ある丘の上で ~再会の言葉は、真~

御手紙 葉

ある丘の上で ~再会の言葉は、真~

 僕がタワーレコードに寄ったのは、彼女のアルバムが今日発売されたからだった。最近ようやく売れ出して注目され始めたシンガーソングライターで、僕がファーストアルバムからずっと聴き続けているアーティストだった。

 大型ショッピングモールの中の一角に、その店はあり、大量の音源が売られていた。僕はまっすぐにそのコーナーへと近づき、掲げられていた彼女の写真をじっと見つめた。

 ふんわりと柔らかな栗色のショートヘアーが宙に浮かび、肩に少しだけ触れている。その瞳はぱっちりとしており、綺麗なクリスタルみたいだ。ほんのりと浮かぶ唇は肉感的で、親しみが湧く可愛らしい顔立ちをしていた。

 彼女の顔をじっと見つめて、ふっと微笑んだ。そして、ヘッドフォンを取ってボタンを押すと、その曲が流れ出す。心地良いピアノの音が流れ出し、彼女の凛とした体を貫く声が僕の鼓膜を叩く。

 曲の名前は、『再び会いましょう』だった。僕は目を閉じてヘッドフォンに手を当てて聴いていたけれど、すぐに彼女の果てのない宇宙の中に放り出され、高揚感に体が熱くなっていくのがわかった。

 ここまで来たのか、と僕は少なからず驚いていた。前作とは打って変わり、歌唱力が飛躍的に向上し、歳を重ねるごとに成長しているのがわかる。いつまでも少年のままの僕とは全く違う。

 僕は再びふっと微笑みながら、軽く体を揺らせて聴いていた。曲が次へと移るにつれ、目の奥が熱くなっていく。どこまでもどこまでも彼女の歌は僕の耳に優しかった。それはそうだろう、“僕”なのだから。

 そうして聴いていると、僕は込み上げてきたその想いをどうすることもできなくなって、気づけば頬を涙が伝っていた。指先でそれを慌てて拭くけれど、それは後から後から止め処なく流れてくる。

 僕はヘッドフォンをしたまま声を押し殺して泣いた。彼女の写真を見ていられなくて、ただその雨が過ぎ去るのをじっと待った。どのぐらいそうしてじっと聴いていたのだろう、ふと視界の端で誰かがこちらをじっと見つめているのに気付いた。

 僕は振り向くけれど、その頬から大きな涙が滴り落ち、宙に煌めいた。そこに佇んでいた女性はどこか心配そうな表情で僕を見つめて、一歩歩み寄ってきた。

「どうか致しましたか?」

 女性がすぐ間近からそう聞いてきたのがわかった。その手には僕が聴いていた『浜田 真由』のCDが握られていた。僕はすぐに両腕で目を擦って涙を拭い取ると、ヘッドフォンを外した。

「どうぞ。僕はもう聴いたので」

 そう言って立ち去ろうとすると、彼女はにっこりと星空に浮かんだ月のような綺麗な笑顔を見せてCDを僕に差し出してきた。

「何かあって落ち込んでいるのなら、是非最後の12トラックを聴いてみてください」

 僕ははっと彼女をじっと見つめる。その女性は目の細い、綺麗な鼻をした二十代後半ぐらいの人だったけれど、彼女は全く邪気のない、清々しいほどの笑顔でCDのその項目を指し示してきた。

 そこに書かれているその曲名。

 ――待ち合わせの約束。

 僕はその文字をじっと見つめて、遠い昔の懐かしい丘の景色が目に浮かび、少しだけ涙が引くのがわかった。ゆっくりと肩の強張りが抜けていき、小さくうなずいて彼女に笑顔を返してみせた。

