チョーキング
中間テスト一週間前。完全下校時刻は四過ぎに早まり、授業の終了後に当番掃除をして荷物をまとめたら、もう時間に余裕などない。まともに部活なんかできやしない。無理をして自主練をしようものなら、見回りに来た教師に注意されることになる。やってみたことはないのでわからないが、帰宅を促されてもなおグラウンドに留まりつづければ、注意では済まなくなるのではないだろうか。部として連帯責任でなんらかの罰を与えられるなんてこともあり得る。
放課後、スパイクを持って帰って洗うために僕はグランド脇にある部室棟へと向かった。部室棟とは言うもののコンクリートの個室を横に連ねただけの丈夫なプレハブというような簡素な造りだ。そしてなによりも古い。大きなヒビこそ入っていないけれど風雨にさらされた壁はあちこちに黒ずみが浮いていた。そのぼろっちい壁を回りこみ建物の表に出て、棟の中程にある陸上部のドアの前に立つ。
教室のある第一校舎からは距離があり、放課後の喧騒から離れ広いグラウンドの端にぽつねんと建つ部室棟はどこかひっそりとして感じられた。近くにある自転車置き場から、これから帰るのだろう生徒のやりとりや自転車の鍵を開ける音が聞こえていたが、部室棟を挟んでいるせいかくぐもっていて遠いざわめきに包まれながらも静かだった。
部室内では男子生徒が数人で談笑しているらしかった。けれど、僕がドアを開くとその声がぴたりと止む。部室には、夏服の制服姿の一年生が三人いた。両サイドの壁を塞ぐアルミロッカーの前にはそれぞれ靴脱ぎのみざらが打ちっぱなしの床に敷いてあって、その左に一人、右に二人座っている。
「お疲れさまです」
入室してきたのが僕だと確認し三人は示し合わせたようタイミングをぴったりと揃えて挨拶をした。ハードルやスタブロ、砲丸、円盤、ライカン、ストップウォッチなんかの備品は倉庫のほうにあるので、陸上部の部室はほとんど着替えるためだけの場所で部屋のなかはすっきりしている。元気のよいユニゾンの声はこだまするかのように室内に響いた。部活がないので脱ぎ散らかした制服が転がっているようなことはないけれど、それでも空気がこもっているのか少し汗臭いようなにおいがしていた。もしかすると、運動部特有のこのにおいはもう壁に染みついてしまっているのかもしれない。
会釈だけして挨拶に答えるとすると、三人は顔を戻してふたたび向き合う。彼らは目配せじみた視線を交わしてそのまましばらく黙っていたけれど、僕がロッカーへ手を伸ばすと、さっきよりも少し声量を落として会話を再開させた。土足のままみざらを踏まないようロッカーに片手をついて、スパイクと布製の靴袋を取る。スパイクにはグラウンド用のピンが装着したままになっていたので、ゴム製のカバーをはめてから袋に仕舞う。
部室を出るとき無言で去るのものおかしい気がして「お前らも早く帰れよ」と声をかける。「はい」と返す三人の声は威勢こそよかったが、僕はその声のトーンに、ただ答えているだけというおざなりさを嗅ぎ取ってしまう。
先輩後輩というのにいまだにどうにも慣れない。中学のころは体育会系とは言っても上下関係などあってないような緩さだった。学年の分け隔てなく和気藹々と接していて敬語とかほとんど意識をしたこともなかった。けれど、高校に上がってからは同じ陸上部でも雰囲気が少し変わった。顔見知りの先輩も何人かいたけれど、部内の空気が硬めで中学のころのようにはいかなくなった。
先輩の言うことは絶対というほど厳格な雰囲気はなかたけれど上級生に対しては敬語で話さなければならず、形として先輩後輩という関係が存在している。形式としてあるから隔たりを覚えてしまう。
まだ自分が一年のころは良かった。二年生にも三年生も同じ先輩として一律に敬語で接していればそれで事足りた。慇懃な言葉はどこか他人行儀なにおいがして完全に打ち解けて仲睦まじくとはいかなかったけれど、それでも目上の者に敬意を払い下級生としての立場をわきまえていれば問題がなかった。
それがいまでは自分が上級生だ。二年になった当初、上からは後輩として下からは先輩として扱われた半端な立ち位置にも馴染めずにいて、その立場に適応できないまま三年生が引退してしまった。上級生としての立ち振る舞いを求められても、一年のころただ形式をなぞっていただけの僕には難しい。後輩から敬語で話しかけられてもむずがゆさしかなく、どう接したらいいのかわからなくなってしまう。
