ライトハンド

 テスト前週間だとは言っても授業は普段通りあるから試験勉強だけでなく予習も怠るわけにはいかない。とりわけうちのクラスは体育祭前の特別編成授業のあおりを食らって英語Ⅱの進行が他のクラスよりも遅くれていた。試験範囲がまだ終わっていない。あと数回の授業でポイントだけ押さえて急いで内容をさらうことになるのは想像に難くないので、教科書をしっかり読みこみ授業対策をしておかなければならなかった。


 鞄から取り出した教科書とノートを机の上に広げ、さあやるぞとシャーペンを手に構えたところで爪が伸びているのに気づく。先端の白い部分がだいぶ長くなっていて上から見ると指先の丸っこく膨らんだ輪郭が完全に隠れていていた。ゆるくカーブした爪の端、縦のへりとの角に当たる箇所が尖っている。親指の付け根の水かきの部分にペンを挟んで、ためしに人差し指だけ動かして頬を掻いてみたら爪が皮膚に食いこんでぼりぼりとひっかかる感触がある。


 爪を切りたくなった。テスト前に部屋の掃除をしたくなるのと似たような心理が働いているだけだと頭では理解していても、爪が伸びていると一度認識してしまうと気になって仕方がない。ノートに文字を走らせれば嫌でもペンを握った指先が視界に入る。そのたびに伸びた爪を意識してしまい集中力を削がれて勉強に差し支えそうだ。掃除であれば本棚の整理だとか余計なことにまで手を出して半日潰すといった事態にもなるだろうけれど、爪切り程度であれば大した手間にもならない。まずは爪を整えてしまおう。


 部屋には爪切りがなかった。普段は、風呂上がりに柔らかくなった爪をリビングのソファーでテレビを観たりしながら処理してる。家族共用の爪切りで足りていたから自前のものを持っておれず、一階に降りる必要があった。


 リビングに入るとキッチンで鍋を火にかけていた母が足音を聞きつけたのかこちらを振り返った。「あーびっくりした」と声を漏らしたけれど、中年太りでふっくらとした母の顔はいたって平然としていて驚いたという言葉からは程遠かった。


「あんた、帰ってきてたんか」

「さっき二階上がる前に声かけたやん」

「聞こえんかったわ」


 もっとはっきりとした挨拶をしろと責める声色ではなく単に事実を口にしただけといった何気ない調子で呟いた母はそのまますぐに鍋のほうに視線を戻した。僕もそれで会話を打ち切りソファーを回りこんでリビングの奥へと抜ける。


 サイドボードの観音開きのガラス扉を片側だけ開いてみたが、いつもであれば爪切りの持ち手の部分をペン立ての口のところに引っかけて仕舞ってあるはずなのにそのいつもの場所にかかってなかった。薬箱の隣からペン立てを抜き出して、手首をひねって反対の側面を見てみたがやっぱりない。


「母さん、爪切りどこー」

 サイドボードの前にしゃがんだ格好から背筋をのばすようにして上半身をひねり、テーブルの陰から頭を出し、口の横に手を添えてキッチンのほうへと声を飛ばす。


「いつもんとこにないなら知らんで」

 母は相変わらずの大きな地声で答えた。鍋から目を離した様子もなかったし、たとえリビングのほうを一瞥したとしてもテーブルやソファーで死角になっているからこっちの行動は見えないはずなので、サイドボードを開く音で僕が何をしているか悟ったのだろう。母の性格からすると深く考えもせず適当に返事をしただけの可能性もあるのだけど。


 あらためて眺めてみると直方体の細長い筒状のペン立ては、ごちゃごちゃとしている。はさみや体温計ピンセット耳かきチューブの塗り薬といった背の高いものがぞんざいに突っこまれていて何がどこにあるのかわかりにくい。もしかしたらと思って傾けてゆすってみたら案の定爪切りはその雑多なものの間に落ちていた。


「あったわ」

「使ったら戻しととかんさかいそうゆーことになるんやろ」

 ようやく母はこちらに向き直って軽く怒鳴る程度の声量で、けれど憤懣の色のまったく含まれていない呆れたような語調で言った。

「僕とちゃうて、僕はちゃんと戻してるわ」

「ほんなら誰よ。お父さんか?」

「知らんやん」

「ほんまあの人は」


 この間も……とそのまま愚痴に入りそうなのを察して「火ぃかけっぱなしやで」と言って気をそらす形で制すると母はすぐに鍋に向き直った。けれど、おたまを手にしたその立ち姿には、まだ不満の火が燻っていて繰り言になりそうな気配があった。


