横恋慕にて
零真似
見えぬ時雨
信号の点滅と共に警報を鳴らしながら踏切の遮断機が緩慢な動作で降りてくる。先に見える街路樹の葉はほとんどが散り失せていた。斜陽が届ける熱は路地裏を抜けていく木枯らしの冷気に劣る。冬ざれの訪れは近い。
「寒いね」
千尋のかじかんだ小さな左手が縋れる相手を求めて不用心に辺りを見回す。その幼気な仕草の奥に、水原は狡猾な悪魔を垣間見た。
「吐息は不満を溜め込むほど温かくなるらしいよ」
策謀の唯線には気づかぬフリをして触れず、ただ漫然と向こう側を眺めながら言う。彼が立ち止まるのに合わせて首に掛けているエナメルバッグが腰を叩くのをやめた。横で同じく歩みを止めた千尋は暫し口を閉ざす。
ふいにどこか滑稽な足取りで水原の逆隣へ回り込んだ彼女はおもむろに彼が肩から下げている黒い鞄を漁り始め、取り出したものを興味なさげに振る舞う水原に掴ませた。
「なに?」
「なんだと思う?」
大きさや手触りを加味して浮かんだいくつかの候補を常備性というザルでこしてやれば、それが携帯電話であるという察しはついていた。にも関わらず尋ねたことに明示できる理由はない。
「見てもいいの?」
「うん。見てもいいよ」
許可を得、水原は丸められた手に覆い被さる千尋の小さな手を退けて旧世代携帯を開いた。
表示されたのは受信ボックスのメール画面。送信者は水原が微かに聞き及んでいる男性。彼が文章全部へ目を通すのを見計らって千尋は切り出した。あっけらかんと、晴れた顔つきで。
「……私、別れたんだ。もう一ヶ月も前の話」
文面はその一言に集約できた。
男性は千尋が離れた地元の先輩らしかった。同じ吹奏楽部だったこともあり、仲は自然と深まった。
水原にとってそれらは全て隣の彼女から聞かされた情報である。水原にとってはそれらだけが彼についての全てである。
「俺は昔おまえに恋したけど、それからずっと愛することができなかった」
「ちょっ! 引用するとかナシだって! ここは優しい言葉で慰めるのが普通でしょ!」
「ドンマイ」
「軽い!」
カンカンと鳴り響く音に勝る具合ではしゃぐ二人の前を鈍行の列車が通過した。互いの姿と喧しいやり取りはそれ以上の喧騒によって掻き消される。
やがて危険を見送り、ベルが鳴り止み、遮断機は上がった。
「……手、繋いで」
明滅していた魔の兆がついに表出したのを水原は鋭敏に感じ取る。つぶさに繕われた妖艶な表情で見つめてくる千尋は今ここに女として存在していた。普段の振る舞いとはかけ離れて計算高い、弱さを武器に弱者の領地へ侵攻する様は雌狐以上の悪辣さを窺わせる。
「繋がないよ」
城門を開くまいと即答したのは、一度踏み込まれてしまえばたちまちに壊滅する機微を捉えていたから。
「……どうして?」
拒んでもなお降り下ろされる『問い』の剣を水原は冷たさと生暖かさを綯い交ぜにした視線で受け止め、軽蔑する。
「理屈で詰めるなら待受みたく最初から表示されていたのがあのメール画面だったから。形骸化した理由でいいなら、惨めだから」
――けれども、嫌いにはなれなかった。
「……まだ、好きなんだろ?」
ああ、やはり防備の薄い急所を斬られて無事では済まなかったか。ふいの客観視は嘲笑に落ちる。背反する累々の感情が第三者の人差し指を真似た。
「べつに私は――」
「いこう」
並列回路で繋がれた電流はじつに過不足で。自分がどちら側かを改めて自覚させられたのが悔しくて。導線に鋏を入れるように水原は歩き出した。
千尋は遮られた続きを言いたげにその背を眺め立ち尽くす。しかし先にある寂しい木の下で振り返った水原に急かされ、彼女は前へ進んだ。伝えかけた飾り物の想いを一つ殺して。
「…………ごめん」
「いいさ、べつに」
水原は握らされていた携帯電話を千尋の鞄へ戻す。
「……それにしても、まったく、寒いや。本当に」
冷気に晒され凍える手へ浴びせた白く変わる息は、酷く温かかった。
横恋慕にて 零真似 @romanizero
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