Forgettable Fire


 久しぶりに乗った電車から見る景色は、相も変わらず、ごくごくありふれた郊外の風景だった。

 お行儀よく並んだ住宅街、錆色に染まりつつある工場、人間味のない巨大な物流倉庫。平野に広がるなんでもない風景を眺めながら、毎朝高校へと通う。それが私にとっての日常だった。

 もちろん、あの頃と変わらないことばかりじゃない。私が使っていた頃はピカピカで、靴屋のにおいだなんてよく言っていたこの電車も、今では年相応の傷跡をそこかしこに隠している。

 私自身だってもうブレザーに縁のある歳じゃない。日々代わり映えのしないビジネスカジュアル。頑張って身につけたナチュラルメイク。地味なベージュのトレンチコート。そこらじゅうに掃いて捨てるほどいる無数の人間のうちのひとり。


 終点まで乗って、電車を降りた。

 駅を出て真っ先に思ったのは、なんだ、こんなもんか、ってこと。

 八千矢やちがやから快速電車でたった三十分しかかからないのに、霜野しものへ来なかった理由はいくつかあるけど、一番大きいのは、単純にわざわざ来るほどの用事がなかったからだ。

 今日私がここへ来たのも、会社の書類の受け渡しがあるからだ。いつもの担当者がインフルエンザで病欠、私はその代役。取引先へ封筒ひとつ渡したらそのまま直帰。しかも今日は金曜日。

 だからゆっくりと街の中を巡って、思い出に浸ろう……なんて、思うはずもない。

 私は、この場所が好きではなかった。

 第一志望の私立に落ちて、滑り止めだった公立で三年間も閉じ込められて、陰鬱な色のブレザーに拘束されて。そんなふうに過ごした場所を、どうして好きになれるというのだろう。

 だから、またこの街へ来ることがあれば、胃がキリキリするほど苦しむか、当時はああ思ってはいたけれど今となってはいい思い出になっているかの、どちらかだと思っていた。

 でも実際は、そのどちらでもなかった。

 思うことといえば、ああここにエスカレータがついたんだとか、駅ナカもきれいになったなとか、その程度のことばかり。

 なんだか拍子抜けだ。


 さて。恨めしいことに、今日の目的地は駅の南側、通っていた高校の更に南側だ。

 駅ビルの階段を降りて、さっさとバスに乗り込む。この時間ならまだギリギリ渋滞には捕まらないだろう。

 私が乗り込むとすぐにバスは出発する。

 ロータリーの交差点を出て、細長い雑居ビルが立ち並ぶ、相変わらずきれいとは言い難い街並みの中をすり抜けていく。あと数時間もすれば飲み会帰りのオッサンどもがたむろする通りも、今はまだ落ち着いている。

 歩道にはちらほらと見慣れたブレザー姿が見える。

 これはさすがに堪える。それでもなんとなく目で追ってしまう。人となりを確かめてしまう。

 そんな彼らの姿も、バスが国道に出てしまえば殆ど見えなくなった。


 仕事はあっけなく終わった。お決まりの挨拶と至極簡単な定形作業を終えて、さっさと事務所をあとにする。向こうも終業間際だ。長居するほうが迷惑になる。

 外は既に暗い。目の前の国道はというと、もう赤いブレーキランプで埋め尽くされている。

 やれやれ、これではバスやタクシーには期待できない。仕方無しに、私は広い歩道を歩き始める。

 数分も歩かないうちに排ガスの匂いが嫌になってくる。

 どうしても耐え難くなって、思わず道をそれてしまう。

 そうすれば、ほら、数分も歩かぬうちに。

 そこに私の母校があることはわかっていた。


 三年間通った校舎は、それこそなんの変わりもなくそこにあった。

 あたりはすっかり真っ暗だけれど、グラウンドにはまだまだ学生の姿がある。威勢のいい掛け声。

 つい図書室のあたりに目がいってしまう。まだ電気はついていた。場所が変わっていなければ、だけれども。

 思わず、寄っていきたいだなんて反射的に考えてしまう。あの場所に私が知っている人間はもう誰もいないのに。

 学校をぐるりと囲む高いフェンス。監獄の檻のように思えたそれは、今見ればただの金網でしかない。


 無意味な課程、理不尽な規則、強権的な教師、海の底みたいな制服。

 生まれついての目立つ姿は、目をつけられやすかったのだろう。

 中学校のときの経験が、私を自由に執着させた。

 おそらく、私が求めていたものは、実質的にこの学校で手に入っていたのだ。

 公立とはいえ、進学校ともなれば、校則なんてあってないようなものだから。

 だけれども。

 そういうことではないのだ。

 あの頃の私には手に入れたいものがあって、そして私の指がそれに触れることはなかった。

 それだけが結果のすべてで。それだけが私を責め続けた。

 私はここで何をやっているんだろう。通い始めてからの数カ月間、ずっとそう思っていた。

 それを変えたのは、たったひとりとの出会いだった。


 先輩。

 遠い大学へと進学してしまった先輩。

 枯れ葉舞う通学路。試験勉強をしたドーナツショップ。先輩がかじりついて離れなかった本屋。ただ眺めるだけで何時間も過ごしたファッションビル。遅くなった帰り道で寄ったハンバーガー屋。

 この街のいい思い出ときたら、その全部が彼女と結びついている。

 先輩。

 最後に会ったのは彼女の卒業式、だっただろうか。

 今はどうしているのだろう。目指していた彼女自身になれたのだろうか。


 私は、たぶんなれなかった。

 そもそもの動機として、頭のいい学校へ行きたいと思ってたわけでもないから、入学してからの成績は泣かず飛ばずのまま。

 何に熱中するでもなく、半ば機械的に図書室の本で時間を潰す。

 大学も家の近くで行けるところを選んだだけ。

 就職も、無理のない範囲で、無難に。

 そこには自由も何もない。

 自分の望みなんて、これっぽっちも含まれていない。

 ただ、楽な方へと流されていっただけだ。

 私は、ここで何をやっているんだろう。

 私は、何かを目指していたのだろうか。


 校庭の横なんて、もうとっくに通り過ぎていた。

 鼻を鳴らして、視界がにじみそうになるのをこらえる。

 学校から駅までの最短ルートを、この足は覚えている。目をつぶってたって歩ける。

 でも、ここに先輩はいない。声も聞けない。手紙を出す宛もない。

 私はひとりぼっちで、輝かしいものなんてなにもなくて。

 もし先輩にもう一度会えたとして、いったい何を話せると言うのだろう。何をしてきたと誇りを持って言えるのだろう。


 私の足だけが止まらず、駅へと続く道を急ぐ。

 ああ。

 やっぱり、こんな街になんて来るんじゃなかった。

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