いくら早熟だからって幼児が婚約なんて生き急ぎすぎなんですけどっ!?


 


「思えば、斉に追われ莱より訪れし民が伽耶の民と、<和義の治証ヤマト>に加わった事が────」


 あまりに予想外の展開に精神をフリーズさせてしまい、あわあわと訳の判らない台詞を吐きそうになったアメツチを、アテルイの前から離れさせたのだが、あれからしばらく経って治老衆おおとなのあいの前だというのにアメツチは、混乱したままだった。


 幸い、儀式的に一族の歴史と在り方について語る前置きのおかげで、俺が発言するには時間があるが、それまでにアメツチが復帰しなければ、俺がどうにかしなければいけなくなる。


 できれば、アメツチの意志を示すための場なのだから、人の残滓でしかない俺ではなく、アメツチの言葉で、語るべきだが…………。


 それだけ、‘ 共生めおとの契り ’というものが、アメツチにとって重く、深く、美しいものなのだろう。


 多妻多夫の乱婚を現代の乱交やスワッピングといった性的遊興と同一視すれば不思議な話だが、全ての人に公平に愛を注ぐ事で‘ 真実の愛 ’を育み生命いのちの繋がりを広げていくと考えれば不思議ではない。


 独占欲を排除した‘ 純粋な愛 ’は無限で無数の御魂を繋ぐ事で、‘ 唯一絶対の神 ’に忠誠を誓うような‘ 歪んだ愛 ’ではないとアメツチは考えているからだ。


 だからアメツチは、早熟ではあっても、そういう性に関する部分は、前世のどんな若者たちよりもうぶだ。


 前世にあっては早熟とは、主にそういう部分について語る印象が強いが、本来、早熟とは、成熟したオトナとなるのが早いという意味だ。


「それでは、アメツチに、この場にて語るべき者であれるかを、問おう。」


 とうとう、儀式が進んで、前世のそういう意味ではなく成熟者オトナとして発現できるかを試される段に立ってしまった。


「はい。問いに応えたく思います」


 しかたなく、俺はアメツチに代わって、成熟者オトナであるかを試される事になり、様々な問いかけに応えることになる。


 要は就職の面接試験のようなものだが、忠誠心や能力ではなく試されるのは人として成熟しているかという点だ。


 何をって成熟オトナというのかは、人によって様々だが、その根幹には自立心を持つというのがある。


 社会的には、自分で自分がした事の責任をとるという気概。


 個人的には、自立心の発露として様々な心情があるだろうが、反抗期なんて言葉が示すように、褒められて無邪気に嬉しいと感じる‘ 甘え ’を自分に許さないような真情がある。


 そういう‘ 甘え ’を自分に許さないという意味では、このさとの子供達は、総じて早熟だ。


 それは、このさとの幼児教育が個人ではなく公共によって行われるからだろう。


 このさとは、唐に従属した大和朝廷の人間が男系文化に文化侵略される前の女系文化のさとなので、幼児は盟守ムスビの一族の女達が共同で育てる。


 血族ごとにあるいは家族ごとに細かく利害を分割して勢力を競い争い合う文化の刷り込みきょういくではなく、全ての‘ 人 ’の根源である理性と知性と悟性を教えながら、慈愛を持って‘ 人 ’を育てるため早熟になるのだ。


 何故なら、利害や損得といった動物的情動によって‘ 掟 ’を心に刻み込む簡単で単純な‘ 刷り込み ’ではないからだ。


 筋道だって物事を理解をさせる理性と、物事を判断する材料を集めるすべとして知識を得る知性と、知識や経験を基に常識を理解した上で物事に洞察を働かせる悟性。


 その三つを系統だって教えながら、個性に応じて知恵を持たない獣から、様々な‘ 人 ’を育てるのが、このさとの生き方で。


 侍達のように狂信的な戦うための生き方を幼いうちから刷り込むような組織に依存させる‘ 狂育 ’とは真逆のそういう育て方をすれば、自立心は早くに芽生える。


 だから、このさとの子供達は生き急がないのに早熟なのだ。


「アメツチよ。ぬしは認められた。」


 だから、俺はアメツチの記憶を基に、人の在り方への問いに応え、さと成熟者オトナとして認められる事ができた。


 前世の損得を基準とした世界では、こういった早熟さは在り得なかった。


 ‘ 皆が得をするのが善い事で、皆が損をするのが悪い事という歪められた ’を常識とした‘ 誤魔化し ’がまかり通っていたからだ。


 誤魔化しとは真実を嘘に混ぜる事で、理に適わない事を理に適っていると思わせ、人の心に理性を否定する‘ 魔 ’を差させるための理屈だ。


 だから、大概の誤魔化しは解り難いように、あるいはように、創られている。


 この場合は、皆が損をするのが悪い事というのは真実、皆が得をするのが善い事という部分が‘ 魔 ’を差させるための理屈だ。


 善悪で言うのならば、‘ 皆 ’というのは、不特定多数の全てという公平性を持つものだ。


 特定の誰かや組織に‘ 都合の良い ’という意味で使うならば、それは善い事ではない良い事なのだ。


 ‘ 誰か達 ’と‘ 全ての人 ’。

 そして、‘ 良い ’と‘ 善い ’。


 その二種類の二つを故意に混同させ同じものとして扱う誤魔化しが前世では権威と権力によって‘ 理想に反する常識 ’として扱われていた。

 

 皆が得をする社会とは、国家等のの人間達やその組織の権力者が利益を得ることで、その他の誰かや何かに害をなしても、当然であったりというのが、前世の世界で、この戦国の世の‘ 争い合う世界を維持するための常識 ’だ。


 武家や公家という生業の人間達が、その他多勢を服従させるためには、その他多勢を大勢ではなく小勢に分けて争い合わせるための常識が必要だ。


 だから、和を善とするとしても、力を‘ 必要悪 ’として、権威と権力というものを、世界に必要な‘ 正義 ’という存在にしようとする。


 そこに自然への‘ 畏れ ’から生れた‘ 信仰 ’を、権力や権威に対する‘ 恐れ ’と混同させた誤魔化しによって創られた‘ 宗教 ’が結びつき‘ 神 ’が‘ 御魂 ’などを従える存在として語られる。


天地万物の自然のことわりとして語られた‘ 御魂 ’を人間が‘ 剣の威 ’で他者を征服する理屈りくつかたり、‘ 神 ’という‘ 権威 ’として位階カーストを定めて社会を造ったのだ。


 そうして権威と権力という‘ 神々 ’の乱立の中で、聖書宗教による‘ 唯一神 ’という‘ 善 ’を‘ 神 ’と同じものとする誤魔化しがまかり通るようになり。


 やがて、宗教権威を‘ 善 ’とする誤魔化しの手口は、商家という生業の人間達が権力を得た‘ 市民革命 ’によって、損得こそが‘ 善 ’とする誤魔化しに取って代わられる。


 しかし、その誤魔化しは人のことわりを歪める理屈りくつでしかない。


 人のことわりと、そのことわりを歪める理屈りくつ


 その二つの違いを見定められるかを問うのがためしだった。


 ことわりによって世界を見て、知性を磨き、情欲によって判断を歪ませ本末転倒をしない悟性を持たなければ、このためしに認められる事はなかっただろう。


 数時間に及ぶためしが終わり、俺はそう考えていた。

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超負け組戦国誌 ~これじゃ、二次創作の世界なんですけどっ!?~ OLDTELLER @OLDTELLER

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