第32話

「確かに、あの人は「驚いたような顔」をしてました」

ある鉄道運転士の供述書に下松刑事は目を通す。

彼は今、刑事部屋の片隅で作成途中の報告書と供述調書とを交互に見比べ、実況見分書、検視報告書を更に引っ張り出している。


先日、田ヶ原で発生した一家不明事件については部内外を問わず、様々な憶測を呼んでいる。

その原因は進展しない捜査にもある。正直なところ、物証と現実に起きた事象との間を埋める裏取りが全く出来ていない。更にその原因は至って単純で、被疑者と関係者全てが行方不明若しくは死亡のため、憶測と推測に頼らざるを得ない状況が発生しているからだ。


検視報告書に目を通す。

発見当初、蝋人形だと思われていたのは剥製化された人間の死体だった。被害者はこの家の主婦。死後おそらく1ヶ月足らず。

剥製にした人間の心理状態は知る由もないが、素人仕事のためか、手入れの跡はあったものの、一部が腐敗し始めていた。


そしてもう一枚。

今度の検視報告書は40代男性。死因は鉄道車両による轢死。ホームから線路に転落した直後、通過列車に轢かれ即死。

検視の結果、死の直前まで全くの健康体だったことが判明している。


下松はそもそもの時系列を整理する。

まず第一に、一家の主人、なんでも会社の重役らしい、が出社してこないと部下が交番に駆け込んできた。

第二に、交番員が同行したところ物盗りらしい形跡があったため、盗犯係を呼んだ。

第三に、盗犯係が臨場したところ、同居宅の部屋から事件性がある物証が出て来たため鑑識課及び捜査課が臨場。

第四に、この家の一人娘も行方不明であることが判明。

第五に、家の居間に安置されていた遺体がこの家の主婦であることが判明した。

第六に、その日の午後、遠く離れた鉄道駅で主人が人身事故の第1当となり遺体収容。

そして最後に、娘は依然行方不明。


疑問は沢山ある。

現場には明らかな盗難の跡があるが、何が盗まれたのかは分からない。鍵付き戸棚の中身は何だったのか。

一方で、金品の類には全く手がつけられていない。つまり、単なる空き巣のお仲間ではない。

侵入の形跡も少なく、窓を破った跡も無い。盗みは八割がた身内の犯行と言われるが、今回の場合その身内も被疑者とは扱いにくい。


そして、第2の疑問は誰が何の目的で主婦を剥製にしたのか。そして娘の部屋から発見された大量の物騒な得物は何なのか。

状況だけで判断すると、娘が主婦を殺害し、剥製化した、と見るのが妥当だ。しかし1ヶ月もあれば誰かしら異変に気付くはずでは。

それに。

動機が分からない。

思春期の少年少女には反抗期は付き物だが、それでも親殺しまでいくパターンはまず無い。更に、剥製化した事例なんて未だかつて聞いたこともない。

そもそも、娘は今どこに消えた?


そして第3に・・・・・・

「先輩、報告書ですか?」

その時、後輩の津久野が刑事部屋に無精髭を生やした顔を覗かせた。

「・・・・・・ひでえ面してんな」

「今起きたとこです」

津久野が歩いて来た方向は確かに仮眠室がある。

田ヶ原署の仮眠室は、本来は倉庫にする予定を仮眠室に無理矢理変更したか、そうでなければ設計ミスなんじゃないかと下松は常々思っている。

窓からはロクに陽が差さず、かび臭いようなどんよりとした空気が漂っている。

一応シーツなどの寝具は定期的にクリーニングに出されているらしく、署内に置いてあるウォーターサーバー共々、月一回の諸経費の徴収がそれを物語っている。

冷暖房は完備されているが、夏場には暖房が、冬場には冷房が入る万能ぶりを存分に発揮している。要するにただの外気の送風機程度にしかならないため、誰かが持ち寄った物品管理シールの貼られていない年季の入った扇風機だけが夏場の頼りになる。


「鏡見たか?後で髭剃ってこいよ」

「へぁい」

あくびとも返事とも受け取れる微妙な声を津久野が発する。津久野は今日は非番だったはずだが、管内で起きた件の怪事件のせいで今や誰のところにも非番は有ってないようなものになっている。

