ZERO
御手紙 葉
ZERO
僕の秘密の場所は、小高い丘の上にあった。そこは高校と隣接する自然公園の最奥にあり、木々が鬱蒼と生え茂って、道が全くないところをさらに進んでいくと見えてくる。
大きな大きな樹が無数の枝を伸ばせて立っているのだ。そこに来る人々の姿は、僕は今まで一度も目にしたことがなかった。彼のことを知っているのは、この世で僕ただ一人だ。それはそれで世界の終わりを見守っているようで、特別な気持ちになってくる。
僕が通っているのは進学校で、普段勉強ばかりに追われる毎日だけれど、こうして放課後にこの樹の下で、読書ができることが僕の支えになっていた。彼がいなかったら、僕はここまで来れなかっただろう、と思う。
来年は三年になるので受験勉強が控えているし、今のうちに大きな友人と語り合う時間を大切にしたかった。僕は、彼に何でも話した。気になっている女の子の話、煩いけれど可愛い妹のこと、勉強の愚痴、色々なことを語りかけていると、彼が今どんな表情をしているのかわかるような気がした。
彼の枝が揺れる度、その話に賛同しているとか、驚いているとか、そういう感情の機微が感じられるような気がした。
僕の文庫本がひらりとページを捲る度に、彼は上から覗き込んで、ちょっと待ってよ、まだ俺は最後まで読んでいないんだ、と抗議したりする。全くの妄想だとわかっているのだけれど、それでも彼と一緒にいられるだけで僕の心は救われたのだ。
そうしてその日も文庫本を捲りながら、彼に背を寄りかからせて、放課後の時間を楽しんでいたけれど、そこでどこからか地面を踏みしめる小さな足音が聞こえてきたような気がした。
気のせい、だろうか、と耳を澄ませていると、その音はどんどん近づいてきて、やがてまっすぐこの樹へと向かっていることに気付いた。僕はびっくりして立ち上がり、そっと覗こうとしたけれど、その気配がすぐ間近で止まったのがわかった。
「どうして、なの」
それは、掠れた少女の声だった。どこかで聞いたことがあるような気がする。彼女は嗚咽を零していて、樹にもたれかかりながら、何かを話していた。
「私が抱いていたこの気持ちは全くの嘘だったのかな。もう私には彼に想いを伝えることも、一緒に笑い合うことも、密かに想いを寄せることも、許されていないのかもしれない。そんなのって、ないよ」
彼女はそう言って崩れ落ち、大きな声を上げて泣き続けた。僕はその悲痛な声が聴いていられなくて、ぐっと唇を噛み締めて樹にもたれかかっていたけれど、彼女が自分を責めるようなことを言い出したので、堪え切れずにふと口を開いた。
「そんなの、好きならその気持ちを貫き通せばいいんだよ」
僕が言ったその言葉が周囲に響いた途端、我に返って口元に掌を抑え、しまった、と硬直した。彼女の嗚咽がふと止まって、え、と掠れた声を零す。
「今、樹が喋った?」
「いやいやいや、樹は喋る訳ないだろ」
僕は仕方なくそこから出て、彼女の前に姿を現した。彼女が僕を見つめて、これ以上ないくらいに目を見開き、驚いた顔をする。
僕はその人の顔を見て、同じように口を半開きにしてしまう。
「佐山さん?」「……時田君?」
僕らの声がハモり、お互いの顔を凝視して硬直していたけれど、やがてどちらともなく苦笑を浮かべた。
「ごめん、聞くつもりはなかったんだ。でも、あまりにもつらそうで、声を掛けない訳にはいかなくてさ」
必死にそう言い繕うと、佐山さんは眉を下げて笑い、いいのよ、と言った。
「みっともない姿を見せちゃったね。今の、全部……聴いてたよね?」
「うん、ごめん」
僕がそう言って目を逸らすと、佐山さんはスカートの裾を払ってそっと立ち上がった。
「その人に想いも伝えられないまま、失恋しちゃって……本当に情けないんだけど、ショックでさ。だから、この場所に来て、全てを受け止めてもらおうと思ったんだ」
