Perfect cube
笠井 玖郎
*
一
目を覚ますと、私は何かに押し込められていた。
腕を動かす空間すら埋め尽くさんとばかりに、それは作られているようだった。
……いや、これに合うようにされているのは、私の方か。
窮屈な、身動きの取れぬ身体を伸ばそうにも、伸ばすまでもなく固い壁のような感触に行き当たる。
壊すしか、ないか。
若干の息苦しさを堪えながら、限界まで脚を身体に寄せ、一気に前方へと蹴りを繰り出す。
幸いさほど丈夫ではなかったようで、数回の後、呆気なく外へと視界が開かれた。
詰め込まれていたものから這い出して、その正体を振り返る。
それは、真っ白な箱だった。
完全なる立方体。完全なる直線に包まれた、完璧な立体。
穢れなく、曇りのない、まっさらな、窮屈な、完成された、完結した、潔癖な、他者を
「う、」
込み上げる吐き気。
それに、内包された。
その事実はあまりに、破滅的だ。
いや、しかしそれは、確かに私が壊したはずなのだ。それなのに、何故。
完全なる立体が、完全なままに、そこに佇んでいるのだ。
二
部屋の隅に吐瀉物を撒き散らし、口腔内で酸を感じる。
虚ろなる視線は未だ、どこへ行っても定まらない。
なぜなら、私は自分がまだ、箱の中にいると気付いてしまったからだった。
短辺も長辺もありはしない、同一の線分で結ばれた八つの角。
窓も照明器具すらもないそれは、どこまでも完璧な、巨大な真っ白の立方体。
「また、か」
衰弱する身体を壁に預けて、先程の嘔吐物へと目を向ける。だが、そこにあるのは真っ白な、穢れなく曇りのないまっさらな窮屈な完成された完結した潔癖な他者を赦すことのない――完全なる白の床だった。
壁を何度殴りつけても、今度は傷ひとつ付きはしない。血が滲むまで頭を打ち付けても、目を離した瞬間に赤は消える。どれだけ蹴飛ばしたとしても、靴跡ひとつ残りはしない。それどころか何かに
じわじわと、六つの正方形が迫ってくる。線分は縮まり、直角が追い詰めてくる。直線に囲まれた平面は、曲面の自分を赦すことなく捩じ伏せ
汗が滲み、口が渇き、心臓が内から胸を叩く。
実際には壁など、動いてはいないのに。
せり上がる胃液を飲み下し、折れそうな心を奮い立たせる。
一刻も早く、ここから出るのだ。どこかに必ず出口があるはずだ。
目に見えぬ白の圧力。一切の歪みを許さぬ正六面体は、入った者を狂わせる。何しろそこには何もない。全ての余分を排除し削ぎ落し、そこにいる者に何一つ与えない。目の前に広がる箱中の虚空が、自身の卑小さと無力感をもたらすだけだ。
やがて白く無垢なる箱は、私を異物だと責め立てる。罪を、穢れを、嘘を、卑劣を、すべての罪悪を暴き出し、そしてそれを赦しはしない。それでもどこへも行くことはできず、ただひたすらに、問い詰められる。
逃げ場はない。出口などない。行き場などない。意味すらない。
なにも、ない。
中身の満たされぬ箱は、その全てが無なのだ。
三
いつ意識を失ったのだろう。
憔悴しきった精神は、目覚めてもなお、癒えはしない。
目の前に伸びるのは、あまりにも長い廊下。
その吸い込まれるような直線に、心音が耳を支配する。
あの箱の中から、いつ外へ。
そんな疑問さえ搔き消すように。
廊下の向こうに小さく見える常夜灯。それが、どれ程遠いかを物語っていて。
歩み出そうとする足が、竦む。
どこまでも続くような床に、見る者を不安定にさせる真っ白な壁。天井の板と板の間の継ぎ目が、廊下のさらに奥へと消失点を結ぶ。
奥へ、奥へと全ての直線が収束し、自我は呑み込まれ、あまりにも矮小な自分という人間が、この完全なる直方に取り込まれていることを知る。
「は、あ、」
不安定な呼吸では、ろくに酸素も取り込めやしない。
萎縮した心臓が、助けてくれと悲鳴をあげる。
脇道へと逃げることすら許さぬ絶対の直線群は、脅迫的に前へ前へと連続している。
閉塞。それでいて伸び続ける長い廊下は、私を恐怖に陥れるためにのみ存在していた。
喉の奥から声を絞り出そうにも、呼吸以外が機能しない。
足が、止まる。
恐怖が、脳を塗り固めていく。
まっしろに、まっくろに。
こわい。こわい。いやだ。おそろしい。
全身が震え出し、思考が固着する。
はやく、にげなきゃ。
だれか。
「――以上が、立方体恐怖症患者の記録です。現在は特定の恐怖症と同様、
彼の場合は妄想や幻覚もみられることから、他の精神病性障害が併発している可能性も指摘されています。嘔吐や異常行動の回数も増えていますし、保護室も考慮に入れておいた方が良いかと。ただ、状況型の患者さんですし、下手に保護室に入れない方がいいかもしれません。幸い、
え、今ですか? 今は――寝てると思いますよ。静かですし。このまま寝ててくれるとありがたいんですけどね。でも……そうですね、起きてる時の反応で、少し気になることがあって。
あの患者さん、ここが病院だってこと、認識できてるのかなって。スタッフが話しかけても反応しませんし、まるで気付いていないみたいで。指定医の判断があるとはいえ、そんな状態で四肢拘束なんてされたら――いえ、私が口を出すことではありませんでしたね。忘れてください。
ええ、そうですね。きっと――良く、なりますよ」
Perfect cube 笠井 玖郎 @tshi_e
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