ハーモニクス

 自慰のあとの気怠さにまかせてベッドに倒れこみそのままうたた寝をしてしまったようだ。体内にくすぶっていた膿んだ熱を吐き出し、あの下半身に意識を支配されてしまったかのようなどうしようもなさからは開放されたものの、中途半端な睡眠のせいで霞がかかったように頭が上手く働かない。倦怠感が身体を重くしていてこのまま本格的に寝入ってしまいたい誘惑に駆られた。けれど、まだ風呂にも入っていなければ明日の準備もしていないのでそういもいかなかった。無理矢理身体を起こしてベッドから抜けだす。


 パジャマと下着の替えの入浴の用意を小脇に抱え、ノブを回して薄くドアを開いたところで、階下で話声がしているのに気づいて手を止める。階段を降りた先にある廊下はそのまま玄関へとつづいていて、その辺りが声の発生源らしかった。主だってしゃっべっているのは母らしく、それに混じってときおり若い男の声も聞こえた。内容までは聞き取れなかったが、ぽつりぽつりと漏れ聞こえるその男の声には覚えがある。彼は上がり戸のところで母と話しこんでいる様子だった。

 一階へ降りて行って風呂場へと向かへば確実に彼と鉢合わせになる。階段下で折り返して家の奥へ進むにしろ、リビングを抜けて回りこむにしろ一度は玄関前の廊下を経由しなければならない。会話をしている二人のすぐ後ろを通らなければ風呂には行けなかった


 音が響かないようそっとドアを閉め、耳をそばだてて僕は階下の気配をうかがった。息を殺してまで自らの存在を隠す必要などないし、そもそも彼に合ったところで「どうも」なり「こんばんわ」なりと短い挨拶を交わしてその場を去ればいいだけだ。頭ではそう理解してはいて、さくっと済ましてしまえと自分に発破をかけてみるのだけれど、会いたくないという思いがもたげて動き出せなくなってしまう。一言二言のわずかな交流すらいまの僕には重荷だった。


 彼、平坂圭吾個人が嫌いなのかと言われればたぶん違う。何度か顔を合わせたときの印象は悪くはないどころかむしろ好青年だと感じたのだけれど、姉が親しくしている異性という事実が僕に苦手意識を植えつけていた。姉を取られたといった嫉妬心じみた感情があるわけではなく、男だろうと女だろうと姉の友達というもの全般が得意ではなかった。たぶんこれも先輩後輩の関係性と根っこは同じくしている。見ず知らずの年上の人であれば先輩として接すれば平気だけど、姉を介したつながりで「弟さん」や「弟くん」なんて呼称で半端に親しみをこめらると距離を上手くつかめず窮してしまう。女友達であれば、異性だからと自然にある程度距離を置けるからまだ良い。同じ男だからと同性に抱くシンパシーから親近感を持たれてもそれに満足に応えることができず、後ろめたさが募っていきますます苦手になっていく。兄弟のような関係に憧れるところがないわけではないが、姉の知り合い全般に隔たりを覚えてしまう僕にはその溝を埋めるのは心の負担が大きかった。


 階下から玄関の引き戸が開かれる音が聞こえた。それから挨拶だろうか、二人の会話がまた少し聞こえて戸が閉まる音がした。

 あれ? 泊まって行かないのだろうか。

 玄関口での会話は、母が引き留めてそれを彼が固辞したといったものだったのかもしれない。用事があるから、たとえばレポートの提出期限が近いだとか翌朝バイトで早いなんて理由を口にして帰ろうとする彼を、遠慮しているのだと決めてかかりしつこく泊まっていけと勧める母の様子が容易に目に浮かんだ。


 窓の外から車のドアを開閉しているのだろう音が聞こえた。家の前に横付けしてあっただけのようで、エンジンがかけられてすぐに車は走り出して行った。家々の並んだ路地に小さく反響していた走行音は、あっという間に田舎の夜の静けさに沈んで消えていった。


