番外・掃除屋の受難

見知った顔の人間を解剖する、というのは妙な心持ちである。だが、それも仕事とあらばやむを得まいと自分に言い聞かせる。

それに。

「悪いんだけど、私も命は惜しいんだ」

自分の命がかかっているとなれば尚更のことでもある。


話は1週間前に遡る。

程度の大小は有れど、人間誰しもヘマというものをやらかす。

確かに、ここ数日少し忙しく、あまり寝ていなかった。そうした言い訳はあるが、言い訳の類が通じるような業態でも顧客でも、取引価格でもない。全て100%が求められるのだ。

だがそれを踏まえた上でもこのヘマは少々度が過ぎていた。

「・・・・・・マズイ」

空のはずのクーラーボックスを覗く掃除屋を人生始まって以来、かつてないレベルの焦りが襲う。

副業で送り届ける物件を間違えたのだ。

それも。

よりにもよって超が付く程のお得意先へ送り届ける物件を。


「平时、误会肝脏和心脏吗?(普通、肝臓と心臓を間違えるかな)」

日頃の、何が楽しいのかは分からないが心底愉快そうな響きを帯びた調子とは程遠い、至って平坦なトーンの「問い合わせ」を受ける。

発言の内容は淡々としているが、声の調子だけで、内心相当な不満を抱えていることだけは明らかだった。掃除屋は言い訳することなく沈黙を保つ。

何しろ、下手に逆らうと何が起きるか分からない相手だ。

元より母国語でない言葉でコミュニケーションを取る必要がある以上、否が応でも言葉選びは慎重になる。

「那件事请无论如何拜托你・・・・・・

(そこをなんとかですね・・・・・・)」

なんとか宥めすかして話を繋げる。話題の終了は即ち、取引の完全な終了を意味する。この際、取引先が無くなるだけならまだしも、人生まで終了させられては堪ったものではない。

電話口の向こうから、何事かを考えるような声が聞こえる。

何秒かしてから、許すかどうかは別として、と呉が前置きした上で口を開く。

「我想吃年轻女孩的盐舌(若い娘のタン塩が食いたいんだ)」

まあ、今のは独り言だが、と念押しする。

「盐舌・・・・・・(タン塩・・・・・・)」

なんとか命は取らないようでいて、全く優しさのない、譲歩する気が一切ない代替条件が提示された。

「七天之后我要等到晚上。如果不能,拉出你的舌头,燃烧起来(7日後の夜までな。だめだったらお前の舌でタン塩パーティやるから)」


電話が切れた。

正直、掃除屋としては言い渡されている時点でまともに目的のブツを探す意志はなかった。むしろ「いかにして逃亡するか」に考えはシフトしていた。

しかし。

この男からまともに逃げきれるだろうか?

国外逃亡したところでどこかで取っ捕まることは目に見えている。

いっそ顔を変えて日雇い労働者の皮を被ってどこぞのドヤ街に潜るか?

しかし、あらゆるシミュレートの結果、いずれも掃除屋を待ち受ける未来は、野垂れ死ぬか、呉に見つかって死ぬより悲惨なことになるという答えが出た。

ひとまずは7日、まずは足掻くことから始めてみようか、と落ち着かせて平静を取り繕った。


1日目。

何食わぬ顔して出勤する。直前の出来事でまともに眠ることも叶わず、かといって休む気にもなれなかった。


幸い仕事で、もちろん表の方の仕事で、下手な失敗をすることはなかった。


2日目。

この1週間の間に呉好みの若い女が手に入る確率と逃亡した時のリスクを天秤にかける。

まだ希望はある。だが、限りなく可能性はゼロに近い。

しかし、最後まで希望を捨てない、諦めないことの大切さは掃除屋自身の短い人生経験でも重々承知している。むしろ、人生の中で唯一と言ってもいいくらいの教訓でもある。信ずれば念は天に届く。まあ休んで考え直そう、明日は明日の風が吹く、と掃除屋は缶ビールを空け、眠りに就いた。


