ボトルネック
坂は堤防下の集落を突っ切る道へとわずかにカーブを描きながらのびていて、ペダルを回さなくても自転車が自然と加速してく。乾いた空気を身体が押しのけて進むような感覚がある。尖った風にかき分けられて前髪が後ろに流れ額が露出すると、元から夕方の肌寒さに晒されていたはずの頬もいっそう冷たくなって皮膚が突っ張った。シャツは胸にぴたりとはりついて、襟元から冷気が忍びこんでくることはない。顔と首回りだけが寒い。
下り坂の終わりかけの勾配がゆるくなるところで、スピードを適度に殺すために握っていたブレーキから指を離す。ブレーキシューのゴムがホイールに擦れるシュルシュルという音が消え、ずっと耳元で風が鳴っていたのだと気づく。空気の流れが生んだ音というよりも、顔の横を通り過ぎていく風が耳朶をくすぐる冷たい感触が音となって響いているようだった。
両脇に一軒家が並ぶ平坦な道に出ても不思議と周囲からは音が聞こえない。ブロック塀や生垣、前栽の奥に見える窓はまだどの家も電気を点しておらず人の気配がない。小さな集落を貫く道を歩いている人もいなければ車や他の自転車ともすれ違わない。虫の鳴き声さえ聞こえない静寂のなか、リュックの肩紐の余りがはためく音や、前かごでスパイクの靴袋が転がる音、目の粗いアスファルトの上を滑るタイヤの回転音、小石がはじかれる音と僕の近くでばかり物音がしていた。
ペダルに足をかけた同じ姿勢のまま集落を抜けきり両脇が田んぼになる。まわりに何もない、枯れた土色の風景だった。稲刈りが終わってすぐのころはまだ青さを残していた稲株も、一月くらい経って乾燥した色合いになっていた。ひこばえはまだほんの少ししか生えて来ていない。わずかに芽吹いた緑よりも株立った稲に埋もれて、等間隔に並んだ稲株は枯草色の絨毯のようだった。
ワラが散らばった地面は湿り気がなく、その上をひょこひょこと跳ね回るカラスの真っ黒な姿がとあった。地面に零れた籾か、あるいは土中のミミズか、お辞儀をするような仕草で何かをついばみ少し移動という動作を繰り返している。縄張り意識というわけでもないだろうけど、
暗色の田園風景のなかを、農道はまっすぐにのびている。視界を遮るものはなく、ひたすらまっすぐ前へと続いていてはいたけれど、山の影が落ちて薄暗くなった道は解放感といったものとは無縁だった。遠近法で細って行って地平へと消えるよりも手前の麓のところで濃密な闇に飲みこまれていた。先行きは不透明だった。山のたもとへと至りそのまま山道へと繋がっていくはずのものが、深い暗さによって断ち切られ闇色に塗りつぶされていた。すそ野にはいくつかの集落がちらばっていてなかにはもう明かりを点している家もあった。けれど、重くのしかかる連山の影のなかにあっては、遠くおぼろな光はあまりに頼りない。かすかな光点の滲みでしかなかった。はるかな前方にあるというのに山々の黒いシルエットは奇妙な圧迫感を与えた。
上半身を少し折って前のめりの姿勢になって、いつの間にか明るさを感知して自転車のライトが自動点灯していたのを知る。
古びた路面を見つめながら勢いをつけてペダルを回す。坂を下ってついた速度はまだ死んでいなくて、踏みこんだ脚に伝わる重みはそれほどなく、たいした反発もなくペダルは回転速度を上げていく。ペダルからクランク、クランクからチェーン、そしてチェーンからギアへと力が伝わってタイヤは回転し、脚の動きに比例してスピードはあがる。
手ごたえが完全になくなる前に右手をひねってシフトグリップを回すと小気味よい音をたててギアが切り替わり自転車はさらに加速した。けれど、もともとトップ寄りのギアを用いていたので二段上げただけで上限に達してしまった。
そうなると加速すればするほどにペダルは軽くなっていく。ついには、筋肉の収縮による運動エネルギーが注がれるぱずだったペダルから抵抗が失われる。両脚で漕ぐ力は推進力に変換されることなく、から回った。自転車はトップスピードを保ったままその余力で滑るように走っていた。何本もの電柱を後ろへ追いやり、風を切り農道を駆る。けれど、その疾走に運動の爽快さはない。回せども回せども、脚は確かな重みを捉えることができない。