「帰って聞いてみます」

 女性はそっと僕から離れると、最後にそんな心の片隅に響く言葉を零した。

「この歌詞の中に、きっとあなたの心を後押しする何かがあると思います。私、このCD買うの二枚目で」

 そう言って彼女はくすりと微笑むと、悪戯っぽい目で僕を一瞥し、レジへと向かっていった。僕はすぐに棚からCDを取り、じっと見つめた。

 そのCDの帯には、この文字があった。

 このメッセージ、あなたにきっと届け……

 僕はその文字を指でなぞり、自然と足を踏み出し、それをカウンターへと持っていった。それが袋の中に入れられているのをじっと見ながら、僕は考える。

 僕のメッセージが、彼女に届いたらいいのに、と。


 家に帰ってインスタントコーヒーを淹れてマグカップ片手に自室に戻ると、僕はベッドに腰掛けてコーヒーを少しずつ飲んだ。徐々に体の震えが収まっていき、僕はふっと息を吐いてバッグからその袋を取り出した。

 中から彼女のCDを取り出して、コンポに入れた。その瞬間、流れてきたメロディーに、僕は体の強張りが解けて、暖かな感情が少しずつ湧き起こってくるのを感じた。

 壁に掛かった一枚のポスターを見つめながら、僕はその音楽に耳を澄まし続けた。ポスターの中の彼女は弾けるような笑顔を見せて僕をじっと見つめているけれど、本当に遠い存在なのだと感じた。

 彼女に会えたら、そしたら僕の世界は少しずつ変わっていくのだろうか。

 そう思うと、会いたい、という気持ちが大きくなる。

 僕はCDケースから歌詞カードを取り出してじっと見つめた。そこには彼女の想いが深く篭められた言葉が星の煌めきのように輝いていた。


 1、再び会いましょう

 2、思い出す度に

 3、Season2

 4、今

 5、昔のあなた

 6、別れてからずっと

 7、未来

 8、丘の上

 9、祈り

 10、最後の歌

 11、再会coming soon

 12、待ち合わせの約束


 アルバムのテーマは、別れた人への想いを綴る女性の心が描かれていた。これでもかというくらいに“会いたい”という想いや“戻りたい”という強い感情が溢れていた。僕は歌詞カードをぎゅっと握って、その歌に心と体を預けていた。

 彼女の声が響くと、そこに黄金の光が舞い始め、きらきらとした光の筋が宙を流れていく。僕は真由、と小さくつぶやいて、彼女のことを思い出した。

 もう遠くへ行ってしまった彼女。全く立場の違う人間となり、ステージの上でとびきりの笑顔を見せる彼女。

 僕がこんなにも恋焦がれているのに、手を伸ばしても空を切るだけの距離。もう会えないのだ、真由とは永遠に。

 それを想うと、心臓が細い糸でぎゅっと縛られているような苦しさがある。

 僕は彼女の笑顔や、小さな仕草や、語った言葉の一つ一つを思い浮かべ、それだけを道筋にして、メロディを辿っていく。ベッドに横になり、天井を見上げながら軽く鼻歌を唄う。

 歌を聴いている限り、彼女がずっと側にいる。そんな気がした。

 でも、これは僕が自分で選んだ決断だ。別れを切り出したのは、僕の方だったのだから。

 いつも一緒にいた僕と真由は、お互いがいつまでも一緒にいることを信じてやまなかった。しかし、真由がアーティストになってがらりと世界が変わった。会えることはなくなり、彼女は僕と一緒にいることを望んでいたけれど、僕は彼女と別れることを決意した。

「もう別れよう。僕ももう真由がどんどん遠い存在になって、立場が違ってくることに耐えられないんだ。もう限界だよ。お互い別の道を歩もう」

 僕がそう言って一方的に話を終わらせようとすると、真由は「嫌だよ」と泣きそうになりながらすがり付いてきた。

「でも、仕方のないことだろ」

 僕が彼女の目を見ずに震える声を絞り出すと、真由は「一緒にいたいの」と繰り返した。

「達也が一緒にいてくれたから、今までやってこれたんだよ。達也が私が音楽をやっているのを応援してくれて、一緒に考えてくれて、笑ってくれたから、今の私がいるの。達也がいなくなったら、私はやっていけないよ」

