後輩ちゃんのはなし。
突然だけれども、後輩ちゃんの話をしようと思う。
後輩ちゃんというのは、その呼び名の通りに、わたしの高校の後輩にあたる存在で、わたしとはひとつ違いだ。
少し高めの背丈と合わせて、暗いブレザーの色に映える明るい色の髪が、人並みの中にあっても目を引いた。本人曰くあれは地毛なのだそうだけど、話を聞いていると、中学の頃は何かと目をつけられて苦労したらしい。×××××、中学教師。
では、そんな見た目に反して本人は至って真面目……かというと、そうは言えない、まったく。一所懸命という言葉からは……ちょっと縁遠い。
自己申告によると、成績は中の上だと言うけれど、いっつも宿題に詰まってる話しかしてないことを考えると、ストレートにその言葉を受け止めることはできない。
その代わりと言ってはなんなのだけれども、彼女は熱中しているものに対してはとても饒舌だった。時にショートヘアが揺れるくらい夢中になって何かを伝えようとする彼女の姿は、とても楽しそうだった。
でもそれは、彼女という人間の、ほんの一側面でしかないのだと、わたしは知っている。
たとえば、たまたま廊下ですれ違った時、彼女の友人に向けていた表情は、わたしが見たことのないものであった。
わたしが彼女と会うときのほとんどは、昼休み、放課後、下校時間だった。だから、家に居るとき、同級生と過ごしている時、授業を受けている時の彼女がどのような人物であったかを、知るすべはない。
知る必要もないと思っていた。
わたしにとっての彼女は、ちょっと気の抜けた「たはは」という笑い方をする、気の抜けた賑やかさ。そんな美徳を持った人物だった。それが全てで、それでいいと思った。
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わたしたちの出会いの場所は高校の図書室だった。
当時、このあたりはちょうど学区の境界になっていて、街を東西に横切る線路のこっちとむこうで目指す高校が全然違うなんてこともよくあった。
南側の住宅街に住んでいて、それなりに優等な中学生をやっていれば、この駅前の新しい高校が第一選択になるし、北側の団地に住んでいれば、ここから電車で十五分くらいでたどり着く街の、丘の上にある高校が一番、ってことになる。
ちなみに、一番頭のいい連中ははなから公立のことなんて気にしてなかった。
更に言うと、その学区制も今はもうない。
とにかく、簡単に言えば、むこうが伝統ある名門で、こっちは成績優秀なだけ《・・》の新参者だ。どれだけ進学実績で勝ろうとも、政治家になりたいのであれば、きっとむこうに進学したほうがいい。
わたしにはそんな野望はなかったので、通学時間が短くて校舎も綺麗なこの学校で良かったと思っていた。それに、むこうはほら、校舎がボロいだの、駅から遠いだの、いろいろ噂を聞いていたから。
そうして厳しいと言われつつもどうにか合格ラインに達した(比較的)真新しい校舎で、いったいわたしはどんな高校生活を送っていたのかというと、部活動にも属さず、勉学にもあまり熱心ではなかった。
そんな人間が向かう先と言えば、昼休みも放課後も、図書室くらいしかないものである。
それに、図書室で残って勉強してたと言い訳すれば、家に帰った後に家事を申しつけられることもなかったから。
毎日頑張ってると言う割には成績が上がってないみたいだけど、という嫌味は、代わりについてきたけれども
わたしたちの学校は、マンガの類は頑なに入れない代わりに、小説にカテゴライズされるものであれば、それがライトノベルであろうと、ネット発のソフトカバーであろうとほとんど無制限に入荷してくれた。
そんなわけでわたしは他愛なくも愛すべきライトノベルを読み耽ることに時間を浪費していたのだった。
この国で五本の指に入るような大学に進学した同級生は、同時期にもっと真面目な本――例えば一般向けの科学解説書だとか――を読んでいたのだから、まあそういうものだよなって思う。やる人間とは、最初からやることが違うのだ。
そうして、図書館暮らしも板につきはじめ、気に入ったシリーズの最新刊を待つことくらいしかすることがなくなり、少しずつ軽いミステリ小説(これも結局は海外の名作だとか、本格だとかみたいな方向に深入りすることもなかった。なにせあのシャーロック・ホームズさえ一冊も読んだことがない)に手を出し始めた頃、初めて制服に袖を通したあの日から季節は一巡して。
