第31話

「全てがどうでもよくなったんだ」

そう西川専務は独白を始めた。

時間を遡り、喫茶ストークでの商談の続きの一幕である。

鷹取はエスプレッソを一口含むと舌の上で転がす。心地よい甘みが口中に広がるのを感じながら時間と専務の話の先行きを天秤にかけ、そしてしばらくは専務の独白に付き合うことにした。


「そもそもの発端はきっと、20年近く前からだったのかもしれない」

目線をやや上向きに、思い出すような表情の専務は、順を追うべく頭の中で整理を始める。

「私は当時、部下の女に手を出してな」

「はい?」

話の切り口がよく見えない。

「つまり、女癖の悪さが全ての原因だと?」

「まあ・・・・・・今から話すことはつまるところ、そうなるな」

西川専務、と鷹取は呼びかけた。

「宦官って知ってます?」

その言葉に心底愉快そうに専務は笑った。

鷹取はこの時、横目で壁掛け時計を見て、相方がそろそろ潜入の初期段階を終えていることを予期する。

ついでに専務の様子を観察し、逃走のおそれも動機もないことを悟り、鷹取は電話のために離席する。

「失礼、電話を・・・・・・ところで、物件は専務の部屋ということですが」

ああ、と肯定し階段上がって左手すぐの部屋だと説明を補足する。

「・・・・・・話は聞いてくれるかね」

「ええ、電話の後でいくらでも」


一度ストークを出る。

「浮気対策ねえ・・・・・・」

電話をかけると、もしかしたらまだ電源を入れていないかと思ったが、予期した通り潜入の初期段階は終えているらしく相手方に繋がる呼び出し音が聞こえた。

「案外宦官ってのも悪くないのかもな」

「自己紹介なら後でやってくれないかしら」

独り言を漏らしたタイミングで相方が電話に出てしまい、一言こっちの話だと謝意を示した上で本題に移る。

「物証は重役宅の部屋の鍵付き戸棚だそうだ」

「部屋の位置は?」

「えーと、・・・・・・階段上がって左手すぐ、だそうだ」

「・・・・・・分かった。これから捜索に移る」

電話を切り、謎の相方の沈黙に珍しいこともあるものだと鷹取は思う。


自身の血糖値と予想され得る話の長さを天秤にかけ、オリジナルブレンドを三杯目の注文にして席に戻る。

「どこまで話したかな?」

「宦官を勧めたところですよ」

「ああ、まだ出だしだな」

話が予想の遥か斜め上から始まったことに鷹取は驚きが隠せなかったが、話を一先ず聞いてみることにした。

「相手が悪かった。当時の重役の一人娘だった。結果は分かるか?」

「島流し、ですか」

ふふ、と笑い、職を失わずに済んだだけありがたいと思うだろう、と専務は自嘲気味に言う。

鷹取は目を合わせつつ、無言で続きを促す。

「温情をかけてもらえた上でだがな、私は運の悪い人間だった。左遷先で成果を出してしまったんだ」

つまり、と専務は続ける。

「会社としても評価せざるを得なくなった」

「それは運が良い部類に入るのでは?」

うん、と専務は頷く。

「それからは、ぱっと見れば運が良かったのだろうな。その部下と結婚することにはなったが、とんとん拍子に私は出世をすることにもなった。だが、部下にしてみると・・・・・・まあ、私の妻だが、これにしてみるとただただ私に振り回されてるだけの人生のようでもあるな。これが拙かった」

彼女に枷を付けるような、そんな生活を押し付けるようなことになったのだからな、と言い、専務はいつの間にか新しくなっていた茶を口に付ける。今度はラプサンスーチョンらしく、正露丸にも似た特有の癖のある香りが鷹取の鼻孔をつく。

というかそんなものの取り扱いがあったのかと率直な感想を持つと同時に、贔屓の割にはまだ品目一つまともに把握してないな、と妙な反省を覚える。

「上手くいってるように見えたさ。うちの娘が高校に上がるくらいまではな。役職に比例して忙しさにも拍車がかかった。しかしそれに反比例して家庭は冷えていった。徐々に、だが確実に深刻な崩壊への一途を辿って行った」

ただ鷹取は沈黙を保つ。


きっかけは思い出せないが、と前置きした上で専務は更に話を続ける。

「うちのが紗紀を虐めているのはよく分かっていた」

紗紀。資料で見た専務の娘の名前だと鷹取は思い至る。

だが待て。

「虐めていた?」

妙な新事実に鷹取は引っかかりを覚える。全くザルな調査資料をよこしやがって。それとも、この情報は不要だと判断したか、あるいは時間が足りなかったか。ことは済んだから結果としては問題ではないが、これも話の種になる事項の筈だ。なんにせよ資料がロクな下調べに基づいてないことに忌々しさを覚える。