彼女はそうつぶやくと、その大きな幹へと手を差し伸べて、ぽんと置いた。
「彼女だったら、全てわかってくれると思ったから。でも結果的に、時田君に全て聴いてもらうことになっちゃったね」
「その人のこと、どうしてもあきらめられないんでしょ?」
僕が彼女の言葉を遮ってそう言うと、佐山さんは俯き、「うん」とつぶやいた。
「私、その人のことが本当に好きで、今までずっと遠くから見守っているだけだったんだけど……今日、他の女の子と一緒に帰っているところを見かけてさ。だから、ショックだったの」
「自分の気持ちを伝えたいなら、伝えちゃえばいいんだよ。それで相手が駄目だと言ったら、そこで気持ちにケリはつくと思うよ。恋愛経験のない僕がこんなこと言って、馬鹿らしいかもしれないけど」
彼女はじっと僕を見つめて口を閉ざしていたけれど、そこでふと笑みを見せてうなずいてみせた。
「そうかもね。あきらめなくても、自分に嘘を付かなくてもいいのかもしれないね……私は彼のことが好きで、それは偽らざる真実なんだから。ありがとう、時田君」
「いいんだよ。それより、佐山さんがこんな場所に来るなんて本当にびっくりしたよ」
「私だってびっくりしたんだよ。私の秘密の場所に、先客がいるんだもん」
「秘密の場所? ここ、僕が毎日通ってる場所だったんだけど」
彼女はそっと目尻の涙を振り払って、本当にすごい偶然だね、と笑った。
「私は毎朝、学校に行く前にここに寄るんだけど……今日はあまりにつらくて学校の後に寄ったんだ」
「僕は放課後にいつも来るけど……お互いに誰にも気付かれてないと思ってた訳か」
僕らはそう言ってお互いに押し黙り、やがてぷっと噴き出して笑い合った。
「すごい偶然……ホントに、すごい偶然……」
彼女はそう零して、ようやく心から笑ってくれた。
「クラス委員とかやってて、すごく真面目な佐山さんの、実はすっごく女の子らしい一面を見れて良かったよ」
「ちょっとやめてよ。私だって普通の女の子なんだから」
彼女は少し口を尖らせて言ったけれど、それは怒っているというより、本音で語り合うことができて嬉しそうな様子だった。
そうして僕らはその樹の下で初めて二人で長く語らい、同じ秘密を共有する同志として、たまに会っては話すようになった。
それは僕の勉強づくめの高校生活に、初めて学生らしい、青春を謳歌できた瞬間だった。
一体佐山さんがどんな人を好きなのか、とても興味があったけれど、それよりやっぱりいい人だったんだな、と思えてそれが何より嬉しかった。
*
僕にはうるさい妹が一人いて、学校の中でも僕を見つけると、走り寄って来ては下らないことを騒ぎ立てたり、逆に泣きついて来たり、と表情がころころ変わる、感情豊かな女の子だった。
その日も僕が廊下を歩いていると、その妹が「兄貴!」と叫んで近づいてきて、突然肩をつかんだかと思った瞬間、何かを騒ぎ立て始めた。
「ねえ私、現代文が学年二位だよ? すごいと思わない? 兄貴の言う通り、国語だけは天才的だ!」
「わかったって……引っ張るな。というより、廊下の真ん中でがなり立てるなよ。さっさと友達のところ、行けよ」
「兄貴はテストの順位、どのくらいだった?」
僕はそんなのいいだろ、と彼女の頭をつかんで思い切り突き放しながら、歩き出そうとした。けれど、そこで向こうから、佐山さんが歩いてくるのがわかった。僕らを見つめて笑いながら横を通り過ぎ、軽く会釈してきたのだ。
僕は何だか複雑な気分で頭を下げ返して、妹の腕を引き剥がして佐山さんの後を追おうとする。
「ねえ、今の人……誰?」
早苗が興味津々といった様子で身を乗り出しながら、佐山さんを見つめてそう言う。
「ただのクラスメイトだよ。少なくとも、お前よりかは真面目で容姿も端麗だな」
そう言うと、思い切り拳で頭をぶん殴られた。
「兄貴の彼女かと思った。兄貴の、好きそうなタイプだね」
