井の中のJC、井戸を出てJKとなる。

井の中のJC、井戸を出てJKとなる。

 私はの中のかわずおだやかな井戸の中で平和にかこわれて育った。同じ井戸には私のような蛙が沢山たくさんいる。だからといって争いが起きるわけでもない。だから自分から争いを仕掛けることもない。みんな、からはじかれるのが怖いだけだ。

 いのすえにぬるくなった水がからだにまとわりついて、皮膚ひふうるおす。冷たい春のこもれ日が差す井戸の中で、ただひとつ思うことがある。それは――――


  *  *  *


「ねえ、なぎさー。トイレ行こー?」

「えぇー。それくらい一人でいけよおぉ……」

「いいじゃんトイレくらい付いて来てくれたって」

「まあ丁度ちょうど行こうと思ってたからいくけどさ。それじゃあ夜中にトイレに行くのが怖くて『ママぁぁぁぁああああああ!!!!』ってぴゃーぴゃー泣いてる子供と大差たいさないっすね。――れいさぁん?」

 そう言って私は、子供扱いされて不服ふふくそうなれいの顔をのぞむ。もうこのやりとりは毎日だ。今更いまさらからかったところでれいは痛くもかゆくもないのだろう。トイレくらい自分のタイミングで行かせてくれと思いながらも、一歩先を歩く麗にセーラー服の少しふくらんだすそをつままれながらトイレに向かう。


 トイレの洗面所には、私達のように何人かで連れ立って来ているのがほとんどだ。ただ付いて来ているだけで、友達を待っているだけのひとも結構いる。

 でもその中に一人、誰としゃべるわけでもなくただ淡々たんたんと列に並び、個室へ向かう人がいた。あの人はトイレでみかけるときも、授業で実験室に行くときも、音楽室に行くときも、更衣室に行くときも、大抵たいてい一人でいる。

 一度だけ同じクラスだったことがあったが、友達がいないわけではないし、むしろ周りからたよられる人望じんぼうあつい人だった。それなのに、ぞくに言う『仲良しグループ』のようないつも行動をともにするような人はだれもいなかったし、彼女自身がそれを望んでいたように見えた。あまり本人と話をしたことはないが、自分の考えをしっかりと持っている人なんだろうと思う。人は人、自分は自分。自分の考えがはっきりしているからこそ、相手を尊重できるというか。こういう、人がまと雰囲気ふんいき特徴とくちょうだとかを具体的な言葉にするのは難しい。しいて言うならば、かつおだしに浮かぶところてんといったところか。つるーっとさっぱりしていて、ふわっといその風が鼻の中でかおる。ただ、ところてん自体はあまり得意な食べ物ではないのだが。

 なんにせよ、彼女のような人はここにはあまりいない。だから、うらやましい。ないものねだりなことぐらいわかっているが、私も彼女のような『自分』がほしい。


 あと一週間とちょっとでここともお別れだ。一ヵ月後には今着ているセーラー服からブレザーになる。白いタイを結ぶのはもうすっかり上手くなったが、ネクタイが結べるようになるか心配だ。一貫校いっかんこうでもないのに十二年間を共にした同級生達とも会うことは少なくなるだろう。いつも私を引き連れたがる友達も、ここ三年ずっと同じクラスだった仲のいいクラスメイトも、勉強のことより馬鹿ばか話ばかりして笑っていた先生も、気の置けないたったひとりの親友も。みんなバラバラだ。

 私と同じブレザーを着て、同じネクタイを結ぶ人はここには誰もいない。周りの環境が変われば、私はなにか変わるだろうか。変わらなかったとしても、せめて今まで見たことも聞いたこともない新しい世界を見ることはできないだろうか。


 ぼんやりと考えながら用を足して個室から出る。洗面所で手を洗いながら鏡越かがみごしにあたりを見渡す。どうやられいはまだ出てきていないようだ。周りの女子達の中から馴染なじみの顔を見つけて他愛たわいもない話をしながられいを待つことにしよう。そう決めて水道の蛇口じゃぐちをぎゅっと閉め、ハンカチで洗った手をぬぐった。


 *  *  *


 私は井の中のかわず。穏やかな井戸の中で平和に囲われて育った。そんな私は今、井戸の内側をよじのぼっている。雪解けの頃の柔らかな風が疲れたからだをなぞる。こけがこびりついた石はふわふわしていてのぼりにくい。たまに石の隙間すきまから伸びるシダの葉は日陰にもなるがやっぱりのぼるには邪魔じゃまで、なんとももどかしい。

 ここまで落ちてはのぼり、落ちてはのぼりをり返すこと半日。高く差していた暖かい日もかたむいてきた。もう少しで井戸の外が見えるところまでのぼってきた。あと少しで外が見えるという期待とちょっとの不安を抱えながら、おさなき頃の思い出におもいをせた。


 まだ私が幼い頃、春にしては少し暖か過ぎる日だった。井戸の中に一匹のはえが迷いこんできた。そしてそのはえは井戸から出たことのない私に、井戸の外の話をしてくれた。


『一度、井戸の外に出てみるといいよ。きっと君も気に入るだろう。ここにはないものが沢山ある。こんな泥臭どろくさい水の中になんている必要はない。もっと綺麗きれいな水なんていくらでもあるから。―――ああそうだ。君は泳げるから、海に行くと楽しいと思うよ。あそこは無限むげんに水があるのにあふれないんだ。すごいだろ?ここから出たら、一度見てみるといいよ。』