心臓はさらなる負荷に備えて、脚へ血液を送ろうと強く脈打っていた。多くの酸素を肺に取りこもうと呼吸が速くなっている。運動量が増えても対応できるようにと万全の準備はなされていた。力が発揮されるのを全身が待ちわびていた。身体が運動を求めていた。だというのに、ただペダルはから回るばかり。体内にくすぶったこの熱は行き場をなくし、カラカラという寂しげな音を響き渡らせる。
陸上では、短距離走ではこんなふうにはならなかった。足を踏み出せばそれ相応の手ごたえがあった。スパイクのピンがグラウンドの土に刺さり地面を踏みしめる感触があった。反作用によって身体が前方へ送り出されるのを実感できた。素早く脚を動かし一歩一歩と走って行くうちにふとももに疲労が蓄積していくのが明確にわかった。重くなった脚を大きく腕をふることで引上げてラストスパートをかけてゴールを目指すのは、最後の力を振り絞り走り抜けるという感じがした。息を荒くし、残された力をもうダメだと言いたくなるまで絞り切るのは、まさに全身全霊という言葉がふさわしい。あれこそが、あの感覚こそが走るということだし、運動なのだ。
自転車とはなんと不毛な道具なのだろう。自分の脚で走るよりも速度はうんと出るし移動時間の短縮にはなるけれど、身体を動かす気持ちのよさを奪ってしまっているではないか。わずかな間にすべての力を注ぎこみ、そして消耗しきるというその緊張と緩和からは遠い。スピードを目的としてペダルを回せば、その回転数に応じて抵抗は下がる。トップスピードをあげるためには新たにギアを増設するしかなく、それにしたところで物理的な限界がありシティサイクルは瞬間最大速度をあげるようにはできていない。
瞬発力を発揮するためのものではなくある程度のスピードを保って走行するための乗り物なのだ。込める力をコントロールして、ギアを調節しペースを管理して一定の負荷をかけつづけるというのは、長距離走に近い。一瞬で燃やし尽くしてしまう短距離とは質がまるで異なる。短距離に運動の楽しみを見出している僕に合わないのは当然なのかもしれない。
ペダルにつま先をかけたま、脚を回すことなくとも、徐々に遅くなりながらも自転車はつるつると滑っていく。
人生は長距離走なのかもしれないとぼんやりと思う。
たとえば、受験だ。予習復習と地道に勉強して一回一回のテストの先に受験があるとした場合、これまで積み上げてきたものによって受験する大学の選択肢が絞られる。けれど、そこで止まってしまう。努力の成果は点数や偏差値として具体的に出るものの、それだけでしかなく学部や学科を選べるようになるわけではない。やりたいこと、最終的な目標がなければ志望校は決められない。
対して夢や将来就きたい職業があって、通いたい大学が最初からあれば、そこを目標として勉強することになり、中間や期末、模擬テストは一つの通過点になる。テストは長距離走におけるトラック一周に当たりその結果はラップタイムだ。ラップタイムいかんによってペース配分を調整するように、点数によって勉強量や計画を変えて最終的なゴールを目指す。
そうやって長期的に目標を見据えていくのが人生というものなのかもしれない。実際しばしば人生はマラソンにたとえられたりするではないか。
僕にとって陸上は生活の芯だったけれどそれは夢にできるようなものではなく、前回よりも良いタイムというのが象徴するように小さな目標とそれの更新、短期的な目標によって回っているものだ。短距離の積み重ねだった。だから、進路と言われても具体的にどうしたらいいのかわからなくなってしまう。
安定した生活を継続させること自体を目的にする方法もあるにはある。けれど、それを行うためにはある程度の地位を築き土台を固めていなければならない。家族を養えるのも、趣味に打ちこめるのも、サラリーマンとしての身分と収入があるからこそだ。自らの手で得た賃金によって暮らしていけてはじめて、その状態を維持することを目標とできる。
勉強して、部活をしてと学生としての日々を、その生活を単純に享受していられたのは親や教師という大人たちの庇護があったからだ。高校生という立場によって、部活を中心とした僕の生活は守られてきたが、卒業すればそのぬるま湯じみた安寧も取り上げられてしまう。否応なく環境は変化する。
