終着のアタラクシア

乃條知尋

第一章 《先見の魔眼》と《妄炎の魔女》

#0 魔女の旅立ち

 世界に表と裏があるのであれば、こちらは裏側と呼んで差し支えないだろう。

 表側から淘汰されたもの。空想と切り捨てられたもの。おおよそ世界を回すのに不要と判断されたすべてが――本当に不要だったかはさておき――この《アストラル》には揃っていた。

 魔法は日常へと浸透し、ドラゴン天馬ペガサスといった稀少な生物が何を憚ることなく生を謳歌する。自然の景観も損なわれることなく世界を深緑で彩り、人類の生活圏は草木の長閑のどかな香りに包まれていた。

 居住区もその例に漏れず、石造りの家屋の周囲であっても、緑の色が極端に減るようなことはなかった。俯瞰すれば一つの街が形成されていることが一目で見て取れるその集落は、建物の一つ一つが植物で着飾っているかのように、見事な共生を成している。

《アストラル》の中央に位置する、《カルディア》。

 庭園を連想させる豊かな緑の街並みを一本の大通りが貫くそこは、この《アストラル》でもっとも人々が集う街だ。天球によって世界に果てが存在している《アストラル》に於いて、国とは畢竟ひっきょうこの世界そのものであり、また表側と比較して人口が数桁少ないが故に、《カルディア》の規模が国家に匹敵していようが街と呼称する他にないのである。

 そんな《カルディア》の最奥に、見る者を圧倒する偉容の建物があった。この街のどこからでも頭頂くらいは目視できるほどの巨大なランドマークであると同時に、《アストラル》という広域で見ても重要視される建造物だ。

 表側ではコリント式と呼ばれる典雅な列柱が門を構え、後方には半円球のドームを被った円堂が続くその建築は、《アストラル》に於ける数多の儀式を執り行うために用いられる宮殿――《エンケパロス》。

 そんな、天井まで一〇メートルはあろうかという巨大な宮殿の中では、例によって今も儀式が行われていた。

 天井の高さと同じ直径を持った円堂の中央で、一人の女性が片膝をついて頭を垂れる。ドームの頂点に空けられた穴から差し込む陽光を浴びて、彼女の銀髪は本来以上の煌めきを生み、幻想的な《アストラル》の中にいてなお神聖さを感じずにはいられない。

 女性の周囲には、ローブをまとった者たちが立ち並び、一様に円堂の最奥へ目を向けていた。まるでそこだけが世界の表からも裏からも隔離されているかのような、侵しがたい独特の雰囲気を漂わせる最奥からは、しんと冷えた抑揚のない声が紡がれる。

「リリカ・リーリエ・ザッハトルテ」

「はい。ザッハトルテ家が三女・リリカ、召呼に与かり参上致しました」

 最奥から名前を呼ばれ、銀髪の女性――リリカは滑らかに返事を口にする。

 顔を上げ、一呼吸つけてから、クリスタルの如き澄んだ瞳で相手を見遣った。

 前方にいるのは、石像のような女だった。

 肌は血の気が感じられないほど白く、髪も、瞳も、まとう衣装も、何もかもが薄気味悪くなるくらいに純白で統一されていた。一瞬後には微動だにしなくなっているんじゃないか、そうとさえ思わせる神妙さには、普段は猫背のリリカでも背筋を伸ばさずにはいられない。

 魔女の元祖にして、魔女を統べる長《アルケ・マガ》。

 うら若くも見えるし、年老いているようにも見えるが、その実、《アストラル》創世から生きている齢数億の神格級の存在である。

 それでも、リリカに緊張はなかった。胸の内にはただ、早くこの儀式を済ませて『あの子』に会いに行きたいという、至極手前勝手な欲求だけがあった。

 向こうはもう、こちらの顔も名前も知らない。関係を断ち切られ、赤の他人として長い年月を浪費してしまった。それでも、リリカは『あの子』との約束を果たすべく、今日まで甘んじて罰を受けてきた。


 ――絶対、絶対に迎えに行くから。

 ――そしたらまた、私と……。


 毎夜思い返す。自分の未熟さが祟って、『あの子』に辛い思いをさせてしまったあの日のことを。一〇歳の時分に隔絶して以降、一〇年もの間、その悔恨だけを胸に生きてきた。

 重い女だと笑えば良い。それでも、独りよがりでも、コンプレックスから解放してくれた『あの子』に、盛大な恩返しをしなければ気が収まらないのだ。

「魔女の禁忌を犯した貴方は、本来ならこの世界へ足を踏み入れることさえも許されなかった。そんな貴方が、こうして再び我々の同胞として享受される幸福を受け入れ、そして悔い改めなさい」

「はい。二度と高潔なる魔女の名に恥じることのないよう、規範から逸脱することなく真っ当な歴史を刻み、《アタラクシア》へと続く道を拓くことを、偉大なる魔女《アルケ・マガ》の御前で誓います」