他の同級生はもっと上手くやっているように思う。三年生が二年生の面倒を見て二年生が一年生の面倒をと綿々と受け継がれていく流れに綺麗に乗って、普通に先輩として行動している。弛んでいたら叱責を飛ばしたりもするが極度に恐れられるようなこともなく、同級生と変わらない軽さで冗談を言い合ったりもしている。先輩としての威厳を示す一方で上下の垣根をとっぱらって接することをしても、距離感を見誤ることなく適切に対処していた。そこになんのわだかまりもないように僕には見受けられた。
部室棟の裏手から自転車置き場へと向かう途中、ふと中学時代のことを思い出す。たしか一年の二学期の終わりごろの時期だったと記憶しているが、ひとつ上の学年に他県から男子がひとり転校してきた。教室で転校生を紹介した担任の言葉は家庭の事情といった説明しているのかしていないのかよくわからないものだったらしいけど、田舎の公立校では転校自体が珍しく、そこかしこで、離婚だか両親を亡くしただかで親戚筋に引き取られることになったなどと真偽不明の内容がまことしやかに囁かれていた。本当の経緯がどんなものだったかは不明のまま噂だけがひとり歩きしていた。
彼は前の学校で陸上をやっていたようで転校後すぐに陸上部に入部した。部内でも彼の噂は流れていたし単純な興味もあって、みんながこぞって声をかけた。ドラマや漫画であるような一斉にひとりを取り囲んでという感じではなく、誰もが話せる機会をうかがっていてアップや基礎練の合間合間や休憩中なんかにちょこちょこ会話するという調子だった。けれど、彼にはどこかこちらを拒んでいるような雰囲気があった。質問には答えるものの一言発して黙りこんでしまいそれ以上話が広がらず、事情もあるだろうからしばらくはそっとしておこうといった暗黙の了解が部内にできあがった。
そして、それっきりだった。一緒に部活をしていて接点はあったが打ち解けるようなこともなく彼は黙々と練習をこなしていた。クラスメイトの話によれば教室でもそんな様子で、ただ授業を受けに学校に来ているだけといった感じだったらしい。以前の学校ではどうだったのかは知らないけど、学校へ行って授業を受けて部活をして帰るというルーティンをなぞるだけの生活は修行僧めいていて全然学生らしい華やかさがない。それでも彼は毎日に部活に顔を出しそしてついぞ誰とも親しくしないまま卒業していった。
練習中に彼の姿を眺めながらどんな気持ちで部活をやっているのだろうかと何度も疑問に思ったものだけど、もしかしたら後輩から見た僕も同じようなものなのではないだろうか。後輩との距離感がわからない僕は、自分から接点を持とうとせずほとんど避けるような恰好になっている。彼らからしてみればあまり言葉も交わさない僕の人となりなど知りようがない。僕は何を考えているのかもわからない淡々と部活をしているだけの先輩だ。これで県大会で結果を残せるような選手であればストイックに鍛錬に打ちこんでいると尊敬のまなざしを向けられるかもしれないけど僕はそうではない。なんのために熱心に練習しているのかとバカにされていてもおかしくはない。
自転車の前かごに靴袋を放りこみため息を吐く。
隣の自転車にぶつけないよう注意しながらバックで屋根つきの駐輪スペースから車体を出し、左手にハンドル右手にサドルを持って通学自転車を浮かせて方向転換する。それからフレームを跨いでペダルに足をかけ、考えを追い払うように強くペダルを踏みこむ。片足に体重を乗せた状態からサドルに座り、安定しないハンドルを両手で支え重いペダルを回すと自転車はじょじょにスピードに乗っていく。
正門を抜けて消防署や中学校が並んだ比較的大きな通りを渡り住宅地へと入って行く。夕方になって風が出てきていた。日中は気温が上がり汗ばむほどの陽気になるので衣替えの移行期間に入っていたが夏服で学校に来ていて校内で冬服を目にするのは珍しかったけれど、朝夕は少し肌寒いくらいに冷えこむ。一日のなかに夏と冬が両方あってそれら循環しているようだと思った。日が傾き昼から夜へと移り変わろうかというこの時間帯は、一方に振り切れてしまえばいいのに、どちらの要素も兼ね備えたまま微妙なバランスを保って夏と冬が同居している。