 彼女の掠れたその声を僕は赤い刃で裂き、凍えるその言葉を彼女の心へと投げ入れた。

「僕の心は変わらない。別れてくれ」

 僕がもう意思を変えることがないとわかると、彼女は床にへなへなと座り込んでしまった。

 僕は彼女に背を向けたまま、じっと彼女の部屋で立ち尽くしていた。真由はずっとずっと身動きしなかったけれど、やがて短い声で言った。

「私は今も昔も、これからもずっと変わらない」

 その心の奥底にまで届く言葉を聞いた瞬間、僕は背筋を震わせて振り返った。

 いつもと変わらない、純粋に優しさに満ちた声で真由は言った。

「私はずっとずっと、一生達也を好きでい続けるよ。私は達也のことだけを想って、曲を書くから。私が歌う時、それはすべて達也の為だから」

 彼女はそう言って大きくうなずいてみせた。

 別れが決まった。

 僕は彼女に再び背を向け、ドアノブを握った。そして、ぽつり、その言葉を――。

「俺も聴くよ。頑張れ」

 そのまま部屋を出て、僕らの物語は幕を閉じた。

 あの時の記憶を呼び起こすと、自分が本当に正しかったのか、彼女が今どんな想いで唄っているのか、様々なことを考えてしまい、心がはち切れそうだった。

 そんな時、曲が11トラックへと差し掛かり、“再会coming soon”が流れ出した。

「また会えるよ 再会を 信じてるから」

 その言葉が耳にすっと入ってきて、僕は胸の痞えが取れて消えてなくなるのを感じた。

“再会を信じてるから”

 僕は彼女のCDケースを胸にぎゅっと握る。

 僕だって信じたい。再会の言葉が真だと、彼女に真っ先に伝えたい。

 でも、僕には無理なんだ。彼女はあまりにも遠い存在になってしまったのだ。

 どこか切ない恋歌だったけれど、彼女はその歌を僕に宛ててどんな気持ちで書いたのだろう。会えないのに、“会いたい”“会いたい”とそうした気持ちばかりを抱いているのだろうか。

 僕だって真由に会いたいよ。会ってまず伝えたい。もう離れないから、と。

 また目の奥がジンジンしてきたので、僕は歌詞カードが濡れないようにとCDケースに戻そうとしたが、そこで曲が最後のトラックに移った。

 その瞬間、僕は何か強い力で背中を押された気がした。すぐ背後から、『達也』と真由の声が聞こえてきたので、僕はベッドから起き上がり、はっと背後に振り返った。

 そこには一つの写真立てがあった。ある丘で彼女と肩を並べて佇み、僕が握ったカメラで撮った写真だ。僕らはあの時、確かに永遠を誓い合ったのだ。

 ずっとずっと一緒にいよう。もう駄目と分かっても、想いだけは抱き続けよう。

 そうして僕らは離れ、今でも想い続けているのだ。

 タワーレコードで会ったあの綺麗な女性が語った言葉を思い出した。

“この歌詞の中に、きっとあなたの心を後押しする何かがあると思います”

 その通りだった。その曲には彼女のありのままの想いが綴られていた。

“私は今でも あなたが好きです”

“また会えるって 信じてます”

“きっと笑顔でいてくれると 想像して 私も笑顔で”

“あなたの為に歌います”

 僕はゆっくりと背中を押され、一歩、また一歩とその写真立てへと近づいていく。

 そして、それを手に取った時、その囁きが聞こえた。

 ――あの日と同じ時間 同じ場所で あなたを待っています

 僕の目に映るのは、その写真の中の丘の景色だった。夕焼けの光が平らな地面を照らし、遠くに街の姿が見える。背の高い木々が林立する中、一つのベンチの前で写真を撮る僕ら。

 あの日と同じ時間、あの場所で、また僕らは会える。

 そう思うと、本当に涙が止まらなかった。


 *


 その駅で降りた僕は、まだ鼓動が激しいのを感じながら、懐かしい街の景色を眺めて散歩を楽しんだ。その街に来るのは五年ぶりだった。彼女と初めてデートに出掛けて、この街の中を歩き回り、オルゴール店を冷やかしたり、大人が入りそうな喫茶店へと背伸びしたり、と楽しい記憶ばかりあった。