「その言葉に嘘偽りがないことを、私は切に願います」

 魔女長の持って回った言い草に、リリカはそっと怒りを飲み込んだ。

 妄想に取り憑かれ、果てはその妄想を魔法にまで昇華させてしまった愚の骨頂――そんな評価は飽きるほど耳にしてきた。

 確かに、リリカは魔女の中でははぐれ者なのかもしれない。有りもしない科学の誤認を鵜呑みにし、それを己の力と定めてしまったのだから、その評価は仕方がないと割り切っても来た。

(……でも、『あの子』は、これを褒めてくれた。だから、見る目がないのは頭が硬すぎる魔女たちの方だわ)

 魔法だけを見て、それを本人の人格だと揶揄する愚かな魔女たちには、怒りを向けることさえも馬鹿馬鹿しいことだ。そう自分に言い聞かせて、無理矢理にも溜飲を下げることにしたリリカは、続く《アルケ・マガ》の言葉に耳を傾ける。

「尚古を修めた貴方に、この称号を授けます」

 相も変わらず古くさい慣習だが、これが済めば後は自由の身だ。一〇年にも及ぶ軟禁生活からも解放され、ようやく『あの子』を迎えに行くことができるようになる。

 だから、リリカは静かに待った。

 果たして、勿体つけるでもなく、《アルケ・マガ》の口から告げられる。


「――《妄炎》。それが魔女としての、貴方の名前です」


「…………」

 リリカは思わず、舌打ちしかけてしまった。

(言うに事欠いて、妄想の炎~~~~~っ?)

 馬鹿にするのも大概にしなさいよ、と年甲斐もなく魔女の長である《アルケ・マガ》に殴りかかりたくなる。いや、この場合なら、攻撃するべきは称号を決議する《幸福審議会》だろうか。どちらにせよ、あからさまな挑発行為であることには違いなく、侮辱された《妄炎》の真価をこの場で披露してやろうかと、反骨精神が首をもたげ始めた。

「リリカ・リーリエ・ザッハトルテ」

「っ!」

 不意に呼ばれ、魂胆を見透かされたのかと肩を跳ねさせる。

 だが、続く言葉は、より深くリリカを苦しめるものだった。

「これで貴方も成人魔女。称号を得た魔女は、まず使い魔との契約儀式を通過しなくてはなりません」

「………」

 ゴクリ、と思わず生唾を飲み込む。

 使い魔。それは魔女が魔法を使うに当たって、非常に重要な存在だ。この使い魔の有無で、身の振り方が変化すると言っても過言ではないほどに。故に魔女は、称号を得、成人となると同時に使い魔を探す。これも古くからある慣習の一つだった。

 そして、リリカにとっては、この使い魔の儀式だけが肝要だった。

「返事は?」

「はい。重々承知しております」

 大きな溜め息が、そこかしこから漏れ出た。

 期待されていないのだろうな、と思う。特異な魔法を扱うこともそうだし、禁忌を破ったこともそう。リリカという魔女は、良家の出身でありながら魔女界きっての問題児だともっぱらの噂なのだ。

 その悪評は甘んじて受け入れよう。

 しかし、生き方を変えるつもりはない。

『あの子』がそうだったように、リリカもまた、世間に流されることなく自分の生きたいように生きると決めたのだから。

「貴方は一度、禁忌を破った。そして、我々が斡旋あっせんした使い魔をも、蔑ろにしてみせた。ですが今度こそ、過ちを犯すことのないように。信用に足るだけのものを提示して頂けると、期待していますよ」

「……はい」

 静かな威圧感に、リリカは負けじと頷いた。

 そして、魔女長と大先輩たちに見守られながら、ゆっくりと大広間を後にした。



「はぁ~、肩凝った……」

 堅苦しい卒業の儀を終えて、リリカは一気に弛緩する。

 ここは言わば、学校のようなものだった。成人していない魔女たちに規則や慣習を学ばせる施設で、本来のリリカの年齢であればとうの昔に用済みであるべき学舎である。

 内装は実に荘厳な意匠で、《エンケパロス宮殿》とはまた違った趣の、御伽噺に登場する宮殿のような有様だ。しきたりを学ぶ場としては不釣り合いに思えなくもなかったが、そこはそれ、魔女の風習というか性質というか、ともかくお高く止まっているというわけだ。

(本当に、品がなくて退屈よね)

 早く『あの子』に会いに生きたいという欲求も相俟って、顔には出さずに嘲笑うリリカだったが、廊下を歩いているとふと、クスクスと笑い声が耳に届いた。

「あら、落ちこぼれのオバサンが、分も弁えずに楽しそうよ」

「ふふふ。本当。哀れったらないわね」

表の人間あっちがわうつつなんて抜かすからこうなるんだわ」

「…………」

 無視無視。落ちこぼれなのは事実だし、ムキになるほどのことではない。ああいう手合いは、好きに言わせておけば良いのだ。

(殴り飛ばしたい気持ちは、まぁ、なくはないんだけど……)

