第33話

グラスに氷とウイスキーを注ぐと、瓶は空になった。

少し前にこの瓶の中身を隣り合って分けあった級友の姿は今、私の隣にもこの世にもない。

今回の仕事は全て終わった。

資金データの出所は判明し、事を知る者はいなくなった。

副産物はある家庭の崩壊と消滅。


グラスを片手に私は考える。

あれから私は、手にかけた死人どもの悪夢を見なくなった。

しかし、代わりに私の夢には紗紀が現れるようになった。

私と紗紀はどこかで、それはどこでもだが、例えば教室で。通学路で。私の家で。そして、紗紀の家で。

ほとんどは現実にしたことのある会話と行動をそのままなぞるだけ。当たり障りのない会話だったりするのだが、紗紀の家で私は真っ当な会話を彼女と交わした記憶はない。そのため、都合よく改変されているのだろうが、どうにも変に居心地が良い。

自分の罪悪感をどうにかして洗い流そうとしているからなのか。

都合のいい一言を掛けてくれることでも私は彼女に求めていたのだろうか。


あれから数日経った今では現実にも彼女の影がちらつき始めている。

ふとした拍子に、今は亡き彼女に話題を振りそうになる私がいる。

「こんなとき、紗紀なら何を言っただろうか」そう考えたら、耳元で彼女の声がするのだ。

「こんなとき、紗紀ならどう振る舞っただろうか」そう考えたら、視界の端に彼女が現れるのだ。

もちろんそれはただの幻で。実に馬鹿げているのだけれど、妙に現実味があって。


グラスの中身を一口飲み、私は一枚の紙を取り出した。

あの日、紗紀が私の家に残した書き置きだ。私はまだ未練がましくそんなものを後生大事に持っていた。


「先に帰ってきてたらごめんなさい。一度家に圧力鍋を取りに帰るからちょっと遅くなります。大変だろうけど頑張って」


二度、三度、読み返す。

あの時聞きそびれた、家の付近にいた理由の説明はこの紙切れで為された。

彼女の間が悪かったのか、私の運が良かったのか。それは分からない。

だが、あの悪夢を見ていない以上、おそらく紗紀は私の心をどこかでまだ支えてくれている。

テーブルに置かれた、錠剤の入った瓶を見やる。


西川紗紀を喪わずに済んだ未来を模索してみるが、答えを導き出す前に私はもう一口ウイスキーを飲んだ。

息を深く吸い込み、おもむろにマッチを取り出し、紗紀の書き置きに火をつけた。

傍の灰皿を手繰り寄せる。私は煙草を吸わないが、こんなものまで律儀に支給してくれるのだ。名目上は指令書類の焼却処分用だが、裏を返せばいつでもボスが現れてもいいように、あるいは、望もうが望ままいがいつでもここに現れるということの証左でしかない。


灰皿の上で徐々に小さくなる紙をぼんやりと見ていた。

どれくらい眺めていただろう。とっくに燃え尽きて灰になった、紙の成れの果ての鎮座する灰皿をぼうっと見る。そして、思い出したように、全てゴミ箱に捨てた。周りに少し溢れた。掃除が少し面倒くさいが、今は掃除する気にもなれなかった。


視線をテーブルに戻すと、すっかり忘れていた、中身のまだ残ったウイスキーグラスが目に入った。飲むと、氷が溶けきって、味がほとんど分からなくなるほど薄くなってしまっていた。

グラスを空にすると、灰皿と一緒にテーブルの上に置き去りにして寝室に向かう。

私は眠る。また来る明日に備えて。


そして夢を見た。

只々、荒涼とした砂漠を歩く夢だった。周りには草木も何も生えてやしない。

人もいない。

時折、人影が見えたかと思って近付けばそれは人でもなんでもない、ただの棒切れ。

只々、何もない砂地を歩く。

水もない。人も、草も、木も。

空は綺麗なまでに黒かった。

月も無ければ日も昇らない、何もかもが空っぽの世界を1人で歩いていく。


その内に私は現実の朝を迎える。

死人も紗紀も、もう夢の中ですら私を見放したようだった。

歯を磨くついでに郵便受けを覗くと、一通の封筒が差さっていることに気付く。中には簡素な一枚の紙があるきり。読まずしても、この手の手紙は中身が粗方分かる。

取り出してみると、予想通り新たな指令書が入っていた。目を通すと、元の封筒に詰めて居間に引き返す。卓上に置き去りになったマッチを擦ると、そのまま封筒を火にかける。

ただでさえ灰で汚れた灰皿とその周囲にまた燃えかすが散らばる。

もう声は聞こえなかった。


やはり私はこれ以外に生きる道はきっとない。

学校に、小村絵里の日常を過ごすべくして玄関に向かう。

私の人生は綱渡りだ。今までも、これからも。

そして。


きっといつまでも。

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嘘吐き小村の真っ赤な真実 野方幸作 @jo3sna

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