スーツとドリンクバーとこれからについて

 進学祝いで買い換えたばかりの真新しいケータイに着信があったのは、入学式が終わってから合流した高校や予備校でできた知り合いと、明日の新歓の予定について確認していた時のことだった。不慣れなスマートフォンの操作に手間取りながら、私はその電話を受けた。

「もしもし星佳? 母さんだけど」

 そんなことは着信画面を見た時点で判ってる。

「あんた今どこ? 今から国道のファミレスまで来られる?」

 国道というのは、今いるキャンパスの目の前を通っている国道のことでいいだろう。でも母が指す店がどこにあるかまでは心当たりがない。

「それどこ?」

「ええとねえ、大学からだと……正門を出て、道を渡らずに左へ曲がって、二三分歩いたところ」

「まだ大学だから行けるけど――」

「じゃあ早く来てね、待ってるから」

 言葉を続ける前に母は電話を切ってしまう。私はため息を一つついてケータイをバッグへとしまった。

「神辺、電話親から?」

「うん、今から来てって」

「どうせこのまま駅で解散って流れだったし、問題ないっしょ」

 通話してる間にはもう講堂から歩き始めていたのだけど、正門までの道は新入生とサークル勧誘の学生とでごったがえしていて、人の列はのろのろとしか進まなかった。サークル紹介のビラを適度に受け取りながら正門に出るまで結局十分以上掛かってしまった。

 正門の前を走っている国道は、この街を南北に貫く片側二車線の幹線道路だ。正門を出てすぐ、国道に架かる歩道橋のたもとで私は彼らと別れた。私は電話の指示通りに校門を出て正面左、南の方へと道を下り始めた。

 キャンパス前で国道を跨ぐ歩道橋は、学生の集団が横並びで歩けるくらい幅が広い。歩道橋ができるまであの場所にあったのは横断歩道で、無理に横断しようとした学生が車にはねられる事故が立て続けに起こり、それがきっかけとなってその横断歩道は廃止になった。という話を、この大学に兄弟が通っている同期から、さっき聞いたばかりだ。この話から教訓を見出すとしたら「手遅れにならないように手を打て」あるいは「手遅れになったとしてもパニクるな」というところだろうか。単位よりは命の方が大事なはずだ。たぶん。


 目当ての看板が見えるまで、話に聞いたより時間が掛かった。春の陽気にはスーツだと少し暑いくらいだ。入口のドアを開け、中に入る。応対に出てきた店員に「先に知り合いが入ってるので」と断りを入れてから、店内を見回す。母は窓際のテーブル席にこちらを向いて座っていた。意外なことに同席者がいるようだった。こちらに背を向けているので、彼らが何者なのかは見当がつかない。

「あ、来た来た。こっちこっち」

 私の姿に気づいた母が大声を出す。恥ずかしいからやめてほしい。顔が赤くなるのを自覚しながら早足で席に向けて歩いていく。

「もう、人を待たせてるんだからもっと早く来なさいよ」

 私がテーブルの前にたどり着いた途端に理不尽な言葉が飛んできた。「そんなこと一言も聞いてないって」と聞き流す。

 問題の同席者に目を向ける。母の向かい、窓際に座っているのは母と同年代くらいの女性。そしてその手前に座っているのはスーツ姿の少女――ひさしぶりに見る、あまりにも見慣れた顔だった。

「星佳ちゃんは久しぶり。また背高くなった?」

 女性から親しげに声をかけられる。当然だ、なにせ相手は私のことをよく知っている。

「お久しぶりです。身長は中学から大して変わってないですよ」

 軽く頭を下げながら席に着く。目の前の彼女に話しかける言葉が浮かぶより先に、ウェイトレスが注文を聞きに来た。私はメニューを開かないままドリンクバーを単品で注文して、そのまま「飲み物取ってくる」とだけ言い残してから席を立った。


 私は空のままのグラスを手に、いかにも何を飲むか悩んでいますという風でドリンクバーの前から戻らずにいた。

 目の前に座っていた少女、清音莉緒はかつてのお隣さんだ。幼稚園に入ってから中学卒業まで十年以上の多くを共に過ごした、いわゆる幼馴染みというやつだ。彼女とは我が家が引越した三年前から一度も会っていない。それが、このタイミングのこの場所で、あんな格好で再会した。ということはつまり、そういうことなんだろう。このあたりで現実的な進学先を考えるなら、決してありえないことではなかった。

 再会が気まずかったわけじゃない。喧嘩別れしたということもない。逃げるように席を立ったのは、単純に心の整理がつけられずどう接すればいいのかわからないという、ただそれだけのことだった。

「……久しぶり、だね」

 かつてずっとそばにいた声に、私は我に帰る。いつの間にかすぐ側にまで来ていた彼女は、カウンターに身を乗り出して、並べられたお茶の中からどれを飲むか選んでいる。

「ああ、うん」

 何も考えてないとっさの返事のせいで、再会後初めての会話はもうちょっとやりようがあるだろってくらい、そっけないものになってしまった。

 ここでいつまでも馬鹿みたいに突っ立っているわけにもいかないので、とりあえずアイスカフェラテを淹れることにした。受験勉強で喫茶店に籠もっていたせいで、この味がすっかり舌に馴染んでしまった。氷入れの窓を開け、スコップで氷をグラスのふちギリギリまで詰める。それを終えればあとはグラスを置いてボタンを押すだけだ。熱いエスプレッソがグラスの氷をどんどん溶かしていく。

