ごすだけの人生は死んでいることと大差がなくて、素直に死んでいく人よりもずっとタチが悪いし意地汚い。普通という逃げ道は、凶器以上に人を殺せる悪質な言葉なのだ。
(……なんてね。私だって別に何かが出来るってわけでもないのに、よく言うよ)
自分の右目にそっと手をやって、伊里依はストレートに自嘲した。
この《眼》が特別であることに間違いはない。ここに宿る力は本物で、二つと存在するはずがないことも知っている。それでも、この《眼》は伊里依が意識すれば使える力というわけではなく、さらに言えば、誰かに対して効果を発揮することもなかった。
何より、この力は唐突にやってくる難物だ。
(――あ、来た)
目の奥に小さな疼痛を覚えて、伊里依は即座に校舎を見上げた。
開け放たれた二階の窓から、赤い線が伸びてくる。その線はまっすぐにこちらへ向かってきて、刃物を思わせる鋭さで頭頂に突き刺さっていた。
(この上って、調理室だっけ。今は部活中か……)
暢気に思考を巡らせながら、伊里依は線を避けるように数歩退く。
赤い線。命を脅かす危険。この《眼》でしか見えないけれど、しかし確実にやってくる死。それを知っている伊里依には、回避しないという選択肢はなかった。
「立ヶ海さん……?」
「じっとしていた方が良いですよ」
まだいたのか、という言葉を飲み込んで、男子生徒へ忠告する。
程なくして、和気藹々としているようで、若干の焦燥感を孕んだ喧噪と共に――一本の包丁が飛んできた。
サク、と危機感の薄い音を立てて地面に突き立つ包丁に、男子生徒は「ヒッ」と短く悲鳴を上げる。特別な《眼》がなければ自分の頭がこの地面と同じ運命を辿っていたんだ、という実感が遅れて襲いかかり、伊里依は嫌な汗が肌を伝っていくのが分かった。
「もー、危ないから遊ぶなっていつも言……って、わぁっ、伊里依ちゃん!? 大丈夫だった!?」
すぐに顔を出した(恐らく)料理部の女子部員が、一気に顔を青くして叫んだ。
続けて、続々と顔を出す男女混じった部員たちが、一斉に慌てふためく。
「ごめん! ほんっとごめん! ロマンチック空間を壊したことが何よりごめん!」
「すぐ取りに行くから! お詫びに今作ってた特製ラーメン持って行くから!」
「ダメだ! 美少女はラーメンを食わねぇ! 誰か切腹最中買って来い!」
「怪我は!? そこの男子なんかより美少女の怪我は!?」
「不敬罪だーっ! うわーっ!
「二人とも怪我はなかったので、大丈夫ですよーっ!」
微妙にノリが軽い気がしないでもなかったが、ひとまず無事を報告しておく伊里依は、控えめな笑顔を貼りつけることを忘れない。こんなことで彼ら彼女らの表情が綻ぶのだから、顔が良いというのはそれだけで得だ。
ともあれ、特製ラーメンも切腹最中も興味がない伊里依は、部員たちを待たずに校舎裏を後にすることにした。予定が控えているなんてことはなかったが、放課後はまっすぐ家に帰りたい性分なのである。
× × ×
立ヶ海伊里依という少女は、何事につけ他人と違うことを重視する。
無論、帰路でもそれは変わらない。高校から家までの道のりを歩く時は必ず違う道を選んで帰ろうとするし、今だって見たこともない道を歩いていた。もっと言えば、家の方向とまるで逆へと邁進しているほどだった。
帰りが遅いことを心配してくれる家族などいないし、むしろ早く帰れば帰るほど「早く友達を作れ」と呆れる叔母がいるくらいで、日を跨ぐことさえなければ寄り道に文句がつくことはなかった。
