沐浴
「ああいいね、上手だぞトウラ、とても初めてだとは思えない。そう、もっとそこに、ぐいいと力を入れてくれ」
「むむむ、こうだろうか? すまない、こういうことには、その、そんなに慣れていなくて」
「いや、とてもそうは思えん。なかなかどうしてこれは――いやまてっ、そこは強く擦るな!」
「しかし先ほどは力を入れろと?」
「そこは繊細な部分なんだよ! おまえにもあるだろう、そういうトコの一つや二つ」
「はァ……、やはりわたしには、こういうのは向いていないな」
おれから離れて、トウラは立てたブラシの上に顎を乗せた。その出で立ちは、新緑のガウンを、皮のベルトで留めただけという質素なものだ。メイド服は本人たっての希望で却下されたそうな。だが捲りあげた腕から覗く眩しい肌は、汗を浮かせて充分以上に艶めかしい。
「いったいぜんたいおまえに向いてる事とはなんだ? この数日、料理をすれば皿を割る、洗濯をすれば服を裂く、掃除をすれば床を抜く。あげく、おれと湯浴みをすれば不貞腐れる」
「ぐむう……」
「唸る暇があるなら、さっさと背中の垢を落としてくれ。半端にされると、痒さが増すばかりで、ちょっとした拷問であるぞ」
「わかった、わかった、ラウレグ。これも試練だと思って、耐えることにする」
川から汲んできた温い水を掛けると、トウラは黙々とおれの身体を洗いはじめた。少し拗ねているように見える。まァおれも多少言葉が荒かった。嫌いな湯浴みをさせられて、多少気が立ってたのかも知れない。それもこれも、レンの余計な一言があったゆえのこと。
「おとーさん、なんか、くさいよ」
いや言って良いことと悪いことがあると、言うにしても言い方がもっと色々あるだろうと。その手の気遣いをレンに求めるのも間違いではあるのだが、おれが深く傷付いたのは事実だった。当のレンはいつものように山に狩りに出た。サレイもルルもなんだか忙しそうだった。かくしておれは、午後の柔らかな空気の中で、一番暇な娘に背中を預けることになったのだった。しかし嫌っていたとは言え、実際にシャボンに塗れてみれば、なかなかの極楽ではある。トウラもこつが分かってきたのか、溜りに溜まった垢を極めて順調に、灰色のあぶくとなって流れていった。
「ここでの生活はどうだ? 多少慣れたか?」
背中越しに尋ねる。手を止めることなくトウラは応える。
「よくしてもらっている。が、それに応えられているとは、思えない」
「なんだ、鉄面皮かと思えば、以外と気にしておったのか」
「山奥で生きるのはなかなか大変だ。それぞれがそれぞれを助け合わねばならない。だと言うのにわたしは、何一つ満足にこなせない」
「おまえは少し不器用なところがあるからな。そういう意味では、少しルルに似ている」
「なにかの冗談だろう? ここに引き篭もってるそなたは知らないだろうが、館ではモノが壊れるとルルのところへ持ち込むんだ。椅子でも時計でも、職人顔負けの手際で直してくれるぞ?」
なるほど、この城きっての破壊神としては、数知れぬほど世話になってきたというわけだ。思わず口の端が持ち上がる。
「べつに技術の話をしているわけじゃないのさ。あいつが――ルルが来たのは二つ前の春だった。今でもお喋りってわけじゃないが、それこそ最初は一言も発しなかったんだぜ? おれも含めて皆が、こいつは喋れないんだと思っていたのだ。この馬鹿げた制度が、ある主の口減らしとして利用されるのは、それなりに良くある話だったからな。ああ今回もそれかと思った」
手が止まる。咎めるほどのことじゃない。どうやら耳はちゃんと動いてる。
「ただサレイだけが違っていた。モノ言わぬ娘に、あの子は根気よく仕事を教えていた。ある日おれはルルが普通に話しているのを発見した。館の壁を塗り直すのに塗料は何を使えばいいかとか、そんな内容だったと思う。おれが驚いてサレイに聞くと、日常の会話はまだまだ苦手だが、事務上のことを話す時は、驚くほど明朗なのだと言う。それから徐々にではあるが、ルルは自分のことも話すようになった。言うまでもなく、仕事は着実で丁寧だった。そしていつの間にか、末の娘の失敗の、後始末をしてやるぐらいの、お姉さんになったわけだ」