 私はその大きな『海』とやらをみてみたかった。やはり、あふれないのだからそこの水は特別なのだろう。井戸の中の水は少しにごっているけれど、きっと特別な水は透明とうめいなのだろう。味だってあまいのかもしれないし、しょっぱいかもしれないし、すっぱいかもしれない。においだってすごくさわやかなんだろう。


 もう狭くて少しの日しか差さない井戸の中なんてこりごりだ。早くここからでて、違う世界を見てみたい。沢山、新しいものを見たい。


 ―――― ねがわくば、大きな『海』を。


 * * *


 桜の開花とともに新しい日常……もとい、人間関係が構築されていく。ちょっとずつ、なんて生易なまやさしいものでもない。それはもう、鬼をも寄せ付けぬいきおいでできあがっていくのだから、人間関係とは良くも悪くも恐ろしいものだ。

 着慣れないブレザーにチェックのスカート。結び慣れないあい色のネクタイ。今までは歩くだけだった通学も電車とバスを使うようになって何倍も時間がかかるようになった。勉強はまださほど難しくないが、これからどうなるかはわからない。

 クラスメイトの名前と顔はまだ全員は覚えていないけれど、近くの席の人たちは覚えた。友達も何人かできた。ただ、この新しい友達を、本当に友達といえるほど仲がいいかとか、いままでの友達に比べてどれくらい仲がいいかとかは考えてもきりがないのでしばらくは考えないでおこうと思う。


なぎさちゃん、次の時間、体育館で学年集会だってー。椅子いす持ってこいってさ。」

「うわー椅子とかめんど」

「まだちょっと時間あるけどもう移動する?」

「あ、私職員室に用事あるから先行ってていいよ」

「いいよぉ、それくらい一緒にいくよー」

 一人の顔が脳裏のうりに浮かんだ。どうやら、私はこの手の性質せいしつを持つ人間からのがれられないようだ。

「いや、ほんと、だいじょぶだから。先行ってて」

「そう?じゃ、じゃあ先に行ってるね!」

 そう言って和歌子わかこはそそくさと教室を出ていった。


 * * *


 数日前から入部した部活の練習始まったせいで、からだは慣れない運動に付いていけずに疲労ひろうまりっぱなしだ。やはり帰宅部塾通いの運動不足もはなはだしい私に、文化部の中でも体育会系と名高い吹奏楽部は無謀むぼうだったか……。

 校舎の外周を十周以上も走ったあしは、すじがぴきぴきしていて自分の脚だというのに言うことをあまり聞いてくれなくて、なんだか気持ちが悪い。だるさと痛さと気持ち悪さに我慢がまんできなくなって、バスの狭い座席の間に脚を投げ出す。薄暗い車内に乗客は私と、緑色のネクタイを締めた男子高校生の二人だけ。薄い月明かりとするどい街灯の光が彼を照らしているが、逆光ぎゃっこうと頭髪検査にひっかからないのかという余計な心配をしてしまうほどに長い髪が邪魔をして、私の座席から顔はうまく見えなかった。


 家の最寄もよりのバス停でバスを降りると、田植えのために水が張られた田んぼの水面に月が浮かんでいた。かえるの鳴き声が重なり合って、少しうるさい。

随分優雅ずいぶん ゆうがに泳いでいるな、こいつ」

 そうつぶやきながら、田んぼをすいすいと泳ぎながら進むかえるながめ、ゆっくりと歩き出す。こんなに沢山の蛙がいるのに、窮屈きゅうくつではないんだろうか。一匹くらいそう思っていたっておかしくないんじゃないか。私だったら窮屈だ、なんて思ってしまった。それは『蛙の本音』として、というよりも『人間の本音』のような気がする。

 窮屈で、からはみ出にくい、周りはみんな十年来の友達だらけで変わるのが怖かった。自分の意見をはっきり言える人がうらやましかった。自分もそうなりたかった。結局、環境が変わっても私はなにも変われない。


 四月が終わる。三月までの同級生達は、どうしているだろう。私がうらやむあの彼女はどうしているだろうか。多分、あんまり変わっていないだろう。というか変わって欲しくない。ところてんから寒天になる位の変化はあるかもしれないが、間違えても、ところてんからくずきりになってしまうほど変わってほしくはない。彼女には、私があこがれるままの彼女でいて欲しい。

 私もあんなふうにえたら、どれだけ楽だろう。


 小さな影が、視界のすみで跳ねた。田んぼで泳いでいた蛙が水路を飛び越えて、アスファルトの上で飛び跳ね、私の足先から少し離れたところで止まった。なにか言いたげにこちらを見ている。

 気が付くと、暗闇の奥から一台の軽トラが現れ、ぎわのヘッドライトが目尻めじりみる。目の裏が白く反転して、思わずまぶたを閉じた。


 




 ―――目を開くと、かえると目が合った気がした。


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井の中のJC、井戸を出てJKとなる。 @kyou_simotuki

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