自称探偵朝倉さん

豆崎豆太

約3,300文字

 七月半ばの暑い日だった。中村は一件の任意聴取を終え、取調室を出るところだった。中村が開けた扉を先に出た朝倉は、扉を出てすぐに一人の女性とぶつかった。

「っと、失礼。よく前を見ていなかった。大丈夫ですか?」

 朝倉はよろけて尻餅をついた女性に片手を差し出した。女性は少し迷ってから、その手を取る。朝倉はスーツを着ていない。そのうえ、善良そうな顔立ちではない。警察署内にあってはどちらかと言えば犯罪者側の風貌だ。取調室から出て着た朝倉に対し、女性が警戒するのは当たり前と言ってよかった。

「ええ、大丈夫です。こちらこそすみません、ぶつかってしまって」

「手のひらを怪我されているようですが、これは今?」

 朝倉は女性の手を裏返して眺めながら訊いた。それからまたその手を裏返し、まじまじと眺める。

「あ、いいえ、最近部屋の模様替えをしまして、机を移動させた時に。元々あった傷です」

「ならよかった。こんな美人に怪我をさせたとあっては三日は立ち直れません。爪も欠けていないようで何より、折角のネイルが剥げてしまったら残念ですからね」

 朝倉はその見た目に反して、はきはきとよく喋る。骨が浮くほどの痩躯でショートカットの朝倉は、見た目からは男とも女ともつかない。女性は一層困惑を深めた様子で、口先ばかり「お気遣いありがとうございます」と言うなり半ば手を振りほどくようにしてその場を去った。

「朝倉さんの外面の良さ、いつ見ても怖いですね」

 半歩ほど後ろに立っていた中村が、笑い含みにもうんざりとした声を上げた。朝倉は片眉を上げて声の主を見返す。

「人聞きが悪いな」

「悪いのは朝倉さんの人相です」

 中村が混ぜ返すと、朝倉は心なしかむっとした表情を作った。こんな軽口も平気で叩けるほど、中村は朝倉としょっちゅう顔を合わせている。

「今のは?」

「十日ほど前に発生した殺人事件の参考人です」

 朝倉が訊いたことに中村が答えるのは、この自称探偵が今までもいくつかの事件を解決しているからだ。ただその解決の手口は悪質と言ってよく、不法侵入や傷害、窃盗くらいなら顔色も変えない。事件を解決した時には朝倉本人も同時に連行されるのが半ば通例となりつつある。ちなみに今回は傷害だ。ただし、挑発して殴らせたらしいのでひとまず被害者という立場ではある。

「さっきの女性の名前は三上絵里。殺された三上正明の、別居中の妻です」

 事の顛末はこうだ。

 三日前、近所の山林で男の死体が見つかった。死体は死後一週間ほどが経過していて、半ばは腐敗していた。死体の近くには血痕の付着したバールが棄てられており、男の後頭部には傷があった。後の司法解剖で、男は頭を強く殴られたことによって死亡したとわかった。

 死体を発見したのは近所に住む壮年の男性だった。その一週間はちょうど台風が通過していた時で、死体を捨てた人間を見たものはいなかった。雨続きだったこともあって血痕は見つけることができなかったが、男の靴には土も草も付着していなかった。男はこの山中まで歩いてきたのではなく、死んでから運ばれてきたのだろうということになった。

 男の名前は三上正明。周辺一帯では一番大きな土建屋の社長だ。三上絵里とは正明のDVを原因として数年前から別居しており、絵里との間に娘が一人いるものの、認知していない子供は他にもいくらかいるという話だ。

 三上正明はひどく敵を作る男だった。殺害の動機が無い人間の方が少ないように思われるほど、知り合いの誰も彼もが男に対して腹に一物を持っているようだった。法律を熟知しており、法に触れない範囲で横暴の限りを尽くした。中村を始めとする刑事部一課強行犯係の人間が聞き込みをした結果、その三日前までに限定しても十数人とひどい口論をしている。とてもじゃないが、動機の側から犯人を絞り込むのは無理な状態だった。