「た、確かにわたしはよく物を壊すが、それを全部丸投げしているわけでは」
「まァけっきょく、おれの娘たちには、それぞれに良いところがあるのさ。その使い方が見つかるまでは、せいぜいどっしり構えて、たくさん失敗したらいいさ。それが今のところの、おまえの仕事、みたいなものなのだろう」
「なんだかそなたは、まるで――」
続くはずの言葉を、トウラは喉奥に押し込めた。やれやれ、父という単語を、この娘が避けているのは、なんとなしに察していた。だがまァ別におれがどうこう言う問題でもあるまい。
「ラウレグよ、そなたの話をしてくれないか?」
依頼である割りには、有無を言わせぬ傲慢さがそこにはあった。まァいいさ、娘の過去を明かして自分は秘密主義というのも、それはそれで傲慢というものだろう。堂内に満ちる午後の日差しのなせる業か、よほどのことでもない限り、おれは好々爺を気取るつもりになっていた。それでトウラの心が開くのならと、つまらない下心も、少しはあったのかも知れない。
「かつてはそなたは傭兵団『龍の息吹』の一員だった」
「昔の話だよ、おまえなぞはまだ生まれてすらいまい」
「それでもそなたと勇猛さを知らぬものはいない。獅子奮迅の働きで、侵略者からこの国を守ってくれたと聞いている」
「それもけっきょくは、意味がなかったのだよ。おれたちは負けた。しかも悪いことに、侵略者どもは、思っていたほど悪い連中でもなかった。そりゃ貴族どもの話は知らんよ、免れていた税を課せられ、領主どもの首はすげ替えられた。だがその代わりに、この地には新たな技術と作物が根付いた。大多数の民からすれば、むしろ以前より暮らしは豊かたになったんじゃないか? だからけっきょくは、おれたちが流した血に、意味などなかったのだとも言える」
「それは違う! 今日の平穏は、やはりそなた達が勝ち取った戦果なのだと思う」
「老人を労るのは美徳だが、おれは老人扱いは御免だな」
「事実をいっているだけだ。新たな領主は英雄ラウレグを恐れていた。もっと言えば、やっとの思いで手に入れた土地が、反乱の炎で包まれることが、最も避けたいことだったわけだ。
それが、そなたをここに閉じ込めれている理由であり、領民たちにも良い顔をする理由なのだと思う。再び英雄を祭り上げることのないように、先ずは甘い蜜を与え、自分たちに懐かせることを選んだのだ。もしそなた等が恐るるに足りないほど弱かったなら、より厳しい統治が、この地には課せられただろう。だからラウレグよ、そなたがこの地が豊かたになったと感じるなら、それはつまりはそなた等の戦果なのだ」
信じられないことに、この娘はおれを慰めようとしてくれているらしい。生意気ではあるが、その分析は、おれが十年掛けても辿り着けなかった類のものだった。おれの戦いが無駄ではなかったと? それが村の連中のためになっているのだと? だとすればそれは――
「なんという皮肉だろか」
聞くものを虚しくさせる、事実としてそれは嗄れた老人の声だった。期待に添えなくてすまんが、慰めを受けて、おれの心に生まれたのは感謝などではなく、もっと陰性の感情であった。
「いいか、トウラよ。おれたちは最初から奴らの生活の事なんて、これっぽちも考えちゃいなかったのだ。傭兵団としての誇りと、戦いの後で仲間と飲む美酒のために命を賭けた。馬鹿みたいだと、平和な時代に生まれたおまえは思うかも知れないが、おれたちにとってはそれが全てだったのだ。背中を預けるに足る仲間たちさえ居れば、他に何も要らなかったのだ。ならばやはり、戦果など無かったのだと言わねばならぬ。勝利したのはおれ達ではなく、民衆の方だった。敗者は勝者によって裁かれる。それが世の道理だ。仲間たちは勝者の手によって、首を切られた。ほとんどがそうさ。運の良かった何人かが他国へ逃げて、臆病なおれだけひとり残された」
そしておれの最良のパートナーは、共に戦場を駆けた戦乙女は、美貌を領主に見初められて、その妾となった。それが一番くそったれではあるのだが、なにもそこまで言う必要もあるまい。なにせおれがしているのは年甲斐もない八つ当たりだ。囲いを破って復讐に走る替わりに、世間を知らぬ小娘に、日頃の鬱憤をぶちまけているだけだった。ああ自分でも、それくらいは分かってる。