3日目。

人間信ずる心は大切だ。昨日の夜、寝る前に考えたことが正にそれだ。

だからこそ掃除屋は一念発起し、旅行代理店に駆け込むことにした。

「すいません、何かツアーでもなんでも、海外に行けるものはありますか?」

「えー、と、どちらにですか?」

「どこでもいいです」

受付の店員はかなり困ったような表情を浮かべる。

何しろ、突然来たかと思えば目的地はどこでもいいから海外旅行の計画を立ててくれ、と言われたのだ。

「ご予算は?」

「いくらでも」

さらに店員の顔が曇る。

「目的なく海外に行きたい、予算は無限」。こんな条件が提示されれば誰だってまずは何かしらの事件性を疑う。現時点で何かなくとも旅行中のいらん揉め事の種になることは明らかなのだ。


この長期休暇シーズンから外れた中途半端な時期にはまともなツアーが無かったが、むしろ足がつきにくい分却って好都合だと掃除屋は考える。

「こちらなんていかがでしょうか?」

提示されたのは南米行きのパックツアー。別段ツアーである必要性は全くないし、出来ればツアーではない方が心置きなく逃亡に専念できる。

「半年ばかり現地に滞在したいんですが、プランは組めますか?」

「まあ、出来ないことはありませんが・・・・・・」

渋面を作りながら代理店の店員は何かしらを紙に書き留めながら計画を練ってくれた。


人生、待ちの姿勢は時にとてつもない不利を寄越す。

なに、精々が腹案の一つだ。まだ本命になったわけではない。だが。海外逃亡という選択肢は期限の接近とともに現実味を帯びて来ていた。

「三十六計逃げるに如かず、だよね」

「どうかしましたか?」

「いえ、こちらの話です」

そして掃除屋は計画書を片手にまた来ます、と言って店を後にした。


4日目。

変死体もなければ処理の依頼もなく。普段なら歓迎すべき平和な1週間だが、今の掃除屋にとっては最悪以外の何者でもなかった。

本格的に国外逃亡計画を実行に移すべく、24時間営業のショッピングセンターに行き3日分程度の着替えを新調した。

ほんの3日。されど3日。


「しかし南米とは、戦後のナチ戦犯みたいだよね」

誰ともない独り言が漏れた。


5日目。

航空券を予約し、パスポートを確認する。

結局、掃除屋は国外逃亡をする腹を決めた。

どうにも、人影がやたらと気になる。完全に強迫症のような症状を発症しかけている。どうも精神的に参っているらしいことを悟る。

しかし、あと1日。ぎりぎりまで粘らせよう。不本意だがこの国とはおさらばすることになるが、いつかまた帰ってこよう。


6日目。

最早逃亡の手立てが最終段階に入ったところだった。常勤の仕事が終われば夜からそのまま高飛びするつもりで、心なしか一割増の丁寧さを以って最後の、契約先の学校の清掃作業を終える。

「見納め、かな」

何気なく呟いて慌てて周囲を見回す。あり得ないことだとは思うが、呉の遣いが近くに潜んでいる可能性はゼロではない。

もしも聞かれていたら。

背筋に寒いものが走るのを覚え、そそくさと掃除用具をまとめる。

その矢先、ポケットに入れた副業用の電話が鳴った。

あまりのタイミングに、思わず叫びそうになりながら電話に出る。

悪魔の遣いがついに来たかと思った。

しかし、その声は悪魔のものでも魔王のものでもなく、呉とはまた別のお得意様の声だった。

「特別料金メニュー。住所は後で送る。全部終わったから、よろしく」

逃亡には間に合うだろうか。高飛びの最後の準備をするつもりだったのに臨時の仕事が入った。なんてこった、とこの事実に対して掃除屋は最早その程度の語彙力でしか物事を図れなくなっていた。