「何言ってるんだよ、そんなのどうでもいいだろ……さっさと教室に帰れ」
彼女はまだぶつぶつ言っていたけれど、やがて「兄貴、頑張ってね!」と廊下に響き渡るほどの大きな声で叫んで、けらけら笑いながら、階段へと消えて行った。
「あの、くそったれ……」
僕は肩をすくめながら、その場を後にする。
確かに僕は佐山さんを意識していない訳ではなかったけれど、それ以前に佐山さんには好きな人がいるし、容姿もすごくいいので男子からの人気も高かった。そんな人が振り向くとは、万が一にも思えなかったのだ。
その日の放課後、いつものように樹の下へと向かうと、やはり佐山さんが僕を待っていた。彼女は掌を振って僕を促して、手作りらしきお菓子を差し出してきた。
「佐山さん、今日も早いね。部活はなかったの?」
「うん、副部長に任せて、抜け出してきちゃった」
彼女はそう言って小さく舌を出して笑う。
「それより……時田君の妹さんすごく可愛いわね。お兄ちゃんっ子なんだね!」
僕は危うく佐山さんが焼いたクッキーを喉に詰まらせかけた。
「なんであいつが妹だって知ってるの?」
すると佐山さんは、少しだけ視線を伏せて、友達に聞いたのよ、と笑った。
「仲の良い妹さんがいると聞いて、いい目の保養になったわ。素晴らしい、お兄さんしてるわね」
彼女はそんなことを言って悪戯っぽく微笑み、自分もクッキーを一つ口に運んだ。
「あいつは五月蠅いだけで可愛くなんてないよ。佐山さんが妹だったら、もっと可愛がっていただろうけど」
「わ、私が妹だったら? そうしたら、すごくお兄ちゃんっ子になっていただろうなあ……」
佐山さんははにかんだようにそう笑って、顔を丘の先、ずっと空の向こうへと向けて口元を緩めた。
「こうしてこっそり会ってると、何だか親友ができたみたいで嬉しいんだ。佐山さんのこともいっぱいわかったし……そういえばその後、どうなったの?」
僕が文庫本を取り出してそう問いかけると、佐山さんがぶっとクッキーを噴き出した。
「ど、どうしたの?」
「いや、別に進展はないんだけど……なかなか勇気出せなくて、いつも遠目に見てるだけで……」
彼女はそう言って少し赤くなった顔を俯かせた。僕は彼女のその横顔を見ながら、少しだけその相手に嫉妬してしまう。彼女がこんなにも想っているんだから、少しは気付いてやればいいものを……そいつはすごく鈍感なんだな、と思う。
彼女はふと僕へと視線を向けて、じっとその瞳を覗き込んできた。そしてふっと笑い、小さく首を振った。
「今はただ、彼を想い続けている自分がすごく好きだから。このままでもいいかなって……」
「そう、なんだ。僕もできる限り応援するから。何か相談に乗ったり手伝って欲しいことがあったら、なんでも言ってね。なんかそいつが羨ましいな、ホント」
思わずそんなことを言ってしまうと、彼女は耳を赤くして俯いてしまった。
「うん、今のままでも本当に支えてもらってるから……」
「そう、それは良かった。これからもたまにこの樹の下に来てさ、一緒に話したりできたらいいな。佐山さんとは色々と話したいことがあってさ」
佐山さんは口元を綻ばせて、うなずく。
「うん……卒業まで、こうやって話せたらいいね」
「この樹がある限り、僕らはずっと友達のままだよ。同志なんだから」
彼女は頭を幹へとぴったり付けて、この樹が、とつぶやいた。
「この樹が、色々な幸せを運んでくれるのよ、きっと」
「彼はたぶん、それだけのエネルギーを持ってるんだよ」
「彼? 彼女じゃなくて? この樹は女の子だよ」
「いやいや、こいつは男だよ。僕が持ってきた写真集に、鼻の下伸ばしてたもん」
馬鹿、と佐山さんは引き攣った笑みで僕の後頭部を叩いた。でも、その手つきは優しくて、僕は殴られてもがっかりしなかった。
「本当に、ほのぼのとしてるな、ここは」