 通わされていた一〇年間だけではない。魔法を覚えてからというもの、《妄炎》の称号の所以となった原理を見つけて以降、リリカ・リーリエ・ザッハトルテという魔女はずっと鼻つまみ者だ。罵声にもそろそろ慣れてきてしまったし、そんな自分に嫌気が差す時期もとうに過ぎてしまった。今更どう思われていようが、拘らうだけ馬鹿馬鹿しいことだ。

 それに何より、魔女の責務に起因しているとは言え、表側の人間を見下すその精神が、実に子供臭くて呆れ果てる。

「おっ、お姉さま!」

 そんな風に苛立ちを飲み込んでいると、不意に横合いから声がかかった。

 リリカには妹も弟もおらず、むしろ鬱陶しい姉が二人もいるくらいなのだが、そんな彼女をして『お姉さま』などと呼びつける魔女は、一人しか思い当たらなかった。

「ユーゼ。もしかして見送りに来てくれたの?」

「はいっ! お姉さまの大切な門出なので!」

「ん~、かわいい~っ!」

 合格!

 何に対してかは知らないが、とにかく心中でそう呟きながら、リリカは少女の金髪をこれでもかと撫でてやる。

 ユーゼ・シェーン・フロレンティーナ。

 リリカが生を受けたザッハトルテ家よりも力のある貴族でありながら、なぜか慕ってくれる愛らしい少女だ。太陽の如く輝かしい金色の髪は、いつまでも触れていたいくらいにサラサラで、何かと理由をつけては撫でてしまいそうになる。熱っぽくこちらを見つめる大きな瞳も金色で、きっと愛されるために生まれたんだろうな、というのがリリカの所感だった。

 けれど、そんなユーゼだからこそ、リリカには心配事が一つあった。

「私は使い魔との契約のために表側に行くけれど、絶対について来ちゃダメよ? 後からこっそりもダメよ? 約束してくれる?」

「…………はい、ちゃんと分かってマスヨ」

「何で目を逸らすのかしらね、この子は~? 見送りに来てくれただけのはずよね~?」

 ユーゼには、思い込みの激しいきらいがあった。それで何度手を焼いたことか、リリカは数えるのも億劫になっているほどだ。

 例えば、リリカが罪を犯しこの学校の地下に軟禁されていた時のことである。

 ユーゼの瞳を綺麗だと称賛すると、「じゃあお姉さまにも分けてあげますね!」と片目を抉り出そうとして大惨事になったことがあったのだ。

(あれは危なかったわ……。私が教唆したんじゃないかって話にまで発展して、危うく罪がもっと重くなるところだったのよね……)

 そのおかげで、ユーゼの右目の瞼には今もその傷跡が残ってしまっている。リリカはそのことが負い目となって、ついこの子を避けてしまうことがよくあった。

 何かにつけて、彼女は人の気を引く手段として自分の身の危険を利用する癖があるのだ。せっかく将来有望なのだから、もっと自分を大切にして欲しいと思うのはリリカの傲慢ではないはずで、フロレンティーナ家の人間も揃って口を酸っぱくして言い聞かせていると耳にしたこともある。

「とにかく、ユーゼ。まだ《アルケ・マガ》から『称号』を賜ってない未成人の貴方は、表側に行ったらダメよ。一五歳なんて、まだまだ魔女のしきたりを遵守し切るには若いんだから」

「でも、お姉さまは一〇歳で表側に行きました」

「うっ……」

 そこを突かれると弱い。

 いくら奔放な姉たちが同行を許可してくれたとは言っても、魔女のしきたりでは『未成人の魔女は〈アストラル〉から出てはいけない』という決まりがある。その所以を裏付けるように、リリカはこうして卒業が遅れてしまっているのだから、しきたりには然るべき理由がちゃんと存在しているのである。

「とッ、とにかく、ユーゼは大人しく待ってなさい」

「うぅ~……」

「そんな可愛い声を出してもダメなものはダメ!」

 スカートの裾を強く握って涙目で抗議するユーゼにたじろぎながら、リリカは敢えて心を鬼にして言う。

 名誉も名声も重んじないザッハトルテ家ならともかく、フロレンティーナ家は貴族である誇りを貴ぶ家系なのだから、一度でもしきたりを破ればどうなることか想像に難くない。ましてや、純朴が服を着ているかのようなユーゼには、下手に歪んだ成長をして欲しくはなかった。

「大丈夫。私はちゃんと帰って来るわ。その時に私のパートナーも紹介してあげるから、楽しみに待っていてちょうだい?」

「…………」

「ね?」

「……はい、お姉さま」

「うん。いい子いい子」

 最後に、惜しむように頭を撫でると、ユーゼはくすぐったそうにはにかんだ。

 素直な妹分にほっと安堵の息をつくと、リリカはようやく《アストラル》から出立する。早く『あの子』に会いたい一心からか、足取りは嘘のように軽かった。

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