第6話
「チーちゃんの土曜日のハイテンションだね。この子は土曜日になると特に落ち着きがなくなるって、チーちゃんのおばさんがよく言ってた」
そんなこと……あったのかな? 私まで忘れていることだった。
「ねぇチーちゃん、俺が将来なりたいものって何か知ってる?」
マー君がなりたいもの? 私、そんなこと知ってるのかな? 記憶を遡る。どんどん遡る。小さいマー君が思い出された。
「もしかして……お医者さんになるってこと?」
言ってから私も立ち上がった。マー君と目線が合い、マー君は無言で頷いた。
「小学校入ってすぐに盲腸で入院したんだよね、マー君。そんときの先生がとてもいい先生でかっこ良くて……だから自分も絶対医者になるって。確か退院直後はそんなことばっか言ってた気がする」
そうだ、思い出した! 退院祝いには百科事典を買ってもらったっと言って、私にそれを見せびらかしていたマー君。同じような装丁の、重そうで難しそうな本が何冊もあったけど、こんな物の何が面白いのか私には全くわからなかった。でも、マー君はあのときからよく本を読んでいたっけ。そうか、だから今のマー君がいるんだ。変わってないんだ、マー君はあの頃と。
「こんなことチーちゃん以外に誰も知らないよ。だって、医大に入れなかったら恥かいちゃうからさ。お目当ての大学に合格するまでは、誰にも言わない」
マー君は自分の足下を見てふんと笑った。
「いいよね、こういうの……何年経っても俺の言ったこと覚えていてくれる人がいるって」
そうだね……とは、自分の胸の中だけで答えてみた。
カチッ。
『元気だったかい君達……』
その声に、私とマー君は一瞬目を合わし、途端にククッと笑いだした。
「おじさん、なんかそんな言い方したら、俺達遭難した人みたいじゃないか」
「ほんと、まるで何日も行方不明だったみたい」
『い、いや、そりゃ〜悪かった……』
申しわけ無さそうな声が返ってきた。
「ところで、どうなったんですか?」
『ああ、そうそう、今管理会社の人から連絡があったよ。無事に修理完了したって。とりあえず君たちが降りた後には再度しっかり点検してもらうからね、今後は心配ないよ。ほんとに大変な目に遭わしちゃったね。君たちには悪いことしたよ、申し訳ない……』
何度も謝りながらおじさんはスピーカーのスイッチを切った。マー君曰く、どことなく面白いおじさんだ。
「やっと出られるってわけだ」
マー君はエレベーターのドアの前に立った。大きな背中が私の前に立ちはだかる。最初は私の前に立ち塞がって戸惑った背中だ。
「マー君、退いてくれないと出られないよ」
今は、平気でそう言えた。
「それがさ、チーちゃんは気ずいてないかもしれないけど、大変なことがあるんだ」
マー君の背中が言う。
「大変なこと!? 何? どうかしたのっ!」
私は思わず声をうわずらせてしまう。
エレベータのトラブル、これ以上大変なことは困る。
「俺の通信端末、すっかりバッテリーが切れてたんだよね」
「もー! 驚かせないでよ。それがどうしたっていうの?」
「わからない?」
マー君の顔が後ろを向いた。
しばし考える。考えて行き着いた答えに、少なからず冷や汗が出そうになった。それはつまり……
「もしかして、さっき……何か、聞こえた?」
「聞こえた。好きの裏返しがどうのこうの……『嫌い』に『大』までつけなくてよかったのにうんぬんかんぬん……」
みるみる、顔となく頭となく、全身が熱くなるのがわかる。ほとんど放心状態。
そんなのって、大変過ぎるじゃない!
