空気を読みすぎた少年と雨と歪な幸福

ワイパーを幾ら掛けようと、雨粒が窓ガラスから避けてくれない。

「大変な大雨ですねえ。お肌が潤って、気分が良いです」

けろけろ、と蛙は喉? を鳴らす。私の気分は蛙に反して、最悪だった。

悪天候で車を進めにくいということもあった。だけれど、ふいに思い出す。

思い出したって、悔いたって、仕方がないと分かっていても…彼女たちのことを思い出してしまう。

あの子も、こんな気持ちだったのか。

「雨で抉れた土塊よりも酷い顔をしておりますよ」

そんなことを助手席の蛙から言われた。

「・・・・・・今日は野宿だ」

「今日もでしょう。君が自殺したのは、お金にこんきゅーしたからなのですか? 片道分しかガソリンがなく、他の車から盗みを働いたのも」

「違う。あの時も、ここから出ていくつもりで……金なんて、どうとでも、なるだろう」

「でしたら、泊まりましょう。駆け落ちをしたのですから、ハネムーンを味わうのは当然です。海を見る前に様々な思惑ある人々が一時、心を落ち着かせる場所を見てみたいのです。こんな狭いところにいつまでも、休んでいては心が病んでしまいます」

よく分からない理屈をこねられた。どうも、蛙は雨のせいで、おかしくなっているようだ。いつもよりも多弁な気がする。

「誰にも何も干渉されない、最適なものだと思うけれど」

「何をおっしゃいます。その孤独は一時的には蜜となり、自身を満たすでしょう。しかし、時間が経てば毒になります」

「蛙が何を知っているのか」

「私の話ではございません。だって両生類というものですから、孤独と言うものの気楽さが分かりません。群れなければ食われるだけです。人間もそういうものか、と私が住んでおりました寺の井戸から、坊主と少年を盗み聞いた話で思ったのです」

「……しかしこの天気。泊まらせてくれるところなんて、ないぞ」

「この辺でしたら、そうですねえ。山小屋でもありそうですが」

「そんな都合よくあるものか。狸に化かされるならまだしも」

「でしたら、狸に化かされにいきましょう」

「は」

「私は、井戸に住んでおりました。高さはとんと知らずとも、奥はよく知っております。そのつながりのつながりで、狸の小屋がこの辺りにあると聞いたことがあります」

そんな話を受けることは、滅多にない。だけれど、私の頭はおかしくなっていたので、蛙のおかしな馬鹿話を信じることにした。

「さて、着くまでの間、ちょっとした説法もどきというものをさせて頂きます。坊主と少年のお話です」

雨粒が、窓を叩く音が少し図と弱まって来た。蛙の話を聞き取りやすいように、遠慮したのだろうか、と考えてしまい、私は本当に弱っているのだと感じた。

「少年は、兄を亡くしてから、物をしばらく食べられなくなった、と坊主に相談しました。何故なのか、と坊主が聞きますと、少年は、言いました。お母さんが可愛そうだから、と」

「お母さん? 」

「何でも、母親も物を口にできなくなったそうです。自分の子供を交通事故で亡くし、ショックを受けた―――だけではなく。生きていた子供に頭を悩ませて、とのことでした」

「何か子供に問題があったのか」

「よくある話です。少年は言いふらしたのです」

『死んだのは自分で、生きていたのは死んだ弟だ』

「名乗るのは、死んだ兄の名前。通うクラスも兄と同じところに通うことになりました。幸い、少年は擦り傷だけで済みましたから」

「それで、周りからとやかく言われたりして、か」

「いいえ、誰もおかしい、と言わなかった。まかり通ってしまった。そして、密かに母親にこう言った人もいたそうです」

『死んだ子が、仲間はずれの子で良かったわね。これで、貴方も楽になったでしょう。無理やりされて、産まれた子供なんて扱いは困るでしょうから』

「……父親が違った? でもそれだと、周りはおかしい、と言うはずだ」

「空気を読んだんですよ。全員。そのほうが、穏便に済むからと。嘘を飲み込んで、皆接した。歪な幸福を、不幸な事故で得たのです。一人の少年の優しい嘘と引き換えに」

「母親は、止めることだって出来たはずだろう。それをしなかったのは、どうなんだ」

「少年が言うには、母親は女手ひとつで育てていたそうです。誰にも相談はできなかった。自分が犯され、子供を産むことになったなんて。再婚した相手にもそれを包み隠していた。離婚した男の子供だと、偽った。母親は常に気を張って、生活していた…と少年は言っていたそうです……」

『だから、嘘をついたんです』

少年は、望んで生まれた子供ではなかった。それでも、母親の為を思い、弟の死を利用して、恩返しをしようとしたのか。

「そもそも、弟が死ぬきっかけを作ったのは、自分、少年だったそうです」

「どういうことだ」

「……少年は、とても若かった。小さな頭を働かせて、一生懸命に考えた」

―――どうすれば、お母さんが、楽になれる?

