第6話 青年とかつての少女と失われた町

 目を覚ますと、青年は人間に戻っていた。


 間違いなく、現世だった。

 死後の世界にこんなに見慣れた板張りの天井があるとは思えない。

 安心した青年が再び目を閉じていると、柔らかい女性の声が耳に届いた。


「おはよう。どうしたの? 暖房暑かった?」

「え?」


 言われてみれば、青年は汗まみれだった。

 夢の中とはいえ、あれだけ大きな火に炙られたのだから無理もない。

 でも、それ以外のことはあまり思い出せなかった。

 薄暗い部屋の中、青年は薄目を開けた。


「あれ? 雨戸が開いてない?」

「何言ってるの? いつもあなたが開けてるでしょう?」


 再び、柔らかい女性の声が聞こえた。

 そんなはずはない。いつもなら、隣のおじさんが、自分が外へ出るついでに開けてくれるはずなのに。

 それに、誰の声だろう。

 青年の母親にしては声が若かった。

 でも、その声を当たり前のように思ってしまっている青年がいた。


「新聞、来てないの?」

「ポストなら自分で見て」


 いつもは枕元に置いてくれるのに。

 青年はまた疑問を憶えた。

 新聞配達の少年達は、普通の町よりも遅めの時間に新聞配達をする。

 玄関まで入って、一声かけてから新聞を置いていくのに。


「あなた、寝ぼけてるの?」


目を開けて、声の主の顔をまじまじと見つめる。

 ああ、今日も自分の奥さんになってくれた人はきれいだと、青年は安心した。

 この人に出会ってなかったら、自分は都会に出て金持ちになるなんて愚かな夢を抱いたままだったろう。

 年上なのに自分を立ててくれて、毎日腰の悪い母の家事をしっかり手伝ってくれる上に、近くの観光魚市場でソフトクリームを巻くパートをしてくれている。


「なんだか、不思議な夢を見ていたよ」

「悪い夢?」

「いや、猫になった夢」

「えぇ! うらやましい!」


 少しずつ戻ってきた夢の記憶を、青年はたどたどしく妻に話した。

 笑われるかと思ったら、じっと聞いてくれる青年の妻は、自分もそんな夢を見てみたいと、目を輝かせて聞いてくれた。

 だから、最後の悲しい結末はいわないでおこうと、青年は思った。


 ふいに、雨戸を軽くたたく音がひびいた。


「あ、ぶーねこさんごめん。今あげるからね」

「ぶーねこ?」


 青年は、自分の妻が太っている猫を見かけると、必ず「ぶーねこ」という名前で呼ぶことを思い出した。そして、やせぎすの猫は「ぼんさん」と呼ぶ。小さい頃に、英語の骨から考えついたそうだ。

 窓と雨戸を開けると、見覚えのあるでっぷりとした猫が入ってきた。


「おう青年。久しぶりじゃの」

「ぶーねこ!」


 間違いない。このでっぷりとした猫は間違いなくあのぶーねこだ。

 ということは、今もまだ夢の中なのだろうか。青年は恐怖を覚えた。


「おう、ずいぶんとお前の理想の町になったではないかの。ようやったの、青年」

「え……?」


 その瞬間、青年は全て思い出した。

 猫になって訪れたあの家。

 あの家に見覚えがないのは、青年に物心がついたくらいの頃に、火事で焼け落ちてしまったからだ。

 あの場所には、髪の毛が真っ白で、物静かなおばさんが運営する保育所があったはずだ。

 青年もそこに通っていたはずなのだ。


 あの火事があってから、この小さな町の住民はおたがいに声をかけ合うようになり、町中皆、お節介になったと青年は聞いたことがあった。


「ぶーねこ、あの子は無事だったの?」


「え? 猫とお話できるの? はい、ぶーねこさん、今日は猫缶だよ」


 ぶーねこは何も言わず、猫缶に顔をつっこんでしまった。その姿を、青年の妻はうれしそうにながめていた。

 その妻の手に、青年の心が奪われた。


「気にしてるんだから、そんなに見ないでっていつも言ってるでしょ」

「あ、ああ、そうだった、ごめん」


 妻の手には、大きなやけどがあった。


「ご飯出来てるから、ぶーねこさんとの世間話が終わったら早く食べに来てね」


「ああ、ごめん」


 青年の妻は小さい頃、家が火事になったが、猫に助けられたという、にわかには信じがたい話をしていた。

猫が火に包まれながら、外で待っていろと、たしかに言ってくれたのだという。


 その時に負ったやけどが、今も残っているのだ。

 だから、別れが辛くなるから猫を飼ったりはしないが、優しくしているのだそうだ。


 青年はずっと、妻の話をしんじていなかった。


 立ち上がって台所へ向かう途中、


「おはようございます!」


 思わず、窓の外を歩く顔見知りにあいさつをしてしまう。

 しかし、その人は小さく礼をしただけで通り過ぎてしまった。

 外を歩く人とまた目が合って、おはようございますと声をかけるが、驚かれるばかりで、返事をしてくれる人は少なかった。


 これでは、だめだ。

 こんな町ではきっとまた同じように、小さな子供が不幸な目にあってしまうかもしれない。


「ぶーねこ。まだ近くにいるの?」

「なんじゃね」


 ぶーねこの姿は見えないが、声だけが青年の心に響いた。


「もう一度、過去に戻れないかな?」

「いちいちうるさい隣近所がいないことが、お前の理想ではなかったんかの?」

「そうだった。そうだったかもしれないけど、やっぱりだめだ。ちゃんと、元の町の人に戻さないと」


 でないと、孤独な少女にまた同じ悲劇が起きてしまう。青年は強くそう思った。

 ぶーねこが雨戸の前に戻って来た。


「わしは猫だ。猫しか連れて行けぬ」

「猫でも出来ることを、今から考える」

「ほっほっほ、そうか。ならせいぜい考えるとよいぞ。思いついたら、いつでも呼ぶがよい」

「ありがとう、ぶーねこ」


 少女を助けて、お節介なくらい声を掛け合うかつての町の人々に戻ってもらう方法はきっとある。

 たとえ、猫の体でも。


 でもまずは朝食を食べて、頭が働くようにしようと青年は思った。


「ふふ、考えるがよいぞ、青年」


 ぶーねこはもう、青年に力を貸す気はなかった。


 少しだけ、壊れてしまっていた世界は正された。

ぶーねこがこの町にとどまる理由は、もうなかった。


「まったく。いつになるかいのぅ」


 青年の、町の人たちの良い関係をふたたび作りたいという思いは、再び猫になって過去の世界へ行かなくとも、かなえられる夢だ。

 それに青年が気づき、かつてのお節介な町を作り出せるのはいつの日か。


 ぶーねこは小さくため息を吐いてから、うまそうに飯をほおばる青年を、塀の上から、優しげな目で、青年とその妻を見つめ続けていた。

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ぶーねこと少し不思議な昔話 アイオイ アクト @jfresh

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