 街並みはほとんど変わっておらず、駅前に林立する街路樹にはイルミネーションの装飾が掛けられ、夜を待っている。様々なアクセサリーショップや洋服ブランドの店が並び、男女のカップルで溢れていた。

 ちょうどあの日、この時間帯に彼女と歩き、高鳴る鼓動を抑えられなかったのを感じていた。

 僕らはお互いに言葉少なに会話を続け、それぞれの顔は終始熟れた果実のように真っ赤になっていただろう。

 そして、僕らはあの丘を訪れるのだ。僕は自然公園を目指して大通りから外れた狭い道を歩いていき、前にはなかったコンビニで缶コーヒーを買って飲んだ。

 この街も変わっていないように見えて、変化がない訳ではないのだ。あの時とは少しずつ、本棚に入った本の紙が変質するように、違ってきているのだ。それは僕らの心も同じことだ。

 でも、本当に僕らの心は変わってきているのだろうか。

 それはわからない。でも、僕は彼女の信じる心をまだ願っているのだ。僕の心がずっと変わらず彼女を求めているように。

 休憩コーナーで少しずつ、時を噛み締めるようにして外の景色を眺めながら、僕は空の色が変わってくるまで待ち続けた。

 そして、その時が近づくと、そっと立ち上がった。あれ程体中を巡っていた血流が今は静かに湖面に広がる波紋のように淡々と流れ続けているだけだった。

 もう自分の心はわかっていた。僕にはどうしても彼女が必要なのだと。

 どうかお願いです、僕の前にあの聖女の微笑みをもう一度見せて下さい。

 あの日、別れを選んでしまった僕に、もう一度運命を決断するチャンスを下さい。そうすれば、僕はきっとあの子の涙を拭いに行きます。

 彼女を音楽に導いた誰か、今度は僕を彼女の元に導いて下さい。

 そんな馬鹿げた祈りを僕は目を閉じて数秒行った後、コンビニを出てガラスの刃のように鋭い寒気へと体を投げ出した。

 行くぞ、とつぶやき、すぐそこに自然公園の入り口が見えた。天から舞い降りた一本の糸筋のような曲がりくねった坂を上っていくと、徐々に木々の姿が少なくなっていき、光が差し込んできた。


 そこにいる、純白のヴェールに包まれた聖女。


 僕はふっと微笑み、彼女へと歩み寄っていく。

 一歩、一歩、その距離を確かめるように近づいていく。

 すると、そこに一人の歌姫が背を向けて佇んでいた。

 毛皮の付いた白いコートを着て、白いスカートを穿いていた。肩に触れるそのショートヘアーは風のないその空間の中でも少しずつ揺れ、スニーカーを少しのずれもなく地面に繋ぎ留めていた。

 彼女はしっかりと地に足を付けて立っていた。僕はその姿を見ただけで。本当に嬉しくて声も出なかった。

 ゆっくりと彼女の側に来た僕は一声、「真由」とかけた。すると、彼女が髪をふわりと浮き上がらせ、にっこりと涙に濡れた笑顔を僕に向けてきた。

 僕の心が彼女を引き寄せ、無数のメロディが僕らを繋ぎ、見えない糸となって幾重にも絡み付いた。それはやがて一本の線となって僕らをしっかり抱き合わせた。

 固く固く結んだ指と指が真珠の涙を振り払い、もう忘れないその誓いを立てた。


「私はこれからずっとずっと一緒にいる。もういっぱい、いっぱい歌ったから。人に何を言われても、誰かを裏切っても、私は達也と一緒にいるよ。だから、私はこれからあなたと一緒にいて、あなたの為だけに歌う」

 そうして僕らは歌を紡ぎ出すその心の入り口をそっと触れ合わせた。


 僕は彼女に指輪を贈った。粉雪舞うクリスマスのことだった。


 了

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