「時折な。近所からも言われてたんだ。父親として、夫としてどうなんだ、と」

だが、と専務は続ける。

「私は逃げていたんだ。仕事にかこつけて。・・・・・・最早私には解決の糸口を探る手立ては無かったのかもしれない」

専務がかぶりを振る。

「・・・・・・どこから道を違えたんだろうな」

「さあて、ね・・・・・・最初からじゃありませんか」

だろうな、と自嘲気味に専務は笑う。

「所詮、企業の重役になっても私の出来ることなぞタカが知れているし、更にほんの些細な家庭の悩みに頭を抱え込んで何も手につかなくなった」

想像には難くない。些細なことから歯車は狂う。専務に限らず、鷹取だろうが誰だろうが、過去の経験を紐解くまでもなくよく知っている。


「その内に生来の女癖の悪さが出てな」

「いくらなんでも自分勝手すぎません?」

心底呆れたような、そんな声が出た。

「歴史は繰り返すのだな。その女と会ってるうちに、私が本来欲しかったものはなんだったんだろうと思ってな。よく女のところに入り浸るようになった。その分家庭はどんどん放ったらかしになっていったが」

鷹取は無言でコーヒーを啜る。少々、気持ちの整理がつかなくなりつつある。

「その内にそんなことを考えてる自分にも、過去の自分にも嫌気が差してきてな。でかいことをやって、もう何もかも吹っ飛ばそうと思った」

「そこで、今回の一件を画策した、と?」

「まあ、もっと大きな力に阻止されたがな」

小さい人間は大きくはなれないんだよ、とどこか哀愁を帯びた様子でカップを手にする。

「彼には悪いことをしたが、まあ、彼はそこまで頭も良くなければ、問題行動も多かったし、何故うちに入れたのか分からんくらいだ」

「だから捨て駒に選んだ?」

「失って痛くないものを鉄砲玉に選ぶのは古今東西不変だろう?」

評判も悪かったからな、と説明を補足する。

選考理由の割に、戦争の引き金を委ねるには、あるいは火に注ぐ油の番には適任とは言い難い人選だったように鷹取は思う。

「で、女に手を出して、家を半ば捨てたようなもんさ。今度こそは、と思ったよ。そうしたらある日帰宅したら娘が・・・・・・」

そこで専務は言い淀んだ。

「昔みたいに皆仲良く、夕飯を囲みたい、と言い出したんだ」

「良い娘さんじゃないですか」

コーヒーを更に一口啜り、鷹取は答える。そんな状況を自ら打破しようとは中々しない。大抵逃げる方に舵を切る。そんな中でも真っ向から向き合おうとしたのだ。それも、最大の被害者とも言える娘が。

うん、と専務が首を振る。

「母親を始末してしまっていたがな」

「なんだって?」

動機の上ではさして重要な情報はここに眠っていないだろうと考えていた鷹取の予想を裏切る単語が出てきた。

今、始末と言ったか?

「私は捨てようとした、もうある種の決心をつけたつもりのものに頭を抱え込むことになったんだ」

「始末ってどういう意味ですか?」

「始末は始末さ。家に帰るとうちの娘が専門書片手に妻を剥製にしようとしていた。逆らったら私も剥製になると思ったさ」

「一体・・・・・・」

そこで鷹取はふと気付く。

まさか。

最初から。

家では娘が何かしらのカウンター措置を講ずることを・・・・・・?

「そこからは恐怖でな。部下にはよく居場所を伝えるようにしてるんだ。私はここにいるぞ、と。なんかあったらすぐ来れるようにな」

そろそろ部下が所在不明を訝しみ始める頃じゃないかな、と専務が時計を見ながら嘯く。

「脅しには乗りませんよ。それより専務、もしかして・・・・・・」

「何かね?」

「専務・・・・・・!」

罠に嵌ったことに気付いた鷹取は掴みかかりそうになるのをぐっと抑えるが、それよりも今頃専務宅を捜索している筈の相方の身を案じる。

卓上の携帯電話は相変わらず圏外を主張している。

冷静たらねばならない状況だが、これほど全身の血が沸騰するような感覚に襲われたのは久しぶりだった。

兎に角腹が立った。猛獣を放ったらかす専務にも、自分の間抜けさにも。

だが、今はそれどころじゃない。

「失礼します」

がた、と音を立て、再度離席する。専務の反応を伺うことなく店を出た。


その時、鷹取の携帯電話が振動した。

表示は丁度、たった今連絡を取ろうとした相手のものだ。

鷹取は躊躇する。もしも予想と違う声が電話口から聞こえたら?

しかし連絡が取れないことには事態は進展も好転も悪化も見せることはない。意を決して電話に出る。

「「迷い猫」を捕まえた。離脱する」

「迷い猫」、問題が起きたが対処した。そして「捕まえた」は目標確保。つまり、電話の相手は鷹取の懸念を他所に、無事任務を完遂してくれたらしいことを教えてくれた。

「ん。飼い主のところに届けてやってくれ」

そして電話を切る。


「ここは私が出そう。餞別だ」

いつの間にか店を出ていた専務が隣に立っていた。

「残念でしたね専務」

電話をしまいながら、鷹取はやや得意げに言う。

「何が、かな」

「どうやらあなたの娘さんを退けたらしいです」

それを聞くと西川専務は、ふっ、と笑いを浮かべた。

「そうか。懸念がなくなったよ」

そして、専務は元来た道と逆向きに歩いていく。

瞬間、今までの独白が全て、妙に薄く見えた。もしかしてここまでが全て専務の思惑通りだったのではないか。どこまでが本当で、どこからが嘘か。余程の策士か、もしくは単なる人格破綻者だったのか。そこまで鷹取は考え、それ以上考えることをやめた。全て片は付いた。いずれ専務にも何かしら沙汰があるだろう。全ては後回しにして、帰投することにした。

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