僕はそうつぶやき、頭上の大きな自然の傘を振り仰いで、微笑み、そして大きく息を吐いた。
僕はこうした日々が、ずっと――少なくとも、あと一年は続いていくものだと思っていた。当然そのはずだろう。でも、そんな期待は僕らの独りよがりな願望でしかなかったのだ。彼……彼女は少しずつ、その来る時までに、最後の生の実感を噛み締めて、その場所に佇んでいたのだ。
僕らは結局それに気付かず、彼の最後の囁きに耳を傾けることもせずにその日を迎えてしまった。もう僕らにできることは何もなかった。あるのはただ、彼の変わり果てた姿を見て慟哭し、頭を掻き毟り、地面に蹲ることだけだった。
それでも、彼はきっと僕らを見下ろして微笑んでいることだろう。それが彼の唯一の務めだというように……。
*
その日、台風が近づいてきていた。大雨の日々が続き、僕は佐山さんとあの樹の下で会うことも少なくなっていた。早く彼の元に向かって色々な話をしたいと思うのだけれど、なかなか天気に恵まれなかった。
ただ前よりは、クラスで佐山さんと話す機会が増えたので、お互いに休み時間に話したりなど、それなりに楽しい毎日を送れていたのだ。
けれどその日だけは、あまりに強い大雨が降り注いで、生徒達は午前中の授業だけで早くも下校することになった。おまけに雷も鳴り響き、僕と佐山さんは下駄箱で一緒に歩きながら、何だかその薄暗い校舎を見つめる中、言葉も少なかった。
「雷、怖いよね。早く止んで、あの場所に行きたいんだけど」
佐山さんは扉の窓の外をじっと見つめながら、そうどこか沈んだ顔でつぶやく。
その時一瞬、辺りが光で照らされたのがわかった。間髪入れずに、物凄い轟音が校舎を包み込み、佐山さんが大きく悲鳴を上げた。
気付けば僕らは身を寄せて息を殺して、ただ震えていた。
佐山さんは僕の胸に肩を寄せて、ただ俯いていた。僕も彼女の肩に手を置いて硬直してしまう。
「あ……ご、ごめん」
佐山さんは至近距離で見つめ合うと、慌てて身を離して、どこか赤い顔を反らしてしまった。
僕は小さくうなずき、自然公園の方をじっと見つめた。学校の敷地を囲む柵の向こうに、豊かな自然の姿が大きく広がっていたけれど、そこに漂う空気は薄暗い闇に覆われている気がして、背筋が冷たくなった。
「今、かなり近いところに落ちたよね。なんか怖いよ、ホントに」
佐山さんは僕の腕を握って手先を震わせて、そこに佇んでいた。僕は彼女を促して、一緒に下校することにしたのだ。
その時にも僕はずっと、自然公園の方へと意識が向いて、どうしても気になってしまうのを抑えられなかった。何かとても不吉な予感が体をざわざわと粟立たせていたのだった。それでも今はただ、佐山さんをバスの中で必死に元気づけることしかできなかった。
後で考えてみれば、もう僕らはその時、事実を予感していたのかもしれない。その姿を見なくても、何が起こったのか、何が起ころうとしているかは、その心に、体に直接感じていたのかもしれない。
でも、その時にはもう、僕らにはどうすることもできなかったのだ。
その夜は結局寝付けずに、ベッドに腰を下ろして窓の外をじっと見つめていた。そこに降りしきる雨が何だか自分の心に打ち付けているようで、妙に体が冷えて仕方がなかったのだ。そんな中、ずっとあの樹のことが気になっていて、彼の姿ばかりが目の前に浮かんでくるのだった。
そうしてじっと身を縮めて夜明けが来るのを待ちながら、朝が来る頃に空は晴れ渡って、僕は気付けば制服に着替えて、まだ薄暗い中から外へと駆け出していた。
佐山さんにメールを送り、良かったら、朝、あの場所に来て、と誘うと、僕はバスに乗ってあの自然公園を目指した。嘘みたいに晴れ渡った空が頭上に広がっていて、僕は反対に、それが心を落ち着かなくさせているような気がした。