「行きつく先は、貴方と同じ回答と行動でした。踏切前。何も整備がされていない田舎町の線路です。飛び出すのは、容易でした。例え、黄色のバーが下がっても、潜り抜けてしまえば、おしまい、でしたから」

ああ、もう、結末は分かっている。分かっているのに、蛙の口は減らない。べらべらと、長電話をする少女のように語るだけだ。

「弟君が邪魔をしないように…自分のせいで色んなことを我慢してきた弟君の幸せを願って、少年は、踏切前で、ちょっとした嘘をつきました。握っていた弟君の手を離さないといけないきっかけを、作るために」

『××、靴紐がほどけているぞ』

一時のことだ。少し屈んで、目線を下に向けるだけのこと。

それだけで、十分だと、少年は考えたのだろう。弟が、自分から眼を離したスキを狙った。

「ぷわん、ぷわん、というサイレンの音。それが、少年にはスタートダッシュの笛の音に聞こえたんでしょう。それなのに、フライングだ、とばかりに。自分の邪魔をした子供がいた―――少年の弟だった。少年の弟は、小さな小さな身体を踏ん張って、走っていく兄の手を引っ張った。幼稚園のときに行った芋ほりみたいに、と少年は言っておりました」

ああ、きっと。兄弟は仲が良かったんだろう。血が違っても、それでも通じるものがあった。手を握って、家路に着くくらい、昔々の芋ほりのときを思い出すくらい、仲良しだった。

だから、少年にとっての不幸が始まってしまった。

「手を引っ張った反動で、少年の代わりに、ころころと。弟君は線路へと。気が付いたら、少年は、弟が背中にしょっていたランドセルがねじ曲がったことに気が付いて…弟が、それと同じような状態になっていたと気が付いたそうです」

「それから、どうなったんだ」

「少年は、名札をつけかえました。死んだのは、自分だと言うことにしようと。年子の兄弟でしたから、双子のようなものでしたから、誤魔化せるには誤魔化せました」

「顔で、分かるだろう」

「分からないんですよ。分からない。だって、弟の父親は、母親の従弟。少年の父親は母親の叔父だったんですから…血のつながりは遠からずともあったので、何となく二人は似ていたのです。法律なら。社会的に見れば、従弟なら、結婚しても、お問題はないでしょう。それに古い田舎町の話です。今と違って、緩かった、ですから」

「……少年が物を食べれなくなったのは、弟を殺したからか」

「それもありますが、嘘を付き続けても、それをくみ取った周りを重く、感じていたからでしょうね。よくよく考えれば、入れ替わりなんて気づけるでしょう。顔が似ていても、血が似ていても、調べればボロはでます。空気を読んだ周りの人間に対しての気持ち悪さ、母親が自分の嘘を見破っていながらも、言及しない悲しさや虚しさ。望んでいたはずのことなのに、得られたものはなかった。その心の重さから、の行動でしょう」

「少年はどうなったんだ」

「さあ? 私は井戸から坊主と、少年の話を聞いていただけです。かうんせりんぐ、というのでしょうか。つみのこーはく、というのでしょうか…? 」

「…蛙は、少年はまた、自殺を行おうとすると思うか? 」

「しないでしょうね」

あっけらかんと、蛙は答えた。

「したら、したで、報われない、と考えるでしょう。弟が自分を助けてくれたのに、と。誰かの為に生きるという美徳を少年は選ぶでしょう」

「それは、紛い物だ」

「それでも、生きてはいけます。例え生き地獄だとしても、少年の自業自得です。もう少し、大人になるまで待っていたら、違ったでしょうけれど」

「……蛙が何をいうか」

「蛙という、別のしゅぞくだから、思うのです。ヒトの一生は長いでしょう。それなのに、変に生き急いで、死に急いで、疲れませんか? 」

「……そのときは、きっと」

自分を信じられなくなって、どうもしようがなくなっているから、『しょうがない』

もう車が通れるような道でなくなったところで、ようやく森の奥深くにペンションが一つ見えた。

しかし、そのペンションは『取り壊し予定』という赤い札が雨風に浸されながら、看板にあったし、ペンションの扉にも掛かっていた。

「蛙よ。こんなところでハネムーンを迎えていいのか」

「人間さんは、見てくれが悪いからと、黄金のリンゴを手放しますか? 騙されて扉を開けて下さい」

扉を開けてみると、そこには狸がいた。何十匹いるのだろう。ここまでくると、大きさの違うクッションがあちこちに置かれているように見える。

その中で、一人だけ腰の曲がっていない老人が一人いた。どことなく恵比寿様のような顔をしていた。

「御師匠」

ぴょんっ、とプラスチックケースから蛙は飛び跳ねて、地面に着地した。

「おやおや。井戸を飛び出したから、てっきりくたばったかと思ったぞ、ケロっこよう」

頬に刻まれた皺は口の皺よりも、笑いじわが目立つ。若草色の法衣を見に付けているが、足元は透明な長靴だ。ここにきて大分経っているらしく、長靴には雨粒がかかっておらず、乾いている。

私は、驚いた。

お師匠と呼ばれた、その人は、彼女達の葬儀を引き受けた坊さんだったからだ。

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蛙と駆け落ち 高山子踊 @takayama7kodori

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