受験をして大学へ行き、就職して家族を持ち、というのを普通の人生として思い描いていたし、僕も御多分に漏れず今後そういうふうにして歳を取っていくのかもしれない。
けれど、その節目節目では僕は選択を迫られることになる。どこの大学のどこの学部に行きどんな職業につき誰と結婚しどこで暮らすのか。自分の身の振り方は自分で決めなければならず、だからこそどうしていきたいのか、最終的にどうなりたいのかという長期的なビジョンを求められる。それこそが僕に欠けているものだった。
そんなことを考えてゆるゆるとペダルを回していた。秋の日は釣瓶落としとはよく言ったもので、太陽はもう山のへりからわずかに顔を出しているだけで、空の高いところは煮詰まったような深い色味になっていた。連峰のせいで日が暮れるのが早く、影の領域は夜の暗さに浸されはじめていた。
道を折れて自宅のある
隣家のまえまで来たところで自転車を降りてブロック塀に挟まれた小道に入る。一軒家に挟まれたコンクリート敷きの道とも言えない道は、風が抜けず湿気た空気がこもっていて乾いた空気とはまた違った肌寒さがあった。夕焼けの長い波長の光も家の明かりも遮られていて薄暗く、視線を落として自転車を押していたら、頭になにかがぶつかった。
柿だった。我が家の敷地、塀の内側の庭に植わった柿木の枝がブロック塀をまたいで突き出していた。幹から生えた太い枝自身は斜め上方にのびているのだけれど、そこから枝分かれした枝先が柿の実の重みでアーチ状にしなって道にはみ出している。肩丈の塀の上を通った枝は先がちょうど目の高さにあった。
実は十分に栄養がいきわっているようで丸みを帯びて膨らんでいた。福々しく張った皮はつるりとした光沢があった。まだその底にかすかに緑を残した黄色っぽい色合いだけど、このぶんなら月末には熟した甘い果実を食べられそうだ。
逆光のなか柿木を見上げるとたくさんの実がついているのが分かった。葉が散っておらず木の全体像としてはこんもりと青葉の茂る樹冠のそれではあった。けれど、葉には夏の盛りのようなみずみずしさはなく、ふちのほうは乾燥して輪郭を波打たせて丸まりはじめているから葉むらに隙間があった。そこから丸々とした実が顔を出している。
枯れた葉が風に吹かれて散り、枝と実だけになった柿木を僕は想像する。夕焼けを煮詰めたような濃い橙に色づいた実は、甘い果汁をたぶんに含んでいて、熟れた果肉はほとんどゲルのような柔らかさになる。木守ともなれば、その表皮に守られた内側で果肉と果汁は混ざり合い溶けださんばかりになる。
小学生くらいのころに耳にした話を思い出す。誰が語っていたのかは思い出せないがおおかた姉あたりが本で得た知識を披露したのだろう。
蝶は芋虫から蛹、そして成虫へと変態するけれど、その身体の構造の変化は蛹の硬い殻のなかで一度体組織をどろどろに溶けさせることで行われるのだとか。幼虫としての身体を捨て去り、蝶として生まれ変わる。その過程において肉体は崩れ、そしてその溶解こそが成長を促すのだ。そうやって成虫としての次なる新たな生へとつなげられる。
僕は視線を戻して、ふたたび目の前の枝先についた実を見る。やがてこの柿も熟れて行き、いずれは皮をつつけば破裂してしまいそうなほどに爛熟することになる。けれど、その成長がさらなる先の新しい命へとつづくことはない。実が落ちるのは冷たいコンクリートの上。種子が芽吹くことなく、硬い地面の上で干からびて行くだけだ。
暗い気持ちになって自転車を引きずり家の裏手の軒下に駐輪して、勝手口をくぐる。キッチンで晩御飯を作っている母の背中に「ただいま」と一声かけたけど、換気扇の音か揚げ物の音がうるさくて聞こえなかったのか返事はない。再度声をかける気にはならず、そのまま二階の自室へ行く。
荷物を下したところでスパイクまで持って上がって来てしまったと思い至ったが面倒だったのでそのまま鞄と一緒に学習机の横に置いておく。テスト期間中は履くこともないのだから休みの日の朝にでも洗って干しておけばいい。
スマートフォンを取り出して時間を確認するとまだ夕飯まで時間がありそうだった。どうせ食べるのは父が帰宅する七時前後になるだろうからそれまで勉強をすることにした。
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