ようやく自然公園の前の、バス停に到着すると、僕は公園の奥を目指して走り続けた。理由のない焦燥感が体を焼き尽くしそうな、そんな息苦しさを僕の心は感じていたのだった。この苦しさは走っていることによるものだけじゃないはずだ。
僕はそんな予感を抱えたまま、やがてその茂みを掻き分けて開けた丘の上へと出た。そして、その場に立ち尽くし、息を呑み込んで、ふっと体の支えを失った。
――そこには、一本の大木の亡骸があった。
脳天から引き裂かれて左右に倒れ落ち、生々しい裂け目を見せていた。あの大きな枝が地面の上で広がって、その力強い姿を見せることはもうなかったのだ。
僕は崩れ落ちて地面に手を付き、口を開いたまま顎を軋ませた。どうして……どうして、彼がこんな姿になっているんだ? 嘘だろ? ……嘘だ。
僕の額から伝い落ちる汗が地面へと吸い込まれていったその瞬間、ふと背後で茂みが揺れる音がした。そっと誰かが隣に立つ気配があったのだ。そして、何か掠れた悲鳴を上げたのだった。
「どうして……どうしてそんな、」
僕がつぶやくと、その影が覆い被さってきて、肩に手を置いた。そして、佐山さんが身を乗り出してきて言った。
「落ち着いて、時田君――」
「こんなのって……こんなのってないだろ、」
僕がもう一度立ち上がり、彼へと近づいてそうつぶやくと、佐山さんは「彼女はね……」と言葉を零した。
「彼女はね……精一杯生きて、旅立っていったのよ。だから、今は泣かないでね……彼女をただ見守ってあげて……」
僕は何か言葉にならない叫び声を上げながら、そこに跪いて唸った。佐山さんはそっと僕の腕を包み込み、俯きながら、微かに震えていた。
彼は旅立って行ってしまったのだ。僕らの知らないところで、天から大きな矢で引き裂かれて倒れ落ち、やがて地球へと帰っていったのだ。
僕がずっとずっと彼の元で過ごした時間が、今、零れ落ちて、彼と交わした言葉が宙へと浮き上がり、空へと消えて行った。
それは本当に僕らにとって残酷な光景だった。けれどきっと、彼にとってはそうではないのだろう。彼はこの丘で、懸命に生を謳歌し、幸せを胸にその運命を受け止めたのだ。それはきっと僕らにとっても、受け入れるべき事実なのだろう。
だから、僕は今彼の為に泣くことしかできない。同じく隣で泣き声を上げている佐山さんとしっかりと手を握り合ったまま、僕らは子供に立ち還ったように喉を引き裂くような叫び声を空へと突き上げていった。
彼はもういないけれど、彼が残したものは計り知れなかった。僕と彼女が繋がる奇跡を、彼が与えてくれたのだった。それだけを胸に、僕らはこの場所で祈りを捧げて、奇跡を抱いて、軌跡を描き、生きていくべきなのだろう。
だから、僕は彼の亡骸に歩み寄って、そっと抱きしめた。その温もりを感じていられるだけで、僕は彼の残り香をこの胸に、泣き続けることができるのかもしれなかった。
*
そうして月日は流れていき、僕達は高校三年生になった。受験勉強が本格的に始まり、僕らは昔のように毎日会って話すこともなくなったけれど、それでも時間がある時には、校舎裏の花壇で、談笑することがあった。
佐山さんは園芸部に属していて、ひっそりと校舎裏の片隅に色取り取りの花を咲かせているのだった。僕は今までその綺麗な色彩に見惚れることがあったので、佐山さんのそういう真摯な姿勢に、本当に尊敬の気持ちを抱いてしまう程だった。
彼女はその日の放課後、花壇の手入れをしていたけれど、その横で僕は、作業を手伝いながら、もうあれから一年が経つね、とふと零した。
「うん、そうだね。長いようでとても短くも感じられるし……時田君とこうして友達になれて本当に良かったよ」
彼女はそう言って、掌をパンパンと叩きながら、ゆっくりと立ち上がった。
「さて、渡り廊下の方へ行こうか」
「ああ、うん。……行こう」
僕らは並んで歩き出しながら、お互いに押し黙ってしまった。この関係はどういったらいいのか、本当に中途半端なのだけれど、佐山さんに好きな人がいるのがわかっているので、なかなか行動に踏み切れなかった。