 ソファーにでも腰を下ろして一階で爪を切ってしまうつもりだったが、リビングに留まっていれば話を聞いてくれる相手がいるのをこれ幸いと愚痴に付き合わされるはめになりそうだ。テスト前でもなければ、母の言葉にぼんやりと耳を傾けながら夕飯を待っていても良かったけど、いまは部屋に戻って予習をしたかった。爪切りを持って僕はさっさと二階へと退散する。


 自室に帰って来て椅子に座り、机の前に移動させたゴミ箱の上で両手の爪を切った。ついでにそのまま胡坐をかいて靴下を脱いで足の爪も切った。シャーペンを持ったときに爪がのびているのを発見したのがきっかけで特段他意もなく爪を切ったけれど、こうしてすっきりとした手を眺めてみると気持ちが良い。肉体的なことだけではなく、精神的にもいらない余分なものがなくなり勉強にも身が入りそうな心地になってやる気が沸いた。


 ゴミ箱を机の横の定位置に移動させて、開きっぱなしになっていた英語の教科書とノートに向き直り予習に取り掛かる。芯を出していないシャーペンのペン先で英文の下に透明なアンダーラインを引くようにしながら長文を目で追い脳内で訳文を組み立てていった。新しい章に入ったときに一度全文訳してノートに書いてあったから、頭のなかで翻訳した文章と自前の訳文を照らし合わせる確認作業がほとんどではあったけれど、それでもときおり意味を思い出せない単語があった。暗記しきれていない単語にぶち当たるたびに辞書を引いては再確認する。辞書は紙のものだ。さすがに学校へは電子辞書を持って行っているけれど家では父のおさがりの古い辞書を愛用している。


 クラスの友人のなかには、スマートフォンのカメラで文字認識させて自動翻訳に突っこむだけで長文訳の予習を済ませている粗忽者もいた。翻訳の制度はそれほど高くはないけれど大意を汲むには十分だからそれで問題ないと彼は言っていた。実際、テストの点数も悪くなかった。わざわざ自分で訳さずとも授業をしっかり聞いて文法と単語の暗記さえしっかりとやっていれば事足りるのかもしれない。


 けれど、僕は辞書を引くのが嫌いではなかった。ページを繰って目当ての単語を見つけ出しノートに意味を書き写しては実際の文章に当たり逐一日本語に直していくアナクロで地味な作業は、勉強しているという実感を与えてくれる。そしてなにより身になる。見知らぬ単語のアルファベットの並びをまず目視によって確認、辞書を引いけば再度その文字列が目に入り、視覚情報として単語は頭にインプットされる。脳内で音読しながら単語とその意味をノートに書き留めれば、意味と単語が結びつけられる。文字を記すときにも目は書かれる文字を捕らえているのだから、それは音と意味、手の感覚と単語をつなぐだけでなく、同時に最後の確認を目で行うことでもある。見る読む書くというプロセスによって記憶として脳に単語を刷りこませる。


 覚えきれていない単語であっても辞書を引いて色あせ黄ばんだページに記載された意味を読んでみれば薄れかけていた記憶が掘り起こされて「あー、前も調べたあれか」と頭に引っかかる。曖昧にぼやけてはいても一度行った見る読む書くという行為によってしっかりと脳に刻まれているのだ。そうして二度三度と辞書を引いて同様の手順を踏むことで記憶はより強固なものとなる。紙の辞書を引くという経験として記憶は蓄積していくから、暗記カードや単語帳の力に頼らずとも僕は英単語を覚えることができる。


 章末の文法の穴埋めや読解の問題も訳と同じくおさらいをして、予習も兼ねたテスト勉強を終える。時計を見ると他の教科に手を出すには半端な時間だった。

 スマートフォンを触ってしばらくだらだらとしていると、窓の外でエンジンの音がして家の近くで車が停まった。次いでシャッターを開ける音とバックのアナウンス音が聞こえ父が帰ってきたのがわかって一階へ降りる。


 夕飯は、天ぷら、すまし汁、きのこの炊き込みご飯というなんとも秋らしいメニューだった。内線で呼ばれた祖父母が離れから母屋に来て五人がテーブルに着いて食事がはじまった。姉はまだ帰って来ていなかったけれど、誰も何もいわなかったから、晩ごはんいらないとか遅くなるとかなにかしらの連絡が母にあったのかもしれない。一家団欒とは言うけれど多弁なのは女勢で行楽シーズンで親類が旅行に行って来てどうこうという話をしていた。きのこもお土産で貰ったものらしい。冷蔵庫にはケーキも入っているようだが、僕はデザートよりもご飯だと思いながら炊き込みご飯を山盛りおかわりした。それでも黙々と食べていた僕が一番に食事を終えた。