露出した肌を撫でる空気は冴えていて、頬の毛穴一つ一つが引き締められ皮膚が張るような感覚があった。グリップを握った手は、てのひらこそ温かいけれど、白くなった甲のなか皮膚のうすい関節部分が痛々しく赤らむどに乾燥しきっていた。シャツの胸元から吹き込む風が冷たい。けれど沈みはじめてひときわ強さを増した西日は目に痛いほどにまばゆく、交差点で足をついて一旦停車するほんの短い時間で肌寒さを追い払ってしまう。瓦屋根の切れ間からのぞく空は屋根に接する空のふちがわずかに白んでいるくらいで、天頂に向かってより深く濃くなっていく夏の空だ。
着実に秋は深まっていたのだろうが、部活中にそれを意識したことはなかった。帰宅時の暗さに、日没の時間が早まってきたなと思う程度で、放課後に考えることといえば、タイムやフォームのことばかりだ。ウォーミングアップのジョグを始めた途端に僕の頭はランナーのものに切り替わる。トラックを流し、準備運動をして体が温まれば、それに伴いテンションもあがる。走りこみで全身にじんわりとたまる疲労や、次第にテンポを速める鼓動、熱を帯びる湿った息、首筋を伝う汗。それらは運動の快感をもたらした。グランドの硬い土をスパイクで捉え、前へ前へと。一週間前よりも、昨日よりも、前回よりも、速く、ただ一点を見つめて走る僕にとって、他のことはみんな些細な問題となった。課題も、恋愛の悩みも、家族関係も等しく無意味なことへとなり下がった。全てを忘れられた。なにもかも置き去りにして走っていられた。
けれどいまは違う。
なんて中途半端なんだろうか。うろこ雲の浮かぶ空を仰ぎ、この夏にも冬にも染まり切れない空気を肌に感じながら僕はそう思った。大人にも子供にもなり切れず、先輩としても後輩としても上手く振舞えず、自分の身の置き場にただただ戸惑い、これから先の将来のことも想像できない。進学するだろうと進路希望調査で適当な大学名を希望校として書いてみたけれど、やりたいことがあってその大学のその学部をあげたわけではない。自分が何をやりたいのか、どうなりたいのかがわからない。満足に結果も残せていないのだから陸上選手なんて夢にもできない。陸上なんてなんの役にも立ちはしない。
何者にもなれずどこへも行けない僕は宙ぶらりんのまま中空に放り出されたようなものだ。それは今にはじまったことではない。ずっと僕は自分の身の振り方もわからず、自分を規定できず半端な状態だった。ずっとそこから目を反らしていただけに過ぎない。
その事実に僕は気づいてしまった。人生がのろくなったから。
一度、顧問の先生に呼び出され競技場で撮影された記録会の動画を見たことがある。フォームのチェックだろうと理解はしていても初見では違和感に気づけなかった。けれど、スローにした途端、なぜいままで認識できなかったのかと疑問になるほど一目瞭然となってその異変が目に止まった。足に変な癖がついてた。過去にした怪我をかばうようにして走るうちにおかしな癖が身体に染みついてしまっていた。普通の速度で再生していれば見逃してしまう違和感も流れがゆっくりになれば、スルーすることの不可能なものとなる。
それと同じことだ。めまぐるしく移ろう状況では琴線に触れることもない小な影であっても、時間が引き伸ばされたら濃密な闇となり迫ってくる。
僕は部活のないゆったりとした流れの時間のなかで周囲を眺め、そして自分のなんとも中途半端な状況に気づいてしまった。
自転車は住宅地を越えていつの間にか河川敷に出ていた。
道は堤防の切り立った斜面へに直行するように伸びている。壁面はコンクリートブロックで舗装され、そこに横づけるような形で急勾配の坂が設けてある。住宅地からの道と二本の坂が、歪なY字路を作っていた。
自転車を左右にかしがせるようにしながら、上半身を折って少し前かがみになってサドルからお尻を浮かして立ちこぎでスピードを上げる。コンクリート壁の規則正しく並んだ正方形が近づいてくると、風雨にさらされて傷んだ表面のざらつきがはっきりと見えた。上半身をひねるように傾けてハンドルを切り、勢いを殺さないまま坂道へと入る。瓦屋根の連なりが眼下に沈み、次第に速度は落ちペダルが重さを増していく。勢いをつけて右足を踏みこむと、ペダルの回転に左足が押しあげられ今度は左に体重を乗せる、交互に足に力をこめ速度の遅さにハンドルがぶれて少しふらつきながらも、自転車は緩慢に前進を続けた。