ゆっくりとその場所へと近づきながら、僕は思い切ってそのことに言及することにした。
「あのさ……好きな人には、もう想いを伝えたの?」
彼女はすぐには反応しなかった。でも、短く息を吸う声が聞こえて、すぐに振り向いて見ると、いつもの満面の笑顔が浮かんでいたのだ。
「まだ、言っていないんだ……でも、やっと決心ついたよ」
僕の心臓が止まりかけて、胸に見えない刃が深く突き刺さるのがわかった。僕はそうなんだ、と零しながら、ぐっと拳を握ってしまうのを抑えられなかったのだった。
「私、その人に思い切って言おうと思うんだ」
「そう、良かったよ。これで僕も安心できるからさ」
彼女は首を振って空へと視線を向けながら、どこか吹っ切れたような表情を見せた。
「あの子が私達を引き合わせてくれたんでしょ? だから、私もこの想いを大切にしたいって深く思えたんだ。せっかくあの子が育んでくれたこの気持ちを、無駄にはしたくないからさ。だから、私は思い切って言うよ」
彼女は渡り廊下の横の花壇へと歩み寄り、そこに置いてあった小さな植木鉢をそっと見下ろした。そして目を瞠り、その途端に駆け寄った。
その植木鉢から覗く、小さな命……ふわりと開かれた小さな葉が、手の平を広げて背伸びをしているような――か弱い、本当に願ってもない命だったのだ。
僕と佐山さんは顔を見合わせて硬直していたけれど、気付いた時には手を取り合い、飛び跳ねていた。くるくると回りながら、「芽が出た!」とはしゃいだ声を上げてしまった。
やった! と僕らははしゃぎながら、その美しい小さな命を見て、顔を綻ばせた。その植木鉢にあるのは、あの樹の形見となるものだった。その樹の一部を再び育て続けて、こうして大切に慈しみ、やっとここまで来たのだった。
佐山さんの目が潤んで、僕は喉まで出掛かった言葉を押し留めた。彼女に今ここで好きだと言ったら、どんな顔をするだろうか。でも、もう抑えようがなかったのだ。
「ねえ、佐山さん、僕――」
「時田君、私ね――」
あなたのことが、ずっと好きでした。
佐山さんの口から零れたその澄んだ青の結晶を受け取って、僕は大きく目を見開き、思考が停止してしまう。え……佐山さん、今なんて、――。
「……ずっと、ずっと、好きだった。私は他でもない、あなたのことが好きだったの。あの日、彼女の元に泣きついてきたのは、妹さんと帰っているのを見かけたから。後から知って、顔から火が出るほどに恥ずかしかったわ」
――でもね。
「もう、決めたから。私は時田君のことが好き。この気持ちを伝えたいから」
そう言って彼女は、少し恥ずかしそうに――それでも俯きがちに、僕を見て口元に微笑みを浮かべた。それで僕も、彼女の心を本当に深く感じることができた。ぐっと嬉しさに胸を詰まらせてしまう。
でも、これだけは言わなくちゃいけない。
佐山さん、僕は――。
その言葉をつぶやくと、僕と彼女はあの樹を通して、深く結びついたのだった。その小さな植木鉢で息づく命が、彼の微笑みをもう一度見せて、僕らの小さな芽を開かせた。それはあの樹が残してくれた、最後の奇跡なのだろう。
僕はいつまでも大木の記憶を胸に抱いて、二人並んで生きて行こう、と強く誓った。
これはゼロからのスタートじゃない。彼が残してくれた確かな道のりを、僕らはゆっくり辿って歩いていけばいい。
僕はこの小さな命がやがて大木となり、あの場所に立つことを、純粋な気持ちで願った。
やがて空を突き抜けてどこまでも伸びていき、奇跡を生み出すことができるように……。
僕は彼女と向かい合い、そっと微かに、桜色の微笑みを交わし合った。
了
ZERO 御手紙 葉 @otegamiyo
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