だから、伊里依は人気のない舗装路のド真ん中を鼻歌まで奏でながら進んでいた。
「……?」
そこでふと、奇妙な違和感を覚えて足を止める。
眼前に現れたのは、何の変哲もない隙間だった。ブロック塀と電柱の間に挟まれた、ちょうど人が一人通れそうな横幅があるだけだ。伊里依はなぜ自分が立ち止まったのか分からずに、しばらく首を傾げてしまっていた。
こういった隙間を見ていると、意味もなく通ってみたくなるのは何故だろう。もう高校生になったはずなのに、子供じみた好奇心だけはいつまでも健在で、それが恥ずかしくもあり可笑しくもあった。
ただ隙間を通るだけなのに、無意識に生唾を飲んでしまう。この行為が特別な結果に繋がるようにと、心のどこかで祈っていたのかもしれない。
「えいっ」
ついには、そんな愛らしい声を出しながら、意を決して踏み込んでみる。いつの間にか目を瞑っていて、まるでその先で景色が変貌するのを期待しているかのようで、思わず笑いそうになった。
だから――
目を開けた瞬間、飛び込んだ景色を理解するのに、決して短くない時間を必要とした。
「……え?」
目が点になる、というのを、初めて実感する。
目前に広がった世界は、さっきまで歩いていた知らない道路とは似ても似つかないほど、実に自然に満ち溢れた心地よい世界だった。
「……え?」
図らずも、再び同じ疑問を繰り返す。
咄嗟に後ろを振り返り、続けて前に向き直り、また背後に視線を戻す。それでも、世界は豊かな緑に包まれたまま、一向に本当の姿を見せることはなかった。
分かるのは、どうやらここが丘の上らしいということと、人が生活していそうな気配が感じられないということだけ。他には手掛かりになりそうなヒントなどはなく、緑の絨毯が文字通り際限なく地平線の彼方まで広がっているのみだ。
「…………」
伊里依は、次第に自分の胸が高鳴っていくのが分かった。
(――これだ。こういのを待っていたんだ、私は)
特別だ。断じて普通などではない。ましてや、現実味などは滑稽なくらいに介在する余地がない。そう思うほど、全身に鳥肌が
こんな特別を隠していただなんて、世界もまだまだ捨てたものではなかった、というわけだ。退屈だなどと唾棄していた自分が愚かしく思えてくるほどに、この特別な世界は伊里依の興奮を着実に助長させていった。
まだ序の口だろうに、こんな些細な変化で昂ぶっていて正気を保っていられるのかと心配になるくらいだ。これから想像を絶するほどの災難に見舞われるかもしれないし、ひょっとするとこの世界で一生を終えることになるかもしれない。だが、伊里依はそれでも構わないと、むしろ予感が的中してくれれば良いとさえ感じていた。
そんな馬鹿げた妄想を、未知の世界はどう受け取ったのだろう。
突如、伊里依の《眼》の奥が、強烈に疼いた。
「……っ!」
咄嗟に振り返る。この感覚は、尋常な規模ではない。
この《眼》が視界に映すものは、言わば『伊里依自身に襲いかかる危険』だ。まず《眼》の奥に違和感という前兆があって、すぐに迫り来る危険が可視化されて目に映る。赤を最大として、危険度合いが低くなるほど黄色へと近付いて見えるおかげで、危機に対する心構えが出来るという点だけは素直に評価してやるべきなのだろう。
そんな《眼》が痛いほどに違和感を訴えたことは、伊里依にとってもそれなりにゾッとしないものがあった。
(しかも――こんな色、見たことない……っ!)