だが掃除屋は、幸運の女神は実に気まぐれらしいことをこれから思い知ることとなる。


詳細が送られてきた。

これが最後の仕事かと思っていただけに掃除屋は詳細の処理要目を見て目を疑った。

「石膏ゴミ、動物有り。柴犬メス 1歳程度 16/5」

石膏ゴミ、はそのままの意味で石膏のゴミがあるんだろう。問題はその次だ。

柴犬メス1歳。15歳程度の日本人女性を意味する。16/5。身長160センチ台、体重50キロ程度。特別大きいわけでも重いわけでもないようだ。

お得意先の「彼女」はときに渡りに船どころか渡りに軍艦ばりの助け舟を出してくれることがある。きっと本人は何ら自覚してないだろうけど。

目的地は住宅街の中。監視カメラはどこにあるか分からない。ならば、不自然でない服装で溶け込むより他はないだろう。

掃除屋は社用車に戻り、自前の用具入れを漁る。

宅配業者あたりが無難だろう。

お得意先の分まで衣装を用意すると、早速社用車を走らせた。


「最速を目指してみたんだけど、どうかな」

晴れやかな気分の掃除屋と反して、依頼主のお得意様は随分暗い顔をしていた。

「こりゃ中々立派な家だねえ」

軽口を叩き、場を和ませようとするが、お得意様の顔には影がさしている。

なんとなく違和感を感じたものの、掃除屋はすぐに本題に移ることにした。

二階に上がり、お得意様の案内に従い、奥の部屋に入ると、違和感の正体がすぐに分かった。

見覚えのある少女が抜け殻となり部屋の真ん中に鎮座していた。

なるほどこれか。

道理で何か暗いものを「彼女」から感じたわけだと掃除屋は納得する。

しかし、それ以上に目に付いたのは部屋の内装だった。

「これはまた派手なお部屋で」

掃除屋は物色を始める。

あれこれと機材を見渡してみると、素人仕事が目に付いた。

「これを使うと事件性有りになるんだよねえ」

話題を振ったつもりだったが、当の彼女にはそんな余裕はなさそうだった。


回収を終え、宅配業者の服装の「彼女」と社用車に戻る。

さっと車内で宅配業者の服を脱ぎ、本来の清掃用作業服に身を包んだ状態で、さも本来の業務を終えたかのような、何食わぬ様子でその場を離れる。

ハンドルを握りながら、掃除屋は思い切って話を振ってみることにした。


「流石だね」

「なんの話かしら」

すっとぼけようとしているが、その言葉は随分虚ろに感じられた。

「変に接近してくる対象をいつ消すか、考えてたんじゃ?」

きっとこの意見は違うだろうと掃除屋は思う。いつだったか、「彼女」が職場に後ろの「クール便」を連れ込んだときの語り口の調子を思い出す。その口ぶりからは全くノーマークだった印象を受けたし、それから一言も疑うそぶりを見せていなかった。

しかし、考えているような「彼女」の表情から掃除屋のこの言葉に逃げ道を見出したことは明らかだった。

「いつから考えてたの?」

「最初から」

「じゃあ、最初からあの子は怪しいって睨んでたんだ」

そんなはずはないだろうな、とハンドルを切りながら掃除屋は考える。

「・・・・・・そうね」

一瞬の間をおいて「彼女」が答えたので、それ以上の追求はよすことにした。隣の「彼女」が何か呟いたが、聞き取れなかったし、聞き返す気にもなれなかった。

「彼女」が何を考えてるのかは知りようがないが、それはともかくとして一先ず、これで首の皮が繋がった。


呉に限らず、若い人間の臓器というものは引く手数多。それが10代の女とくれば破格だろう。

しかし、今回はこの上物は可能な限り呉に提供することにしよう。

和泉クリーニングの一階に入ると、掃除屋は「クール便貨物」を引き出す。

大事な大事な商品であり、掃除屋の明日を担保する命綱でもある。

「この機に乗じて消せば確かに怪しまれずに済むな」

鷹取、と言ったか。「彼女」の相方が私が持つ「クール便貨物」を見ながら、なにごとかを「彼女」に話す。

きっとあの男は何も分かっちゃあいない。下手な慰めはより深く「彼女」の心を抉るだけだ。しかし、彼は気付きやしない。


だが。

今はそれよりもこれだ。

呉に連絡を入れる?