「大学でまた同じになったんだね」

「うん。入学式の会場でおばさんに会った時にはみんなでびっくりしてた」

 返事をしながら、彼女はティースプーンで紅茶の茶葉を掬っている。すりきりがないので、容器の口にスプーンを小刻みにぶつけて、少しずつ茶葉を落としている。

 エスプレッソマシーンが止まってからも、私は彼女がカップにお湯を注ぎ終えるまで、そこに立って待っていた。


 一緒に席まで戻ってからは、再び会話に詰まる時間が始まった。彼女は時々ちらりとこっちを見て、すぐ手の中で踊っている紅い葉へと視線を戻す。会話が無いのはいいとしても、その紅茶は濃くなりすぎてるのではだろうか。

「それ、もういいんじゃないの?」

 すこしだけ躊躇してから、思いを口に出す。私の目線が指す先を辿った彼女は、はっと気がついたみたいに慌てて茶葉を引き上げた。そしてカップに口をつけ、はぁと一息ついたところで、ようやく彼女は再び口を開いた。

「……スーツ、似合ってるね」

「まあ、ブレザーと大差ないし」

「そっか、そっちブレザーなんだっけ。いいなあ、私もブレザー着たかった」

「私は一度くらいセーラー服着てみたかったな」

 笑ってしまうくらいにぎこちない会話。私たちはかつてどんな風に話していたのかを全部忘れてしまったみたいだった。その後に続いた中学までの思い出話は、まるでやりとりの仕方を思い出す為の儀式みたいだった。


 お互いの高校生活についての話題が一段落した頃、お互いのカップがとっくの昔に空になっていたことにようやく気がついた母たちは、連れ立ってドリンクバーへと向かった。

 改めて、今の彼女の姿を眺めてみた。私視線に気づいた彼女の表情が訝しむようなものへと変わる。

「何?」

「いや、変わってないなって」

 私の言葉に彼女は不満げな様子を隠さなかった。

「そこは変わったって言って欲しかったかも」

 変わってるよ、十分。ビシッとしたスーツは大人っぽいし、大学デビューで派手になりすぎないような化粧をちゃんとこなしてるし。

「せーちゃんは変わったよ」

 さっきまでの拗ねたような口調とは打って変わって、しみじみとつぶやくような口調で、莉緒はそう言った。

 せーちゃん。

 久しく聞いていなかった懐かしい呼び方に一瞬胸がドキっとした。動揺したことを隠すみたいに、ちらりと店の奥のほうを見る。母たちはコーヒーサーバの前でまだ笑いあっている。立ち話なんてしてないで早く戻ってくればいいのに。

「そうかな?」

「うん。変わった」

 そんなものかもしれない、と私は思った。たかが三年、されど三年。目立って変わったところもあれば、相変わらずなところもあるというだけの話。私も莉緒もお互いに同じようなことを思っていたということだ。


 それからまもなく、ようやく母たちは席に戻ってきた。それからの話題は今の私たちにとって最大の関心事へと移った。履修のシステムについて。とびきり厳しいと話題の講義に関するうわさについて。新歓でどんなサークルを回ってみるかについて。講義やサークルについての情報を共有しようという話の時に、連絡先を交換するはずが「番号もアドレスも変わってない」という確認作業になってしまったのには思わず笑ってしまった。三年前の連絡先がいまでも通じるだなんて私は思いもしなかった。

「そういえば莉緒は電車通学するの?」

 会話のタネもいい加減尽きかけた頃ふと思いついた質問に、それまで親同士の会話に夢中だった母がいきなりこっちの話に割り込んできた。

「それがねえ、莉緒ちゃん、一人暮らしするんですって。いいわねえ、しっかりしてて。それにひきかえあんたは――」

 放っておくと延々続きそうな母の話を遮るために、私は「そろそろ帰る時間じゃない?」と口にした。実際、時計の針はすでにアフタヌーンティというよりディナーという位置を指している。

 結局、その言葉をきっかけにこの場はお開きとすることになった。今晩はふたりで下宿先に泊まるという清音親子とは店の前で別れた。

 この時期の夕方はまだ少し肌寒い。店の外に出た時、莉緒は「さむっ」と小さくつぶやいたのは、寒がりの彼女らしいと思った。

「莉緒になにかあったときはよろしくね」

 別れ際、おばさんが軽い調子でそう言った。ふざけたような調子の言葉が、なぜだかすごく重いものに感じられた。


 今から駅に戻るのが面倒という母の主張により、帰りはバスを使うことになった。この幹線道路を走るバスは、朝晩を中心に本数は多いものの、混雑する時間帯にぶつかると渋滞で身動きが取れなくなってしまう。この地域に住む学生なら、一限へ出るのにバスを使おうとは考えないだろう。幸い、今の時間は車の流れもスムーズで、そちらを選んでも問題はなさそうだった。

 五分と待たずに到着したバスで、辛うじて残っていた二人掛け席に不本意ながら母と並んで腰掛け、私は窓枠に肘を突いて窓の外を眺めている。街の西側にそびえる山々の間へと陽が沈み、街は徐々に青色へ沈んでいく。

 信号待ちでバスが止まったタイミングでバイブレータが鳴った。窮屈な姿勢に難儀しながら、ケータイを取り出す。新着メールを開くと、そこにはいくらかの絵文字と共に「また同じ学校になれたね。明日からもよろしくね」の文字があった。送信者はもちろん莉緒だ。私はぎこちないフリック入力で返信の文面を作る。

「こちらこそ、よろしく」

 絵文字を入れるかどうか少し迷って、慣れないことはやめておこうとそのままでメールを送信した。

 駅前の、明るい街並みが近づいてきた。このバスの終着まで、あと少し。

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