そして彼女は図書室に現れた。
図書室の常連というのは、だいたい五月末くらいまでに確定するものだ。
入学したばかりのころは不慣れだから、物珍しい場所のひとつとして訪れているに過ぎない。
すこしずつ学校に慣れ始めた頃には、多くの生徒は既に部活動へ所属していて、図書室に顔を出すような時間的余裕なんてない。
ということで、図書館の常連というのは、連休が終わった頃合いで脱落した部活員と、はなから誰かとつるむようなことを、みんなで一丸になってなにかすごい事を成し遂げようだなんて、夢にも思わないような人々でできている。
先述した通り、わたしは後者だった。そして、おそらくは、後輩ちゃんも。
さて、そんな出自の人間ばかりが集まるものだから、ただ同じ図書室にいるというだけで、自然と仲良くなるなんてことはまずありえない。少なくともわたしには無理だった。
とはいえ、蔵書も限られた図書室のなかで、ずっとひとりでいることは難しい。
わたしたちの場合、間に入ったのは司書の先生だった。先生本人からすれば「司書は先生ではない」とのことだったけど、まあ接する側からすれば似たようなものだった。
ただ静かに読書を楽しみたいという類の常連でなければ、自然と先生と話が弾むものだ。純粋な先生ではない(成績も生徒指導も彼には関係ない)というのも、親しみやすさを感じさせる理由のひとつだった。
やや髪がさみしくなりつつある先生は、なかなか愉快な性格で、どこかやさぐれた口調で、わたしたちともバカ話をしたものだった。
後輩ちゃん以外にも、先生と話しているところに割り込んで話が弾んだというパターンは何回もあった。
他の先生からのウケはともかく、生徒に、少なくともわたしたちにとっては、良い先生だったと思う。
まあ、そんな訳で司書の先生を間に挟みながら少しずつ親しくなっていったわたしたちなのだった。
ちなみに、その司書の先生も、後輩ちゃんが卒業してからまもなく他の学校へ移ってしまったらしい。
今の図書室は、それこそ自習室みたいな、静かに勉強する生徒が集まるような場所になってしまったらしい。そこらへん、県やら、新しい校長やらの意向があるみたいだ。
きっと、それはそれで正しいことなのだと思う。図書室では静かに。集中したい人の邪魔はしないように。
でも、そうして、わたしたちが過ごした場所が、わたしたちがそうであったように、誰かと出会うことのできる、すごくありふれた、でもちょっとだけ特別な場所は、すでに失われてしまったのだ。そのことだけは、少しだけ心に堪える。
どうしたって避けられない、当たり前のことが、なんだかすごく寂しいことに思える時があるのだ。
高校を卒業してからのわたしは、少し離れた大学に進学した。ひとり暮らしを始めた。今度はサークルにも入った。
サークルの新歓合宿中に何組かカップルが出来上がっていくのを尻目に、わたしにはああいうの無理だあと思いつつ、それでも高校の時よりは進歩して、一般教養でも、ゼミでも、サークルでも、孤立無援とまでは行かずに、わたしにとって適度な人間関係を保って、時に助け合いながら(試験とかレポートとか)、たぶん、それなりに充実していると言えるような学生生活を過ごしている。
高校卒業以来、後輩ちゃんとは会っていない。
最後に会ったのは、わたしの卒業式の日だ。
最後のホームルームが終わり、級友達が少しずつ散り散りになっていくなかで、わたしの行く場所といったら、やっぱり図書室しかないのだった。
でも、結果から言えば、図書室には入れなかった。卒業式の日に図書室の扉が開くことはないのだ。
最後に訪れたのは自由登校になる直前、随分延滞してしまっていたせいで催促が来ていた本を返しに来た時だ。
あの時は予備校の時間が迫っていて、先生への謝罪もそこそこにさっさと出てきてしまったのだった。
ああ、あんな適当な訪問が、三年間入り浸ってきたこの場所とのお別れになってしまったのだ。先生にも、後輩ちゃんにも、ほかの“仲間”たちとも、まともに話をすることもなく、あの場所を立ち去ってしまったのだ。そう思うと、少しだけ心が痛んだ。
わたしは、閉ざされたドアのガラス越しに、図書委員達が退屈そうに座るカウンターを、入ってすぐのところにある新刊棚を、窓際の雑誌ラックを、わたしの特等席だったソファーを、しばらく眺めた。
そうしてしばらく経って、ようやく立ち去る決心をして振り向いた先に、後輩ちゃんはいた。
