目が、痛い

善田ケイスケ

目が、痛い


 始まりは、目が霞むなあ、という程度だった。


 いつも通り職場へ出勤し、店内の掃除をしていた時のことである。

 ふと、何気なく視線を向けた先がぼやける。確かに最近、以前より視力が落ちたという実感があったが、ここまではっきりと、それも急激に「目が悪くなった」と感じることは、今までになかった。


 昨日よりも確実に、見えなくなっている。


 それでも私は「日によって見えづらいこともあるしな」などと曖昧な理由を挙げ、仕事に戻ることにした——という表現を使ったからには、以降、これが大きな問題になるということである。


 異常だ、と感じたのはその日の夕方だった。


 事務仕事をしようとパソコンに向かっていると、なんだか目の奥が痛い。やはり疲れてるのだな、と思い一度パソコンから離れるも、今度は頭まで痛み始めた。こりゃいかんと休憩時間に事務所で横になっていると、さらに吐き気にまで襲われた。

 顔をしかめるほどの目の痛み。一定のリズムで脳を揺らす頭痛。油断するとこみ上げて来る嘔吐感。

 正気を保つのがやっとだった。なんとかその日の勤務を終え、他の従業員を先に返すと、私はその事務所で約30分ほど、ひとり気を失っていた。意識を取り戻し、これは本当に大変なことかもしれんと思った私は、その足で市内で一番大きな病院の救急外来へと駆け込んだ。


 全ての検査が終わったのは深夜の1時。

 結果は、異常なし。


 内科、眼科、特に眼科ではあらゆる機器での検査を行ったが、目のどこにも異常はないという。

 そんなはずは、と思った。しかし待ち時間の間、ずっと待合室の隅で横になっていたこともあり、症状は確かに和らいでいた。目と頭に鈍い痛みは残っているが、吐き気はもうない。すっきりおさまり、夕食をとっていなかったせいか食欲すらある。

 始まりが目の痛みだっただけにテレビ、パソコン等控えるようにと言われた私は、釈然としないながらも、早く家で休みたいという気持ちに負け、病院をあとにした。帰る道すがら、自分でも思いつく限りの原因は考えたが、どうしてもこれといったものが思い当たらなかった。


 家に帰り、廊下向こうから我が家の愛犬が走り寄ってくると、ようやく緊張がほぐれた。事情だけ伝えていた母も寝ずに待っていてくれたようで、速やかに夕食の準備をしてくれる。じゃれる犬を構いながら、私は夕食を温め直している母に、病院での出来事、そしてその検査結果について話した。原因不明、という結果に、母も顔をしかめる。しかめつつも、まあ最近不規則な生活をしていたからね、と私を咎め、そして、


「この前借りてきた、趣味の悪いDVDのせいだったりして」


 と、笑った。


 趣味の悪いDVD。

 それは2日前にレンタルしてきた「本当にあった」を謳うホラー映像集のことだった。今日までそのシリーズが販売されている、非常に歴史あるものだ。ホラー好きの私は、その映像集が様々な作品に影響を与えていると聞き、シリーズを改めて観てみようと借りてきたのである。

 ホラー好きながらも、そのほとんどが作りモノであることを信じていた私は、母の言葉を「まさか」と笑って聞き流す。2日前に借りてきてはいたが、映像はすでにその日のうちに観終わっていた。もし、もし何か怪異が身に起こるとするならば、観終わった直後、遅くても1日後が「お決まり」ではなかろうか。だとすると、2日後に異常が起きた私は、それらから除外されるはずである。


 これは決して呪いのようなものではない。たまたまタイミングが良かっただけ。そう思いながら夕食を平らげ、風呂に入る。本当に何か取り憑いているのなら、ここで目を瞑って開けた瞬間に——と、おどけてみせるも、鏡に映るのは自分の顔。振り返っても、天井を見上げても、そこには何もいない。その調子で頭を洗い、体を洗い、顔を洗い、湯船に浸かり……と、結局風呂から出るまでこれといったことは起こらなかった。