「被害者は撲殺されていたのか? たとえば、直径二、三センチくらいの棒状のもので」

 朝倉がほとんど唐突にそう言ったので、中村は一瞬うろたえた。それから、慌てて手帳をめくる。

「そうです。死体発見時、死体の近くにはバールが落ちていました。血がべっとりついていて、凶器のように見えました。けれどそれは、死んでからもう一度殴られたのだろうということになりました。致命傷になった傷が、バールと一致しなかったためです。本当の死因はおっしゃる通り、直径二、三センチくらいの棒状のもので繰り返し殴られたことです」

「娘がいると言ったか。何歳だ」

「今年十四だったはずです」

「十四か。――死んだ男の顔か腕、指の付け根なんかに火傷は無かったか? アイロンかフライパンを押し付けたようなやつだ」

「ありました。死体の一箇所ばかり腐敗がひどくて、よく調べたら火傷の跡があったらしいということです。幹部は広範囲で、何で火傷したのかはわかりませんでしたが、お湯のようなものではないらしいです。確かにアイロンやフライパンも候補に上がりました」

「顔か? それとも腕とか指か?」

「顔です」

「ふむ」

「あの、何かわかったんですか」

「立ち話もなんだ、取調室に戻るか」

 それには中村も賛成だった。朝倉の話は長い。レコーダーを回して、メモを取りながら聞きたかった。朝倉は勝手知ったるとばかり取調室に戻り、ほとんど尊大と言っていい態度で座り慣れたパイプ椅子に腰掛けた。

「さっきの女、三上絵里と言ったか、あれの爪が短かったんだ」

「は?」

「爪は綺麗に塗られていた。しかし、図柄を見るにどうも不恰好でな。特に、爪先の縁取りが狭すぎた。切り口だって雑だった。あれはもともと長かった爪に装飾をして、そのあとで切ったんじゃないかと思ったんだ」

「はあ」

 中村はつい、気の抜けた返事をした。朝倉は話を続ける。

「その上、手のひらを怪我していた。人差指と中指の付け根だ。当人は最近部屋の机を移動させたせいだと言っていたが、それにしては傷が深すぎる。あれは物に対して椅子か何かを思いっきり振り下ろした時にできた傷だろう」

「椅子、ですか」

「椅子っていうのは例えばの話だ。女一人で持ち上げて振り下ろせるような大きさの四脚椅子なら、足の太さはだいたい直径二、三センチと見てそう大きくは外さないだろう。まあ、これはあまり重要じゃない。その時に爪の先が欠けた。指一本の爪だけが短くては不自然だから、警察に出頭する前に全ての爪を無理やり切り揃えたんだろうな。ネイルがそのままだったのは、なんとかネイルっていう……忘れた。紫外線を当てて硬化させるやつが流行ってるだろう。あれがたぶん自宅でさっとは落とせなかったんじゃないか。詳しくは知らんが」

「顔の火傷の話は」

「これはほとんど完全に想像だ。三上絵里が三上正明を背後から椅子で殴る瞬間、三上正明の注意は他に向いていなくてはいけない。三上絵里の殺意を掻き立てるような何かにだ。ついでに言うと、男の頭に椅子を振りかぶる時、女の背丈では普通足りない。二人ともが直立していた場合、椅子で殴ったところで死に至らしめるほどの威力は無いはずだ」

 中村はその光景を想像する。三上正明が何かに集中して体を低くしていて、その背後で三上絵里が椅子を振り上げている、その光景。

「……三上由佳、ですか」

 中村の声に、朝倉は「そうだろうな」と大した興味もなさそうに返事をした。

「もしも三上正明が、娘である由佳に襲いかかったのだとしたら。それを背後から絵里が殴って殺したのだとしたら。由佳が抵抗し、正明の顔に傷をつけていたとしたら。――絵里はそれらの全てを隠蔽するために、正明の顔の傷を爪痕だとわからないようにしなくてはならなかった。一番簡単なのは熱したフライパンかアイロンで焼くことだ」

 遺体の運搬も、女手とはいえ二人もいればなんとかなるんじゃないのか。朝倉の口調はあくまで平坦だ。

「火傷の位置について、最初に手や腕を挙げたのはなぜですか」

 中村が訊くと、朝倉は「それは今更どうでもいいんだが」と言って顔を歪めた。

「抵抗した時に噛みつくとしたら手か腕だろう。引っ掻くなら顔だ。腕や背中の火傷を挙げられても鬱陶しかったんで選択肢として出しただけだ」

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