「ごめん……なんか……俺、イヤホン耳にするの癖なんだよね。電車とか動く密閉空間っていうの……ちょっと苦手だったりするんだ。何かに集中できるとわりと平気なんだけどさ。だから、電車ではしょっちゅう英会話のリスニング集聴いてて……」
マー君は天井を見上げながら言いにくそうに私に告げた。
まだ、頭がカッカしてたけど、ある日のマー君を思い出した。
小学校の時、遠足のバスで普段より異常によくしゃべるマー君がいて、あまりにも喋り続けてるから先生にも怒られてたけど……もしかすると、マー君はあの時からずっとそうだったのかもしれない。
「このエレベーター乗ったときから、とっくにバッテリーが切れててさ。イヤホンしてても何も聞こえないのはわかってたんだけど、こんな状況になると、俺、エレベーターもダメっぽいなって思っちゃって」
「私の高所恐怖所と同じね」
「そうみたい……。こんなに長くエレベーターに乗り込んでたこともないから気がつかなかったけど」
マー君は私の方を向いて複雑そうな笑みを浮かべた。
「何ていうか……聞こえてたのに、聞こえないふりして……ごめん」
「そんなの……別にいいよ。謝らなくても」
もしかして、マー君より私の方が先に取り乱してしまったから、マー君はそのことをずっと我慢してたのかもしれない。
もしそうなら……
「私こそ……ゴメン……」
そこでマー君がいきなり体ごと私の方を向いた。
「で、でもさ、安心しなよチーちゃん! 俺はあの時みたく『大嫌い』とは言わないから! またこうやってチーちゃんと話せて、嬉しいんだ!」
マー君はまるで選手宣誓のように言って、私の肩をポンと叩いた。
私は、呆気にとられてしまう。
「だから、チーちゃんは恥ずかしがらなくてもいいんだ。言っただろう。言える時に言っておかないと損することの方が多いって」
どうしていいかわからず、放心状態の私の顔をマー君が覗きこんだ。
もう、何も言えない。マー君の言葉が私の胸に届いた時には、私だって同じ気持ちだと思った。
私も、マー君と話せて嬉しいんだ!
「言ったことが、もしかしていい結果になるかもしれないから──ほら」
マー君はズボンのポケットから二枚の紙切れを取り出した。
「この映画のチケット、今日友達が行けなくなったからって俺にくれたんだ。一人で行っても仕方ないし……というか、行けないし……というか……とにかくさ、どうせなら次の休みの日は本当に嬉しい日にしたいな〜なんて、チーちゃんなら今でも思うんだろ?」
「思う」
とぼんやりした頭で考えるより先に、言葉が勝手に出てしまった。
そして、マー君がちらつかせたチケットにあった映画のタイトルが目に入り、私はもう一度力強く「思う!」と言った。
それは、私が今一番気になっていたホラー映画だった。
「ほ、ほんとに? ほんとにいいの? ……ただ、これ、かなり怖いって噂のホラー映画だから……恥ずかしい話だけど、俺一人では行けないってのが本音なんだよね」
マー君は最後の言葉をボソボソ呟き、バツが悪そうに頭をかいた。
マー君は子供の頃お化け屋敷に入れなかった。でも……
「私はお化け屋敷が大好きだから、いいの。すっごく見たい映画だよ!」
でも……
「マー君、映画館は大丈夫なの? 密閉空間だよ?」
「動いてないなら大丈夫さ。ただ……ホラーは怖い」
そっか、と言って二人で笑いあった。
──ガタンと小さくエレベーターが揺れて、動きだした。
チンッという音がして六階に停った。扉が開き、私はエレベーターから降りる。
「じゃあ……明日チーちゃんちに迎えに行くから」
とマー君。
「怖くなって、逃げちゃダメだよ」
とはマー君に言ったのか、自分自身に言ったのか。
再びエレベーターの扉が閉まる。
迎えに来るかぁ。マー君が私の住む階で降りるのって何年ぶりなんだろう。マー君の笑顔が消えた後も、私はエレベーターの扉を見ていた。
「美香、私も明日デートになった!」
小さくブイサインなんかをしてみた。
そして、エレベーターに向かって一礼する。
「ありがとう、きっとあなたのおかげね」
この年老いたエレベータがあったから、マー君と私の間で止まっていた時間が流れだしたような、そんな気がした。
この日、マンションの廊下から見える青い空には雲一つなく、見上げるとやけに眩しい気がした。
【おわり】
二人時間 十笈ひび @hibi_toi
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