「冷蔵庫にケーキ入ってるで」

 食器をシンクの洗い桶に浸けて部屋を出ようとしていた僕に母が告げる。

「さっきも聞いたから。ケーキって何のケーキ?」

「たしかさつまいものパウンドケーキやったかな」

「さつまいもって天ぷらで食べたし。もう十分食べたからおなかいっぱいやわ。それに甘いのとかあんまり好きじゃないし。いらんわ」

「そんなことゆーて、夜中にお腹すいたって下りて来ても知らんで」

「そのときはラーメンでも作るから。ケーキはねーちゃんにでもあげといて」


 自室に戻ってみたら肌寒くて思わず腕をさする。シャツの薄い生地ごしに指先が肉ではない硬い感触を捉えて袖をまくってみたら、かさぶただった。この間、トラックを走っていたときに、野球部のボールが飛んで来たのを咄嗟に避けたものの隣にいた大柄な生徒と接触し体重差ではじかれて転んでできた傷だ。幸い肘のところを擦りむいただけで大きな怪我にはならなかった。


 肘関節の外側のしわの寄った肌のなか、凝固した血が赤黒いかたまりとなって盛り上がっていた。周囲には小石が擦れてできたひっかき傷もできていたはずだけど、そっちのほうはもう治っていた。親指の先程度の大きさのかさぶたが肘の真ん中あたりに居座っている。


 腕を曲げるとのびた皮膚に引っ張られて、ごつごつとしたかさぶたに割れ目ができたけれどそのクレバスから汁がにじむこともなく傷は回復に向かっているようだった。指先で掻いたら、中央の一番大きく隆起した部分がひとかたまり、ごろりといった感じで剥がれた。露出した傷口は、薄いオレンジのセロファンのような血漿の層に覆われている。ふたたび血があふれてくることはなかった。日に焼けていない真っ新な白い肉が透けて見える。


 手にしたかさぶたをゴミ箱に放りこんで、このぶんであれば周縁ぐるりを取り巻く血のかたまりも取ってしまえるだろうと外側から爪を立てて掻く。へりを浮かそうとわずかに盛り上がった赤黒い血の端に爪を引っかけようとしたけれど上手く行かない。指先がむなしくかさぶたの上をなぞる。さっき爪を短くしてしまったのが悔やまれる。半端に赤黒いかさぶたが残っているのがもどかしく、何度も掻いていると健康な皮膚との境目が白くなってわずかにめくれた。血漿の層ごと根元からめくれている。このまま綺麗に全部取れればいいけど、完治しているのは端だけで、なかのほうはま完全には治りきっていないように思えた。無理に剥がそうとすれば黄色い汁が出てじゅくじゅくになってしまいそうだ。下手をすれば新しくできつつある肉まで一緒に削げて出血しそうなので、へりに散った赤黒い部分も取るのを諦めてそのままにしておく。


 袖を戻してクローゼットから上着を出してきて羽織り、かさぶたのことは忘れテスト勉強に取りかかる。

 英語の予習に比べ数学の問題集は全然はかどらなかった。公式をそのまま当て嵌めて解けばいい基礎問題はスムーズに答えを出せたけれど、応用問題になると解法の見当がつかなくなってペンが止まる。二度三度と複雑な式の変形が必要となると、積算、除算による変形、移項をどのタイミングで行い最終的にどんな式へと持って行くのかの目算をつけて解かなければならない。こうすれば行けそうだと予測が立てられなければどうしようもないのに、その目指すべき方向が僕にはひらめけない。


 式を眺めていても解き方が浮かんでくる様子もなく、ペンのグリップを握ったままずっと数列の並びを見ていると頭がからっぽになっていく。ぼんやりとした空白の時間ができ、ひとたびつっかえてしまうと何を考えていたのか、何を考えようとしていたのかもわからなくなった。

 解けそうにない問題は諦めて巻末の解説を見る。解法として提示されている過程式を見ればどういう操作が行われているかは理解できた。けれどそれだけだ。似たような式にぶち当たっても、問題して現れる式は値や形が微妙に違って、その表面的な数値に惑わされてしまい解法にまで辿りつけない。あの解き方の変形でいけるという発想にならず、解説を見てやっと思い至るという具合だ。解けないから記憶として根付かず、パターン暗記すらできなかった。いくら解法を読んでそれを理解できても実践ければ意味がない。ノートは問題だけ写してあとは空欄のまま、解説を目で追うだけの作業となってしまった。実際に解けないから知識が経験として蓄積されて身についていかない。