「……そなたの気持ちを知りもしないで、出過ぎたことを言った。謝らせてくれ」
「謝らなくてもいい。おれが怒っているとすれば、少なくともおまえに対してではない」
「しかし、それでも、わたしはそなた達が、『龍の息吹』がしてきたことを否定したくないのだ」
「その辺にしておけ。怒りというのは飛び火する。おれはおまえのことが嫌いではない。だから今日のところは、トウラは真っ直ぐで思いやりのある子だと、それだけで終わらせておいてもらえると有り難い」
返答はないが、背中にひたと熱いものが当てられる。確かめる術はないにせよ、それは涙に覆われたトウラの眼であるのかも知れない。きっと、おれの何かが、この子を傷つけてしまったのだろう。おれの人生にはその手の失敗が多い。昔のことを思い出すといつも、時間に関する感覚が喪失する。それはおれの心がまだ、向こう側に在ることの証拠なのかも知れない。
「あなた達、いったい湯浴みにいくら時間を掛けるつもりです?」
よく通るサレイの声が、ふたたび時計のネジを巻き直す。慌ててトウラはおれから離れ、眼を拭って笑ってみせた。
「すまない、サレイどの。わたしの手際が悪いせいで、また迷惑を掛けてしまったようだ」
「迷惑だなんて、あなたそれほんとに言ってるの?」
「わたしはいつも本気なのだが……」
呆れた顔をした後で、サレイは大げさに肩を竦めた。問題児たちを一手に引き受ける彼女にしてみれば、迷惑なんて感情はとっくの昔に辞書から消えているのだろう。
「ほら、トウラ、こっちにいらっしゃい。身体がこんなに濡れてしまって」
「いやこれくらいなら問題ない。動いてればそのうちに乾く」
「まァ、あなたったら、男の子みたいな事を言って」
小鳥のように上品な笑い声がひびく。サレイがこんなに笑うのは、ずいぶん珍しことだった。なにか良いことでもあったのか、いや、それともまさか男でもできたとでも言うのか。
「ずいぶん今日は機嫌がいいじゃないか、サレイよ」
「はじめてお父様を洗わせて頂いた時のこと、思い出しましたの。くすぐったい等と仰て、あまりに暴れるものですから、終わる頃にはそこら中びしょ濡れでした。もちろん、私も含めて」
「そんなことも、あったかね。記憶にはないが」
「ありましたとも。今後も暴れられると困りますから、ルルにお願いして、長くて丈夫なロープを作ってもらったのですから」
娘に縛り上げられる父。史上これほど惨めな光景が存在するだろうか。さすがに冗談だと思いたいが、サレイはそのつもりでも、ルルはそう受け止めていない気もする。もしかすると今でもあの子は、夜な夜な布だか蔦だかを結わえてロープを伸ばし続けているのではないだろうか。いや、まさかな。
「へっくちゅ!」
相変わらずの、可愛らしい異音が響く。おそらくトウラは、天から与えられた愛嬌という能力を、くしゃみという行為の一点に注ぎ込んでしまったのだろう。可哀想に。もっとバランス感覚に恵まれた星のもとに生まれていればよかったのに。
「サレイよ、館の方にはちゃんとした風呂があったろう。湯を張ってやれ。こいつもそれなりに、今日は頑張ってくれたからな」
「えぇ、お父様がそう言うのならご随意のままに」
「いや、どうか気を遣わないでくれ」
「では遠慮無くご一緒させていただきましょうか」
「そういう意味ではない!」
無駄な抵抗も虚しく、長女に引きづられて末の娘は去っていった。当たり前のことではあるが、誰もいなくなればこの場所はひどく静かだ。おれは習慣に従って祭壇の下に丸まる。目を瞑れば、よく懐いた犬のように、眠気はすぐに駆け寄ってきた。久方ぶり垢を落としたおかげで実に爽やかな気持ちだった。
だから、せめて今宵ぐらいは、昔の夢を見ずに済むだろうか。
煮られた走狗のエスケイプ @ughachi
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