それとも検視が先?

見た感じ、舌に怪我はなさそうだ。

それにどのみち舌がダメでも若い娘が手に入った以上、呉は丸ごと欲しいくらいのことは言い出しそうだ。

それで手打ちにならないだろうか。

逃亡の選択肢はこの時すでに彼方にあった。


「これが生レバーの注文だったら、と考えたらぞっとするよね」

開腹した中を検め、掃除屋は一人、死体と語る。

目線の先、右上腹部の肝臓は綺麗な7.62ミリのトンネルが穿たれていた。

しかし、他は綺麗なものだった。

「健康なんだね、君」

綺麗な色の臓腑を眺め、感想を漏らす。

目当てのブツは最優先で回収した。後はボーナスみたいなものだ。

近くの台には元々着ていた制服や装身具を置いてある。これも副業のボーナスになる。


いつものように、コール音が鳴り出すと殆ど同時に相手がすぐに出た。

「吴先生、精品啦!(上物ですよ、呉さん!)」

「・・・・・・你真的明白了吗?(本当に手に入ったのか?)」

疑うような声が受話器越しに響く。

どうにも適当な嘘をついて延命を図っているように受け取られているらしい。無理もない。

そのとき、ふとあるものが掃除屋の目に留まる。

「然后、我会给你一些礼物(ならば、いいものをお付けしますよ)」

おまけに付ける、ある物件を手に取る。

「什么是「礼物」?(なんだよ「いいもの」って)」

「那见到来的欢乐(それは届いてからのお楽しみってことで)」

「㗏、不使着急・・・・・・没关系,算了(おい、焦らすなよ・・・・・・まあ、いいか)」


珍しく向こうから取引時間と場所を指定してきた。

それを聞き届けると掃除屋は社用車を走らせる。


受け渡し場所には既にいつもの遣いがいた。ミスのせいで彼までこの世から消されちゃいまいかという掃除屋の少しばかりの心配は、幸いなことに杞憂に終わったらしい。

遣いにケースを受け渡す。

今度は代金は取らないつもりだったが、僅かながら現金の入った封筒を差し出される。

まだ信頼してくれてるのだろうかと掃除屋の頭に疑問が浮かんだが、この疑問は何となく解決させない方がいい気がして宙ぶらりんのままにした。


7日目。

「毕竟你是最好的!(やはり君は最高だ!)」

日付が変わると同時にかかってきた電話から、落ちかけた顧客満足度をなんとか100%に復帰させることに成功したらしいことを知った。

かなり悪趣味だが、呉が好みそうな手合いのものとして付けたおまけの物件も功を奏したらしい。

生徒手帳、である。

もちろん生徒証も入っている。

下手な下着類などよりも呉は生前を感じさせる物件の方を好む。いつかバチが当たりそうなものだが、まだその気配はない。

今後も是非ご贔屓に、と伝え電話を切る。

間一髪、とでも言えばいいのだろうか。


その時、戸口からかたん、と音がした。

夜分遅くに何だろうかと覗くと、一通の封筒があった。差出人名はない。

不審に思い透かして見ると、どうやら懸念した炭疽菌などの生物兵器の類ではなさそうだ。

開封してみると、中には一枚の写真と一通のメモ書きが入っていた。

「愿意忽视(不問に付す)」

写真には旅行代理店で話し込む掃除屋が写り込んでいた。


掃除屋はそれらを無言で破り捨てると、コンロの火にかけた。

人生は綱渡りだ。

どこでどう道を間違えたのか、それともいつからかは分からないが、現在進行形で道を順調に外れていっているのか。元の道に戻る手立てはない。しばらく探す気もない。きっといつか戻るための道は無くなる。あるいはとっくの昔に無くなっているのかもしれない。

ならば、毒を食らわば皿まで。精々この世の生を足掻き切ってやる。

どんな運命になろうとも。

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