てっぺんに近づくにつれ展望が開けていく。
反対側の斜面は土手になっていて、あまり広くない道路のへりまで茂みが押しよせてきていた。青臭いにおいが鼻先につんと香る。みずみずしい葉を複雑に重ね、曲がりくねった蔦をもつれさせ、雑多な草は歯止めなく伸びていた。ゆるやかに滑り落ちる傾斜は緑にあふれ、それらが幾重もの小波を這わせては揺らいでいる。チェーンが噛む音の合間に、葉擦れの静かなそよめきが耳へと届く。対岸も、翳ってはいるものの同じように鬱蒼としていて、土手の底にある川面はわずかにしか見えない。両岸の茂みにのしかかり、その隙間から顔を出した水は流れが悪いのか凪いで淀んでいた。
対岸の土手のむこうに夕焼けがあった。
なだらかな稜線に没しはじめようとした太陽は、赤というよりも白っぽい色で強い光を放っている。空にあいた穴から黄金のインクが溢れだしているかのように、輪郭をかすかに波打たせて光彩をほとばしらせていた。眩しくはない。ひときわ鮮やかにきらめく光輪から、橙色がにじむように広がり山際に低く立ちこめていた。
地平に横たわる山々の連なりは逆光に射抜かれて黒い一枚絵となっていた。杉の深い常緑に点々と散った紅葉は塗りこめられ、ただのっぺりとした影だけがある。遠景にありながら、ぼやけることもなく確かな存在感を放っていた。
堤防の頂上に達し、僕はサドルに腰を下ろした。多少心拍数が上昇していたけれど、せいぜい九十前後といったところでインターバルトレーニングの不完全休息よりも低い。息を整えるまでもなかった。
北の尾根からは巨大なひとかたまりの入道雲がこんもりと頭を出していた。山に近い下のほうはたなびくように左右に広がってかすんでいたが、上部に行くにつれて形状がくっきりとしていく。茜色の日差しを浴びた雲の頭は青紫の陰影を描いていた。
中空を散り散りに漂う綿埃みたいな薄いうろこ雲は、帯となって西南の果てから山をまたぐようにして東へとつづいている。太陽に近い位置では光を透かされて淡く輝いているけれど、それはごく近い場所の直接日を浴びているところだけだ、離れるにつれて色が濃くなって、空の中程ではもう赤く焦げていた。
夕焼けを見ていると無性に叫びたくなった。
肺がからっぽになるまで声を涸らして叫びたいような。
頭がからっぽになるまで笑い転げたいような。
心がからっぽになるまで泣きたいような。
そんなんとも言えない気分になった。
全部壊れてしまえばいいのに。
あらゆる関係を、環境をめちゃくちゃにして全部なかったことにしてしまいたい。親も、姉も、友人も、先生も、先輩も、後輩も、学校も、家も、自室も、全部なくなって欲しかった。崩れて欲しかった。消えてしまえばいいのだ。誰かがいるから、自分を見失う。だったらそんなものはいらない。どこに立っているのかわからないのなら、荒野に放り出されたような感覚を味わうのなら、本当に全てが跡形もなく消えてしまえばいい。何もいらない。
胸が痛かった。締めつけられるようだ。心臓がのたうち、肺が押しつぶされ、胃がよじれ、腸がもつれている。そんなのは錯覚だ。けれど、たしかに僕の内側で得体のしれない何かが暴れ回っていた。
暴力衝動にも似た感情が喉もとまで駆け上ってきて、僕はほとんど叫びそうになった。
堤防の上には道路がまっすぐのびているばかりで周囲に人気はない。僕を見ている人なんて誰もいない。誰も見ていないのだから大声をあげるくらいたいしたことではないではないか。この感情を吐き出し、空にぶつけて楽になってしまえ。
そう思うのに僕にはそれを実行することができなかった。
夕景から逸らした視線を粗いアスファルトに据え、高台をひた走る。グリップをきつく握ると、親指に爪が食いこんだ。頬を引き締め、唇を固く結んで、奥歯を噛みしめていると涙も流れていないのに泣いているような気分になった。
むなしくって、そしてみじめだった。
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