 姉を送り届けるため夜の遅い時間帯に彼が我が家を訪れるのは珍しいことではなかった。

 早くに推薦で進路が決まっていた姉は高校三年のうちに免許を取っていて、大学へは一年の春から車で通学していた。通学時間はだいたい四十分から一時間程度。朝一番の講義が入っているかによって家を発つ時間はまちまちで、サークルの活動や飲み会なんかで帰宅時間も一定しない。最初のうちこそその不規則な生活に苦労していたようでひとり暮らしをしたいとときおり愚痴をこぼしたりしていた。けれど、一年の前期が終わるころには大学生活にも慣れてきたのか、あるいは車の運転自体が負担でなくなったのかネガティブな言葉も口にしなくなった。余裕ができたのだろう。車で帰宅しているからとアルコールは断っていたのも最初のうちだけで、いつしか飲み会のある日は大学の駐車場に車を停めたまま電車で帰ってくるようになった。そして、電車での帰宅に混じり平坂さんに車で送ってもらう日が出てくる。


 たまに送ってもらうだけだったものが、頻度が増して行き、ついにはそのまま平坂さんがうちに泊まるようになっていた。彼については僕はあまり多くを知らない。ひとり暮らしをしているのか、実家に住んでいるのか家はどこにあるのか。だから、自分の家と同じ方向の姉をついでに家まで送り届けていただったのか、下心があり遠回りをしてまでうちに寄っていたのかはわからない。ただ、うちに泊まった翌朝二人でともに大学へと向かう姿を見てそういう関係になっているのだろうと察っせられた。どこまで進展しているのかなんて問いたださずともそれは傍目に明らかだった。


 彼は人当たりも柔らかく、うちの家族、特に母のウケは良かった。泊まるようになったのも、今から帰るのも大変だろうから泊まっていきないと母がもちかけたのがきっかけだった。以来、うちの家族とは良好な関係を築いていて、ときには休日もそのままうちに留まり食事を一緒にするような場合もある。そうして、ともに食卓を囲んでいるとみんなの意識としては彼はもう家族の一員で、わだかまりを覚えているのは僕だけなのだと思えてくる。いや、事実その通りなのだろう。意固地になっているつもりはないけれど、僕だけが取り残されてしまったという感覚がなおのこと彼との間の溝を深くする。


 たとえ、平坂さんがうちに宿泊したとしても明日は平日なのでほとんど接触はないのだろうがそれでも姉を送り届けただけで帰ってくれたのはありがたかった。

 廊下に出ところで、階段を登ってくる姉の姿が見えたので脇にどいて道を空ける。壁に手をついてゆったりとした足取りで上がってきた姉は、頬が上気しているのが化粧の上からでも明確に見て取れるほどの赤ら顔だった。完全に酔っていた。

「風呂行くのぉ? 私も行きたいから上がったらいってなぁ」

 酔っ払い特有のほわほわした口調で告げて姉は自室へとひっこんだ。


 自分だけ泥酔するまで飲んで平坂さんに車を出してもらってまで家に帰って来るというのはどうなのだろうか。母によれば、彼はあまりお酒が強くなく飲酒の習慣がないらしい。たしかに、飲み会でもアルコールに手をつけていないのなら運転に支障はないだろうが、それを当てこんだ姉の行動が信じられなかった。特に今日など、彼は泊まるつもりもなく本当に姉を送るためだけにうちまで足を伸ばしたわけで、そうなると知っていたのなら、はじめからお酒を控えて自力で帰ってくればよかったではないか。高校時代の文学少女といった風情の地味な見た目だったころの姉であればきっと彼に甘えきるなんてことはしなかった。化粧を覚え服装も派手になった姉は、以前よりも女らしくなり、だからこそ、こうして平坂さんを捕まえることができたのかもしれない。けれど、そうした姉の変化を僕は肯定的に受け入れられなかった。そこに媚びのようなものを嗅ぎ取ってしまう。キャンパスライフという言葉の持つ華やかなイメージにおもねるのは姉らしくないように思えた。彼女が大学生活を謳歌すればするほどに姉がどこか遠くへ行ってしっまった感覚に陥り、もう僕のよく知る姉はいないという一抹の寂しさが胸を満たす。