下松は肩を回す。気休め程度の疲労回復を試みるが、ぼきぼきと小気味よい音がした他はあまり効果はなかった。

警察官は書類仕事が多い。刑事課にしても、刑事ドラマみたく鮮やかに犯人を捕まえて「はいおしまい」という訳にはいかない。

むしろ犯人逮捕は捜査活動全般を通じ、その2割程度。後は地道な聴き取りや、逮捕後の裏取り、報告書作成、各部との調整が殆どを占める。

嘘の供述に振り回され、ありもしない物証を探しに半日かけて草むらを探し回ったり、真実を自供したかと思えば、最早とっくに存在してなさそうな物証を探しに1日かけて泥色の川底をさらったり。


事件そのものも、殺しなんてのは滅多になく、通報を受けてよく分からない現場に出場し、よく分からない内に通報者自身が解決していたり、拍子抜けするような、それこそ出場するまでもない現場だったりすることの方が圧倒的に多い。

逆に、殺しなんてのが起きた日には蜂の巣をつついたような騒ぎが上へ下へと駆け巡る。丁度、たった今この田ヶ原署が直面している状態のように。


「今回のヤマ、「取っ掛かりのない怪事件でお宮入り」なんてもんじゃなさそうだ。随所に出てくる項目がそう言ってる」

むしろ、と下松は続ける。

「取っ掛かりだらけなのにヤマを登れない」

「そもそも誰が何の事件を起こしたかが分かりませんよね」

すっかりぬるくなっていたコーヒーを捨て、津久野がコーヒーメーカーに新しいパックをはめ込む。激務でも下っ端の義務を忘れていない辺りは流石なものだと下松は思う。

後学のためだがと前置きし、下松は津久野に一つの質問を飛ばしてみることにした。

「お前、家主の方の調書読んだか?」

「えーと、轢いた人のですか」

災難ですよねえ、と歯ブラシを片手に流しの前に立つ津久野が感想を漏らす。

「この「驚いたような顔」という表現だが、意味は分かるか?」

「そりゃ、自分が死ぬ直前ですから、そんなの誰だってそんな顔になるんじゃ・・・・・・」

だが、下松は津久野の意見を「違うな」と両断する。

「人身引き当てた運転士はな、大抵こんなこと言わねえ。「虚ろな顔をしてた」か「どんな顔してたか覚えてねえ」って供述をする。ごく稀に「最期に笑顔で見てきて、しっかり目が合っちまった直後に轢いたのが頭にこびりついて離れない」なんてトラウマになった旨を得ることもある」


つまり、と言葉を区切り下松は続ける。

「「驚いた顔」は滅多に聞ける供述じゃないってこった」

「じゃあ、一体どういう・・・・・・」

「逆に、驚いた顔すんのってお前の場合いつだ?」

「なんか予想外のことが起きたりしたとき、ですね・・・・・・」

下松は表情を変えずにその通りだと答える。

「つまり、な。意図しない転落だ」

「まさか、殺された、と・・・・・・?」

「おそらくその通りだろう」

これが下松の第3の疑問だった。

ここから先は下松にも疑問は止まらない。

誰が?

なんのために?

主人は一体誰に殺された?

沸々と湯気を立て始めたコーヒーメーカーを尻目に推理を組み立てるが、どうしても「動機」という最大の壁にぶち当たる。

明白な「殺し」以外の何物でもない。ヒントは転がっているのに、まるで形にならない。


その時、戸口で主任が下松の名を呼んだ。

「もうじき捜査会議だ」

時計を見るといつの間にやら定時の会議が迫っていた。残念ながらコーヒーはお預けらしい。

進展が何一つない状態での捜査会議は憂鬱でしかない。本庁の捜査課長は冷静な低い声で「手土産一つないのによくこの席に着いていられるな」とか「犠牲者の代わりにお前が死んでくれればよかったのに」とか容赦のない毒舌を振ってくる。

尤も、誰に聞いてもどこの課でも捜査課長は進展が無ければそんな感じで人を痛罵するらしいが。

署で持ちネタに出来そうなのは運転士の証言だが、アレを引っ張ってきたのは供述班だ。物証班の自分が出る幕はない。

だが。

やるからには出ざるを得ない。

諦めて下松は上着を羽織り、忌々しいこの事件を仕組んだ人間を呪いながら、会議室に歩みを進めた。

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