背後に現れたのは、視界を埋め尽くすほどの暗幕だった。
それも、色に食われてしまうんじゃないかと不安に駆られるような、
「――は」
小さく声が洩れる。
目の前に立ちはだかっていた存在に、今更になって気が付く。
暗幕の向こうにそびえていたのは、全長の目測もままならない巨体だった。全身はノイズが走ったような黒とも灰色とも断定しにくい暗色だが、何も《眼》の効力でそう見えているわけではなさそうだ。遥か上空からこちらを見下ろす赤い目だけが異様に目立つ風貌は、伊里依に死を運ぶ概念としてこの世界に君臨したようにも見える。むしろ、そうでないと説明がつかないくらいに真っ直ぐと見据えられ、初めて《眼》が示した暗幕が不具合などではなく、死を凌駕する何かが襲いかかってくるのだと確信させるには充分すぎるほどだった。
「――はは」
再び、声が洩れる。
「あはは! あははははははははははははははッ!」
気が付けば、伊里依は下品な笑い声を上げていた。
特別にも程がある。こんな経験が天から降ってくるだなんて、自分は前世でどれだけの徳を積んでしまったのだろうか。場違いも甚だしい歓喜に震える伊里依は、もはや正常な判断が不可能な状態にあった。
死ぬことに恐怖を感じないわけではない。実際、全身が不愉快な震えに支配されているし、走って逃げようにも指一本動かせないのが現実だ。
けれど、目の前の、夢であってくれた方がずっと喜ばしい光景を目の当たりにして、最期まで見届けたいと常軌を逸した心境に至ってしまったが故に、現状に対処するという選択肢を頭の中から消去していた。
《眼》によって視界に現れた暗幕をなぞるようにして、怪物の足が迫る。
どうしてこちらが狙われているのか、巨人はどこから湧いたのか、そんな事情はもはやどうでも良かった。伊里依がこの一瞬後に死ぬことだけが
(こんな死に方があったなんて、私はなんて幸せ者なんだ……!)
あぁ、正直、自分は狂っているのだろう。それが露見した今になっても、伊里依は満たされたままだった。
狂っているから何なのだ。落伍者でもいいじゃないか。正常ではないということは、つまり普通ではないということだ。特別ということだ。浮かれることはあっても、落胆することでは決してないではないか。
――さぁ、潰せ!
――特別な
伊里依は欲望のままに叫んだ。
死の概念が届くまで、もう間もなく。
三、二、一……そう心の中でカウントしながら、錯乱した少女は心待ちにした。
もはや視界は怪物の足の裏が席巻し、伊里依は死ぬ事実以外を完全に度外視する。ここまで来て誰かが自分を救い出すなどという奇跡を、有り得ないことだと一蹴する。何せそれは、荒唐無稽である以前に、伊里依自身が望まない未来なのだから。
そう、とどのつまり――
「イリィっ!」
自分の名前を叫びながら、死地に滑り込んでくる馬鹿が居るだなんて。
死を受け入れたはずの自分が、のうのうと生き延びてしまうだなんて。
そんな幸せな否運を、立ヶ海伊里依は認めることができなかった。
「は……っ?」
それは、ローブを纏った女性だった。頭には鍔の広い三角帽子を被り、まるでお伽噺に出てくる魔女のような出で立ちをした、銀髪の美しい女性だった。
彼女は目視できない速度で伊里依に肉薄したかと思うと、そのまま所謂お姫様だっこの要領で抱え込み、先程以上の恐るべき素早さで怪物の足から退いてみせた。
数瞬遅れて、怪物の
「良かった。もしかしなくても、間に合ったみたいね」
ふぅ、と一息ついた女性は、同性でも魅了されるほどの完成された微笑みを伊里依に向けた。
そこまでされても、伊里依は未だ、自分の命が無事であることが不思議で仕方がなかった。見たこともない色を《眼》に映されて、生きていられる道があっただなんて、想像もしていなかった。
「あ……貴方、は……?」
「うん? 私?」
思わず問いかけてしまったのだが、魔女は不満を露わにするでもなく、むしろ喜んでさえいるような表情で応えた。
「私はリリカ。リリカ・リーリエ・ザッハトルテ」
そして、それは。
更なる衝撃となって、伊里依に襲いかかることとなるのだった。
「タツガミ・イリィちゃん――貴方を、護りに来たの」
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