 一階へ降りて風呂へ行く途中でリビングを覗いてみたら、父がグラス片手にソファーに座ってテレビを見ていた。おそらくグラスに入った琥珀色の液体は梅酒だろう。毎年庭の梅を収穫して大口のビンをいくつか漬けこんでいるけれど、時期からして今年のものができあがる頃合いだからそれで一杯やっているのかもしれない。


 物音に気づいたのか父はこちらをちらりと見てグラスを振ってみせた。

「お前も飲むか」

 父は感情をほとんど顔に出さずいつも仏頂面を浮かべているようなタイプで、あまり口数も多くなかったが、生真面目で冗談も口にしない厳格な父親というわけでもない。軽口を叩いたりもするのだが、いかんせん真顔でぽつりと言うものだから冗談なのか判断に困ることも多い。お酒が入ると口が軽くなるくせに、あいも変わらず、にこりともせずにつぶやくからなおさらだった。


「もう酔ってんのか?」

 姉と違ってあまり酔いが顔に出るほうではなく紅潮している様子もなければ口調もしっかりしていたが、アルコールが回っているとしか考えられない。

「馬鹿言うな、まだ酔ってない」

「酔っ払いはだいたいそういうだよ。だいたい、たとえ冗談だとしても未成年に酒なんて勧めるなよ」

「お堅いな」父は鼻を鳴らした。「昔はもっとその辺おおらかだったぞ。祭りのときには決まって酒盛りになったし、そういう席では子供でも関係なく潰れるまで飲まされたもんだ」

 田舎だからというわけでもないだろうが、お盆や正月なんかの親戚が集まっての食事では未だに叔父なんかは僕のコップにもビールを注ごうとして叔母さんに怒られている。だから、父のいうように大人が子供にお酒を飲ませていたのは本当なのだろう。飲酒運転の取り締まりも今ほど厳罰化していなかったと耳にしたこともある。


 けれど、多少であれば見逃すという空気が世間全体に流れていたのは昔の話だ。

「もう時代が違うんだよ」

 否が応でも時間は流れて環境は変化していく。かつて田舎の少年だったは家庭を持ち二児の父となったし、その娘である姉は大学生となり彼氏まで作っている。


 では僕はいったいどうなのだろうか。十七歳の高校二年生、子供と呼ぶほどに肉体は幼くはないはずだが、かといって大人と呼べるほどに精神的に成長しているわけでもない。どちらにもなりきれない半端なまま、学生という身分に甘えてのんべんだらりと日々を過ごしてきた。陸上に打ちこんでいたのは、自分の身の振り方も自分で決められないふがいなさから目を反らすためだったのではないかとさえ思えてくる。


 そんなことをうつうつと考えながら湯船に浸かっていたら長湯になってしまった。脱衣所に出て火照った身体をバスタオルで拭いていたら肘のところのかさぶたが目に留まる。根こそ皮膚にはってはいたが、傷口を覆っているのは凝固した血液そのままの赤黒い硬質なかたまりではなく、水分を多分に含んで膨れあがったゲルで、色も象牙色のような少し茶色がかった乳白色になっていた。ふとびきったかさぶたは柔らかそうに見えた。肘の骨張った感触を確かめるように指先で皮膚を強めになぞると、かさぶたはほとんど滑るようにして指の腹に押し出され縒れながら肘から剥がれた。爪を立てるまでもなかった。あれほど苦労したのが嘘のようなあっけなさだ。


 腕にくっついたかさぶたをつまんでゴミ箱に捨て、傷口に触れてみる。指に血漿の黄色い汁がつくこともなければ、新たに血が滲んで来ることもなかった。ほどよく日に焼けた肌の褐色のなか、かつてかさぶたがあった場所が、そこだけ漂白したように真っ白な斑点となっている。