ご卒業、おめでとうございますと、少し涙ぐみながら、後輩ちゃんが告げる。泣くまいと、笑顔で送り出そうと努力しているのが見え見えで、痛々しかった。
「いやだなあ、そんな泣かないでよ。わたしたちってそんな深い仲だっけ?」
おどけて言うわたしも、後輩ちゃんと同じように、涙ぐんでいた。
その後はふたりだけで少しだけ長話をした。図書室の横の階段に座り込んで。
わたしの進学先について。受験当日のちょっとしたハプニング。新生活への不安。
後輩ちゃんのやりたいこと。第一志望の判定が厳しいこと。すこしずつギスギスし始めた教室の雰囲気。
最終下校のチャイムが鳴って、わたしたちは観念して立ち上がる。スカートの埃をはたいて、ゆっくりと、遠回りをして、昇降口へと向かう。
使ったことのある教室、ない教室、その一つ一つを見て回りながら、階段を下っていく。
でも、どんなに先延ばしにしようとしても、いつかは必ず昇降口にたどりついてしまう。わたしがくぐり抜けなければならない出口に。
もう二度と使うことのないロッカーから靴を出す。上履きを用意していたビニール袋に突っ込んで、手提げ鞄に放り込んだ。
後輩ちゃんは、いつも通りに靴を履き替えるだけだ。だからわたしより早く、昇降口の扉の前に立っていた。後輩ちゃんの背後で、オレンジ色の夕陽が沈んでいく。
そこからの道は、さっきまでとは打って変わって、ふたりとも無言だった。
なにか話さなければならないことがあるような気がする。伝えなければいけないことがある気がする。
でもその焦燥感ばかりがつのっていって、具体的な言葉は何一つ浮かんでこなかった。二人ならんで、ただ黙々と、車通りの多い道の歩道を歩いて行った。
そうして、わたしたちの分かれ道が来た。あっという間だった。ここでわたしたちの通学路は別れる。後輩ちゃんの住んでいる場所は、大まかにしか知らない。
「それじゃあ先輩、お元気で」
まるで振り絞るみたいな口調で、後輩ちゃんが告げる。
「そっちも。来年、受験がんばってね」
結局、この一言しか、わたしの口からは出てこなかった。
そうしてわたしたちは別れた。
わたしは、振り返ることもしなかった。後輩ちゃんは、どうだっただろうか。
あの頃、毎日のように図書館の閉室まで粘って帰る人間というのはそんなには多くなくて、帰り道に一緒になる相手というのは、更に限られていた。
駅から遠ざかる方に家のあるわたしは、それこそ後輩ちゃんくらいしか、同じ方向になる生徒はいなかった。
だから、彼女はわたしの高校生活の中で一二を争うほど、長い時間を過ごした相手であるはずなのだ。
それなのに、何故だろうか。いま、改めてどんな話をしていたのかを思い出そうとしてみても、具体的なエピソードが全然出てこないのだ。
あの頃、あんなに熱心に読んでいた小説の中身を思い出せないのと同じように、記憶さえもあの場所へ置いてきてしまったのだろうか。
思い出すのは彼女の笑顔、むくれた顔、あきれ顔、焦ってる顔、そんなものばかり。
だと言うのに、どうしてわたしの頭は、そんな他愛のないことを、高校時代で一番輝かしい想い出として認識しているのだろうか。
後輩ちゃんとは、当然同い年ではないから、同窓会で会うこともない。共通の知人もいない。もちろん、間に入ってくれるあの司書の先生ももういない。
高校か同窓会に問い合わせれば、連絡先くらいはわかるかもしれない。
でも、それでどうする?
なんの用事があるわけでもない。伝えなければならない話もない。
今更、何年も会っていない相手に対して、どんな口実を用意すればいい?
それでも。
もし、あの後輩ちゃんと再び会うことがあるのなら。
一体どんな話をすればいいだろうか。
そんなことを思って付け始めたノートは、もうA6一冊に収まらなくなってしまった。
だから、わたしは待ち望んでいる。
あの後輩ちゃんと再び出会う日を。
それはきっとほんとうに何気ない偶然がいい。ふと帰省した先ですれ違うみたいな。
でも、訃報欄だけは勘弁してほしいかな。
この話はただ、そんな彼女のことを、いましがた、不意に思い出したという、ただそれだけの話です。
全ては変わっていくのだとしても、変わらないもの、変わらないでいてほしいとお互いに思っているものがあるのだと、願って。
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