これは、ちょっとした気まぐれ

 忘れ物をしたというだけで土曜日に高校へ出て来るのはちょっとした憂鬱だ。朝晩を中心にどんどん冷えるようになったこの季節ならなおさらだ。徒歩数分の距離ならまだしも、列車を乗り継ぎ、バスに乗り換え、坂を登るという毎朝繰り返す慣れっこのはずのルーチンも、たかだか三分間のために休日の時間を割いてまでやりたいとは思わない。

 だからそんなつまらないことはさっさと済ませて、暖かな家の中へ早く戻ろうと思っていた。あるいはショッピングモールか街へ寄ってもいいかもしれない。そろそろ厚めの衣類をそろえてもいい頃だ。帰りのバスの中で、私はそんなことを思っていた。

 でも、そういうときに限って、右折待ちが長くて、乗れるはずだった列車を一本逃してしまう。

 そして、こんなときに、あと五分も待てばホームに入ってくる正解を待たず、あと二分で発車する反対方向の列車に乗り込んでしまうのが私なのだ。


 普段乗り慣れている電車とは違って、ここから北へ向かう列車はぜんぶディーゼルカーだ。平日朝晩のラッシュ以外はだいたい一両だし、本数も少ない。一時間に一本くらい。昔は貨物列車が走っていた、だから短い列車ばっかりなのにプラットフォームが長いんだ、って話を郷土史か何かで習ったおぼろげな記憶がある。

 ガラ空きのボックスシートに座る。デイパックを隣の席に置いたらすぐピンポンというチャイムが鳴ってドアが閉まる。ガラガラというエンジンの音が高まって、一両だけの列車が走り出す。

 ディーゼルカーは自動車みたいにギヤが変わるのが面白い。エンジンがうなりをあげて全力を出してるって感じも好きだ。


 誰かいるかと思い立ち寄った文芸部室にある共有棚——という名の古本回収ボックス——から拾った文庫本をバッグから取り出す。薄い割に読むのに時間がかかりそうな、意味を取るのが難しい、持って回った言い回しの小説で、こういうときにはたぶんちょうどいい。

 列車は川沿いに谷の底を進んでいく。いくつかの駅を通り過ぎる。その度にエンジンがうなり、断続的な加速を感じる。

 私は淡々とページをめくる。思った通りにそのペースは遅い。

 かつては舟運で栄えたらしい(と教わった)このあたりも、やがて鉄道に取って代わられ、最後にはラジオの交通情報で名前を聞くだけの町だ。私が知っているのはその最後だけなのだけど。


 読んでいる本に一区切りがついたところで顔を上げ、腕時計を確かめる。気づけばもう三十分以上もこの列車に乗り続けていた。

 目的地があるわけじゃないけど、あまり遠くまで行きすぎるのもよくない。泊まりの旅行をしているわけではないのだ。帰れなくなったりしても困る。

 そんな時、ちょうど列車が減速をし始めた。自動再生の案内音声が流れる。よし、次の駅で降りよう。

 列車が停車してから立ち上がり、ドアへと向かう。運転席から出てきた運転士さんに整理券を持っていないことと乗車した駅名を告げる。表示されている通りの小銭がザラザラと運賃箱の中へと消えていく。あれ、よく考えたら帰りにも同じ金額かかるんじゃない? 文庫本一冊分かあ。ちょっと調子に乗りすぎた。

 そんな後悔もそこそこに、私はホームへと降り立つ。乗り降りする客は私一人だけで、ディーゼルカーは早々に黒煙を吐きながら立ち去っていった。


 改めて周囲を見回す。道路やいくつかの民家はあるけど、商店のたぐいは一切見えない。四方を山に囲まれた水田地帯。どこを見ても山だ。

 駅にあるのは短いプラットフォーム一つと、プレハブ小屋みたいなささやかな待合室だけ。待合室には色褪せはがれかけたポスターが何枚か。

 唯一額に納められ、印刷もまだ鮮やかな時刻表によると、帰りの列車は二十分後に来るらしい。おかしなはなしだ。たった五分待てば済んだことが、二時間近くに膨れ上がってる。とはいえ、何もない駅で一時間待つよりはずっとマシ、考えなしの行き当たりばったりな行動にしては上出来だ。


 帰りの列車を待っている間、少しは駅の外を歩いてみようかと思ったけど、やめた。なにせ、めぼしいものが何一つ見当たらないのだ。もし面白いものを見つけても、そこまで歩いて行ってすぐ戻って来るだけで次の列車が来てしまうだろう。さすがに次の次の列車までの二時間を退屈せずにここで過ごす自信はない。

 ただぼーっと突っ立ていると風が寒いので、大人しく待合室のベンチに座って待つ。

 本は開かない。こんなことでもなければ絶対に降りなかった、この場所を味わっていたかった。


 枯葉色のさざ波がレールの向こう側で揺れているのを眺めていると、ピーッ、という汽笛の音が聞こえた。立ち上がってプラットフォームの上に立ち、目線でレールを辿ると、遠くにヘッドライトが見えた。いつの間にか二十分経っていたらしい。ようやく帰りの列車がお出ましだ。

 最後に、スマートフォンを取り出して写真を撮る。写っているのは単線のレール、枯れたススキ、二車線の道路、水のない田んぼ、遠くの山々、雲の多い青空。とらえどころのない、私にしか価値のない、写真。

 耳障りなブレーキ音を立ててディーゼルカーが止まる。行きに乗ってきたのとそっくり同じ一両編成。降りる客はいないのでさっさと乗り込む。今度は整理券を忘れずに受け取る。

 乗客は行きの時より多いけれど、それでもまだ余裕のある席に腰掛ける。

 

 暖かな車内をありがたく感じることで、思っていたより身体が冷えていたのだと初めて気づく。やっぱり早めに冬服を用意しなきゃダメだね。

 終点に着いたら乗り換える列車を一本待ってでも、一度改札を出よう。喫茶店に入ってもいいし、待合室の売店か自販機であたたかい飲み物を買うのでもいい。暖房だけじゃなく、あたたかいものを飲んでその熱を感じたい。


 ふと思い立って、スマートフォンを取り出す。アプリを起動して、絢にさっき撮った写真をメッセで送る。

 あの写真を見たとき、彼女はどんな顔をするのだろうか。次に会ったとき、どんな反応を返されるだろうか。

 少しだけ、月曜日が楽しみになった。

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