6
浄閑寺の傍にあった柳の木は、街中に佇んでいて少し異様でした。どこかまがまがしくて、そこを過ぎると怖ろしい世界に通じているような、そんな感じすら少ししました。
吉原に女の人を買いに来た方々が皆、別れを惜しんでそこで振り返ったことから、見返り柳というそうです。坂本さんが教えてくれました。そのせいで余計に街に馴染まないものに見えたのかもしれません。見返り柳の垂れている枝を長い着物の裾のように見て、切ないような物悲しいような思いにとらわれたのは、さすがに坂本さんの言葉に引きずられすぎだったでしょうか。
今日は朝から天気が良く、風が乾いていて陽は静かで、どことなく空虚な秋らしい晴れ空でした。しかしお寺は閑散としていました。本堂とお墓だけのこじんまりしたところでした。坂本さんに聞かされていたことから連想するような悲惨な影などまるでない、居心地の良い感じさえする安らかな雰囲気でした。境内を入ってすぐのところに、小さな墓石が並んでいたのですけど、その石に白い陽が差しているのをぼんやり眺めているだけで胸がほっこりとするようでした。
はじめに坂本さんが歩み寄ったのは、境内に入って左にある大きな石碑でした。なにか名前があったのですけど、いつものいいかげんで忘れてしまいました。しかしなにを慰めるために建てられたものかというのは覚えています。これも坂本さんが教えてくれたことですけど、その石碑は、かつて心中をした遊女と男性のためのものだそうです。
お二人は身売りの宿で死んだそうです。この世で一緒になれないのならあの世でせめてと、そう祈りながら死んでいったであろうお二人の、死に場所に選んだのが傷ましい想いの詰まったところであったというのはどういうわけでしょう。
坂本さんはなにも言いませんでしたけど、想うに遊女の方と心中をした男性はお客さんだったのではないでしょうか。だとすればその宿は、お二人を引き裂くところでありながら、それでも出会いの場所であり愛を深めた場所でもあったわけです。
しかし、もしかすると女性の方が、他の遊女の方々に見せつけるようにして死ぬことを望んだのではないかと、そんな風に考えたくなるのは悪いことでしょうか。少なくとも私は石碑を見ただけで強く胸に迫るものがあったのです。それは同情や憐憫ではなく憧れでした。気の遠くなるような果てしない憧れでした。心中へ誘ってくれるほど愛してくれる人が、私にはこれまで一人もいませんでした。私のせいでもあるでしょう。シュシュをくれたあの人は、私の心次第でそのような情熱を傾けてくれたかもしれません。こんな風に思いたくなるのは自惚れでしょうか。坂本さんは、私と生きることを求めはしても共に死のうとはしないでしょう。
私は心中の石碑の前からはすぐに足を遠ざけてしまいました。
そんな私に坂本さんは何も言わず付いて来てくれました。語らずとも分ってくれたのかと、一瞬だけ祈るように思ってから、馬鹿らしくなってしまいました。
境内をぶらぶらと歩いていると、お寺を囲う石の外塀のある部分に、長い文章が刻まれているのが目につきました。その石壁の前には、また一つの石碑がありました。文章の内容は忘れてしまいました。あろうことか筆者すら覚えていません。全く困った忘れっぽさです。坂本さんはその文章の筆者である小説家の方が好きだそうで、その作家さんについて色々な話を教えてくれました。
私に印象深かったのは、その方がお妾さんにした歌という芸者さんのお話です。作家さんはとても女好きでその手のことに精通した人だったそうですけど、ただ一人その歌さんにはまんまと騙されたそうです。
というのも、作家さんは歌さんに惚れ込んで、また歌さんの懇願もあって、大金を出して芸者をやめさせてお店まで持たせてあげたのですけど、ある日突然この歌さんが卒倒してしまったのだそうです。作家さんは彼女を慌てて病院に運び込みました。するとお医者さんから、彼女はいずれは発狂してしまい狂人となってしまうだろうという診断が下ったのです。
それから歌さんは意思疎通も難しく、本当に狂人のような言動をとるようになっていきました。そんな彼女の様子を見て、作家さんは憐れみと悲しみに暮れるのですけど、実は彼女の卒倒には秘密の理由があったのでした。後に白状したその理由というのは、作家さんのいない間に歌さんはこっそり若い男性と酒を酌み交わしていて、その匂いを隠すために息を止めていて倒れてしまったというものでした。そして病院へ運ばれてからもその嘘を暴くわけにはいかず、狂人を演じ続けたのでした。作家さんはその嘘に気付かず、可哀想にと胸を痛めていたというわけです。