 代謝によって生み出された細胞たちは、も

 う僕の身体の一部となっていた。

 肘を触ってその真新しい皮膚のつるりとした感触を確かめる。

 たしかに、時間はのろくなったりもする。けれど、たとえどれほどスローになろうとも歩みが止まってしまうわけではない。

 時間は誰にでも等しく流れている。

 それは僕だって例外ではなかった。


 〇


 翌日の放課後は市の図書館に寄った。数学のテスト勉強は結局後半を投げだしたままになっていたので、環境を変えれば集中できるかもしれないと期待して自習室に足を運んでみたのだが、また応用問題で詰まって進まなくなって二進も三進もいかなくなり閉館時間になる前に切り上げた。


 夕暮れの農道を走り集落に入り隣家のところまで着て自転車から降りてブロック塀に挟まれた小道に入ろうとした。

 そこで背後から声がかかった。

「いいタイミングで帰ってきた」

 恵ちゃんだった。ハンドルを握ったまま振り返った僕に、夏服の制服姿の恵ちゃんが「ちょうどそっち行こうと思ってたんだよね」となんの隔たりもなんのてらいもない昔から変わらない、いつもと同じ調子で笑いかける。


「これ、今年のぶん採れたからよかったらって、お母さんが」

 彼女が手にかけたスーパーの袋のような半透明のビニール袋を掲げて顔の横で振ってみせると、ビニールがかさかさと音を立てた。なかにはゴルフボール大の緑の実がごろごろと入っている。恵ちゃんの家の庭の裏にはカボスだかすだちだかの柑橘の低木があって、毎年このくらいの時期になるとお裾分けをもらっていた。


「ちょっと待って、一回自転車置いてくるから」

 実を受け取ってそのまま家に入ってしまうのはもったいない気がして、急いで自転車を車庫に片付けて庭を小走りで抜ける。日が沈みきるにはまだ少し早くて空は明るさを残していたけど、山の影があたりを薄暗くしていた。とくに庭は塀や木が空を狭くしているし、家屋は座敷がある側が面しているので室内から明かりが漏れてくることもなく影がひときわ濃く重なっている。そんななか人感センサーが反応して玄関の外灯が点いて行く手を照らす。


 もとの場所、道路に出て隣家の前まで行くつもりをしていたけれど、恵ちゃんはうちの前で待っていた。砂利敷きになる家の敷地には足を踏み入れずアスファルトの際のところに恵みちゃんは佇んでいた。空を眺めているようだった。手の甲でそ制服のスカートを押さえるみたいにして腕を後ろに回していて、その指先からビニール袋が垂れ下がっていて緑の果実の群れがちょうど両脚の膝うらのくぼみを隠していた。


 隣に並んで見たけれど声をかけるのが躊躇われて彼女の視線を追うようにして僕は空を仰いだ。やっぱりは山々巨大な影として君臨していてあたりを薄暗くしてきるのだけれど、軒を連ねる家瓦の屋根が陽光を跳ね返していたし、そしてなにより太陽の沈み始めた空が明るさをまだ強く残していて、だから思いのほか開放感があった。山に空が閉ざされているという感じがない。

 山をまたいで小さな雲のかけらたちが流れていく。背後に控えた大きな固まりは不思議なほど動かなかったけれど、切れ切れの綿雲の動きは速く、それがこうしてぼんやりと空を眺めている瞬間のし時間の流れを強く意識させた。


「あのさ」と僕がつぶやくと「うん」と隣から返事があった。

「恵ちゃん、数学得意だったよね」

 こうして空をただ一緒に眺めているのは、隣に彼女がいるというのはひどく懐かしい感じがした。時を止めこの空気にずっと浸っていたいという思いはあった。

 それでも僕は動かなければいけないという気になっていた。

「よかったらさ、数学教えて欲しいんだけど」

 話したいことはいくらでもあったはずなのに、僕の口をついて出たのはそんな言葉だった。


 頬を撫ぜる風が少し冷たい。山際から夜の気配が迫って来ていた。

 そして恵ちゃんが、ゆっくりと口を開く。

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アンプラグド17 十一 @prprprp

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