 なまじ答えが載っているからそれに頼ってしまうのだと、自力で解こうとしてみるが完全にお手上げだった。机の上にペンを放り出す。解答ではなくてヒントが欲しかった。どちらの方向へと進んでいけばいいと指針を示してもらえれば、自分の頭で考えていけそうなのに。


 椅子の背もたれに身体を預けてめいっぱい伸びをして、窓のほうを見たら、カーテンの隙間から隣の家の二階の部屋に電気が点いているのが見えた。窓際に立って、カーテンをめくって外を見る。

 隣家が近いとは言っても窓の下に張り出した一階の屋根がほとんど接する距離に建っているなんてこともなく、未舗装の道を挟んで十メートル前後離れている。僕の部屋は庭側ではなく木も茂っておらず見通しは良い。けれど、二軒の間には秋の夜の深い闇が横たわっていた。その静かな闇は二つの窓の間にある空間的隔たりをも黒く塗りつぶしていて、隣の家の二階の窓は、遠いというよりも、ただ小さく見えた。


 真っ暗がりに四角くく切り取られた蛍光灯の光が明々と浮かんでいる。ほのかにピンクがかった白いカーテンで閉ざされていて室内までは見えない。それでも僕は、そのガラスの内側のプリーツが入った優しく波打つカーテンの色合いに、やっぱり女の子の部屋だよなと思う。


 恵ちゃんもテスト勉強をしているのだろうか。そういや恵ちゃん数学得意だったよな、理系クラスだもんな。進学とかどうするんだろう。もうどこ行きたいとか決めてるのかな。全然知らないや。そういう話したことないもんな。というか最後にまともに話たのはいつだっけ。学校じゃ顔合わす機会もないし長いこと家にも行ってないし。気軽に遊びに行けたのなんて小学校のときだけだった。中学上がって学校ではいつのまにか苗字で呼び合うようになった。それでもお遣いなんかで家に来ると、名前で呼び合って昔みたいにしゃべれて、そうして顔を合わすときだけはあのころのままでいられた。けれどそれでも少しずつ距離が開いていって……。いや、そうじゃなくて、彼女のほうは相変わらずのままで、僕だけが勝手に以前みたいに話せないと感じていて、その彼女の変わらなさが、うれしいような、さみしいような。


 疲れた頭でなんとはなしにそんなことを考えていたら、いつの間にか下腹部に血が集まっていた。疲労のせいで、ただの生理現象だとは思うのだけれど、下着を押し上げるその感触に自己嫌悪を覚えてしまう。なぜこうも肉体というヤツはままならないのだろう。一過性の反応ではなく抜かなければ鎮まりそうになかった。


 カーテンを閉じてベッドの上に行って、マットの上であぐらをかく。スマートフォンにプラグを差しこんでいざというときのために片耳だけイヤホンをし、Wi-Fiに繋いでアダルト動画サイトに接続する。適当に動画を物色して、いざと右手をチャックにかけようとしたところで、そういえばドアの鍵閉めてたっけと気になり、思わず背筋が伸びる。大丈夫だ。しっかり閉まっているのを確認し、僕は作業に没頭する。

 右手を動かし、息を荒くして、たしかに気持ちは高ぶり、うちで猛るこの熱を吐き出してしたいと身体は欲しているのでけれど、頭はどこか醒めている。右手の上下運動はほとんど機械的に淡々と動かし、やがて終わりが見えてくる。


 スマートフォンをマットレスの上に置き、左手でティッシュをつかみ、来たるべきときに備える。右手を加速させ、下腹部に力をこめ、白い欲望をティッシュはき出すその一瞬、僕はつかの間息を止める。絞り出すように数ストローク手を動かし、ゆっくりと息をつく。


 左手の手のひらに、柔らかいティッシュごしに、伝わるほのかなぬくもり、鼻をつくにおい、白濁したゲル状の濃い精液は、庭先から塀をまたいではりだした枝に生ったあの柿を思い起こさせた。どろどろに溶けた果実、新たな命へと繋がれるはずだった種はしかし次の生へと至ることはなく、熟れた柿はコンクリートの上に落ちる。


 あの柿と同じだ。ただむなしく捨てられる命。

 僕は、新しいティッシュで先っちょ拭いてそれを、命の白い残滓が溜まったティッシュにかぶせ、そのまま丸めてゴミ箱に放りこんだ。  

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