 まあ、現実はこんなものだろうと思った。タイミングよく幽霊が現れたりするわけがない。気がつけば丑三つ時。自室に向かい、傍で眠りにつく愛犬を横目にベッドの上に横たわる。何気なくスマホを手にとってみるが、やはりまだ光が目にしみるのでやめた。今日くらい何もせず素直に寝るべきだと思い、電気を消し、暗闇の中で目を瞑る。


 と、緊張を解いた、まさにその時だった。


 私のすぐ隣、それまで気持ち良さそうに鼾をかいていた犬が、スっと顔を上げた。耳をまっすぐに立て、ジッとどこか一点を見つめていることが、明かりがない中でかろうじて窺える。

 私はほとんど条件反射のように、犬の視線の先を見る。ちょうど私の足元、自室の扉のあたりを見ているらしい。腹筋の要領で体を起こし、改めて正対する。


 扉の向こうを、誰かが通り過ぎたのだろうか? いや、そんなはずはない。廊下は私の部屋で突き当たりになっている。では扉の前に誰かがいるのか? 母はもう寝ているはずだし、父がこんな遅くに私を訪ねてくるわけがない。

 ……それではいったい何だというのだろうか。気のせい、と結論づけるにしては、犬の緊張は解けないままである。


 すると今度は、ガシャっと大きな音がした。


 私の体が一瞬にしてすくみあがる。何かが、何か軽いものが倒れた音だ。なんだろう、立て付けの悪いものは、部屋の中にはなかった——


 ……部屋の中?


 犬は未だに、同じところを見つめている。私はその時初めて、見つめる先が扉ではないことに気付いた。


 扉の先——そう、その外側ではない。

 だ。内側にがいる。


 そう思い至るやいなや、私は私の足元から視線を逸らすことができなくなった。視線を逸らす——つまり、その何かに怯えるような、恐怖を表に出す行動を取ってはいけないと、本能的に感じたのである。


 何もせず、瞬きすらままならず。


 そうして虚空を見つめ続け、何分経っただろうか。不意に犬が警戒を解き、いつもと変わらぬ様子で横になった。疲れたのか、それとももう安心していいというサインなのだろうか。先ほどまでの凛々しさが嘘のように、寝息まで立てている。

 しかし残念なことに、人間の私はそこまですんなりと切り替えられない。


 今の現象はなんだったのだろうか。

 私の体の不調と、何か関わりがあるのだろうか。


 すっかりと醒めてしまった脳内で、様々な思考が巡っていく。その日ようやく眠りにつけたのは、日が昇り始めてからだった。




 それ以降、就寝中に同じような現象が起こることはなかった。


 ちなみにあの物音は、私のベットの足に立てかけたのであろう複数のハンガーが倒れたものであると判明した。確かに何かのきっかけで倒れそうと言われれば倒れそうなので、偶然と片付けてしまってもおかしくない。それから扉の外の気配も、実は時間的に新聞配達のバイクがやって来る時間だったので、我が愛犬はその気配を感じ取ったのではないか、ということで一応は説明がつく。寝ボケていた、と言っても決して間違いではない。結局は全て、そのような偶然が重なって起きたことだと言えてしまうのだ。関連づけて勝手に恐怖を感じるのは、人間の脳である。


 そしてこれもそんな偶然なのだろうが、例のDVD。現象が起きた翌日見直してみると、ある映像とそれにまつわるストーリーが、不思議と私の心に引っかかった。


 それは例によって、視聴者から投稿された映像であったのだが、その投稿者の身の回りの人たちが、映像を見た後にことごとく不幸に見舞われているらしい。まさに「呪い」の映像。こう言ってはなんだが、呆れるほどありきたりである。


 しかし、その不幸が起こった人たちのインタビュー内容を聞いて、私は思わず苦笑してしまった。


 これは、そのインタビューからの抜粋である。



「……なんかぁ、あたしが良かったのに、急に悪くなってぇ……」

「……あの映像を見た後に、たまたまに火傷を負ってしまいまして……」



 実のところ、私の目も未だに完治していない。

 この話を書き終えたら、もう一度別の病院に行くつもりである。

 

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