第5話 青年と少女の最期
ふと、目を覚ました。
西日が差す時間になっても、青年の体はまだ、猫のままだった。
ぶーねこはどうして自分を猫にして、この世界へ送り込んだのだろう。
いや、それよりどうして自分がこんな夢を見てしまっているのかを心配すべきかもしれないと、青年は思い直した。
現実の自分の体は、橋の下で凍えているかもしれない。
だが、それでも良い。
どうせ、今後も大した人生を送れる訳でもないのだから。
それよりも猫として、幼い少女の孤独にさせない方がどれほど立つか。
「ぼんさんぼんさんごはんですぼんさん!」
ほら見ろ、と青年は自分に言い聞かせた。少女はうれしそうに、皿を二枚、青年の前に置いた。
きれいにほぐされた魚の身と水だった。
「ぼんさんぼんさん! おかあさんは今日早く帰ってくるので記念日です」
さっき聞いたよ、と青年は呟いた。出た言葉はやはり、ニャーだったが。
うれしそうな少女の早口に、青年は素直に喜べなかった。
早く帰って来る日が記念日になってしまうほど、母の帰りはいつも遅いらしい。
日が暮れてしまっても、誰一人としてこの家を訪れる人はいなかった。
青年は台所へ戻ろうとする少女に付いていこうとしたが、止められてしまった。
「ぼんさんぼんさん台所はあぶないのでここにいてください」
演劇のように話すのが、少女の中の流行らしい。
しかたなく、青年は畳の部屋をうろうろと歩き回り、落ちている座布団に乗り直し、満腹の眠気に誘われるがまま、目を閉じてしまった。
しかし、青年は香ばしい匂いに驚いて飛び起きた。
この匂いが何かなんて、すぐに分かる。
「おい! やめろ!」
もちろん、にゃーという声しか出なかった。
ふすまを開けようにも開けられなかった。
何度もふすまに体当たりをしても、爪をかけても、動かなかった。
「どうしたのぼんさん?」
ふすま越しに、少女の呑気な声が聞こえた。
このにおいに気付いていないのだろうか。
「火を止めろ!」
やはり、ニャーとしかいえなかった。
この匂いは、揚げ油だ。
揚げ物料理を一人でやろうだなんて、青年は予想だにしていなかった。
しかたなく、爪でふすまを切り裂いた。
「あ、ぼんさんいけないんだ!」
既に、油から白い煙が出ていた。
「火を消せ!」
ニャーという声だけが、むなしく響く。
「うわ……!」
少女が小さく驚きの声を上げた瞬間、鍋が燃え上がった。
どうして起きていられなかったんだろう。
火の手は換気扇のフィルタを燃やし、更に勢いを強くした。
「逃げろ!」
踏み台の上で動けなくなった少女に体当りすると、少女が踏み台ごとひっくり返った。
「痛い! ぼんさんひどいよ!」
少女が倒れると同時に、床がゆれて、コンロから鍋が落っこちた。
青年はなんとか飛んでよけたが、火がついた油が自分の体にかかってしまったのが分かったが、気にしてはいられなかった。
熱い以外に何の感覚もなかった。火だるまの青年を助け出そうとする少女の手に、青年はかみついた。
「痛い! ぼんさん死んじゃうよ!」
「早く外へ出ろ!」
伝わらないのは分かっているが、叫ぶしかなかった。何度もシャーシャーと声を上げて、少女に近寄るなと言い聞かせる。
あきらめきれないのか、また少女が手を伸ばす。青年はより強く噛みついた。
「痛いよ! ぼんさん! 悪いことしたならあやまるから!」
「違う! 逃げろ! 近寄るな!」
伝わらない。
どうして今の自分は猫なのだろう。
火の広がりが早い。もうすぐ玄関からも出られなくなってしまうだろう。
熱い。痛い。
そうだ、ぶーねこ。青年は思い当たった。
「ぶーねこ! こんな風に人を猫に出来るのなら、俺に人の言葉を話させろ! この子だけでも助けてくれ!」
「あ、熱いの? ぼんさん!」
ニャーニャー鳴く火だるまの青年に、再び少女が近付いてきた。
「大丈夫だ! すぐ行くから! 外で待ってろ!」
「え? う、うん!」
少女が外へ出て行く。良かった、伝わった。
最後の最後に、夢で良かった。
青年はただ、自分の夢の中の住人らしいぶーねこに感謝した。
青年の、猫の体が焼けていく。
もう、動けない。橙色の光しか見えない。
良かった。きっとあの子は無事だろう。
夢から覚めるか、このまま死ぬのか。青年はどちらでも良かった。
孤独な一人の女の子を助けることができた。それでもう、十分だった。
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