この話をして坂本さんは、
「店で心中をする女もいれば、色んな人がいるね」
と苦笑交じりに言いました。そしてこんな風にも言いました。
「卵の四角と女郎の誠とは、よく言ったものだ」
「どういう意味ですか」
私が聞くと、坂本さんは軽やかに笑って、
「四角い卵に遊女の真心、どちらもこの世に存在せず」
と言いました。そしてすぐ、私の表情になにかを感じ取ったらしく、
「嫌味じゃないよ。僕にとってゆりなさんはあらゆるものの例外だから」
と付け加えました。
そう言われて私は、自分の表情が冷たいことに気付いて慌てて微笑みました。しかし私の表情を暗くしたのはそういう自尊心からではありませんでした。
私は歌さんを嘘つきとは思えないのでした。嘘をついたということではないように思ったのです。私が浮気な性格なのでこんな風に思いたいだけでしょうか。
しかし歌さんは、作家さんを深く好きでいて、なおかつ他の男性も愛おしかっただけな気がするのです。でなければ誰が倒れるまで息を止めたり、狂人のふりなぞするでしょうか。誰をも愛して、その実誰も愛せなかっただけかもしれません。こんな風に書いていると、やはり私は自分を守ろうとしているだけのように見えますけど。
作家さんの石碑の前を過ぎてから、次に坂本さんと私の足を止めたのは、お墓に囲まれてひっそりと建っているひときわ大きな石の塔でした。私の背丈ほどはありました。それまでにあった石碑とは違って丁寧に花が手向けられていて、石碑というよりはお墓でした。
それもそのはずで、その石の塔は、まさしく浄閑寺へ投げ込まれた遊女の方々を供養するためのものでした。お花は見たところ新しく、寒光を浴びてやさしく明るんでいました。
話で聞くのとお墓を前にするのとではやはり心が異なりました。死んでもなお寂しい身の上のままお寺に投げ込まれた遊女の人たちに、自然と想いが流れていきました。私は身を売って生きてきて、あの街を出てからこの旅でも自分に染み付いたけがれをいやというほど感じましたから、まさかみなさんに同情はできません。他人として同情するだなんてありえず、みなさんの悲しみが我が身の憂いとして胸に流れました。私も墓の下に眠っていないのが不思議なこととさえ思えました。
ぼんやり立ちぼうけていると、軽快なシャッター音が隣からしました。私は物思いから覚めて振り向きました。坂本さんがカメラを構えていました。
坂本さんは何枚か撮ると、ファインダーから目を外して、まっすぐこちらを見つめました。
「どんな風に撮れたか、見たい?」
そう聞かれて、私は呆気にとられました。
そんなことを聞かれたのは初めてでした。いつも勝手に撮られるだけです。その写真を私から見せて欲しいとねだったこともなければ、見たいかと聞かれたことも一度もありませんでした。
しかも、坂本さんはそう言ってから、
「いや、違うな」
と首を横に振って、こう言い直しました。
「僕がゆりなさんをどう撮ったか、見て欲しい」
私は、どうしようもない不安に包まれました。自分を好きに撮らせることは構いません。数日前の、湖の小舟の上でのように、自然な姿態を撮られるのも構いません。しかし自分がどう撮られたのかを見るというのは、なんと怖ろしいことでしょう。
とはいえ見て欲しいと言われて断るような強さも私にはありません。坂本さんがこちらへカメラの画面を向けてきたのに誘われて、私は見ました。やさしい写真でした。私の化粧の鮮やかさも、肌の病的な白さも、思いのほか売春婦の匂いを放っていました。それでも辛うじて微かに温かなのは、色彩なのか、構図なのか、なにはともあれ坂本さんの想いによるものなのでしょう。
私は坂本さんに気付かれぬように、そっと画面から目を落としました。見ているようで見ていませんでした。私の目を逸らさせたのはやはり、私に染み付いた暗いものではなくて坂本さんのやさしさでした。
カメラの画面をこちらへ向け続ける坂本さんに、私はなにか感想を言うべきなのだと気付き、言葉をしぼりだしました。
「凄いですね、写真家さんは」
ほとんど上の空で、でたらめな言葉だけが唇をこぼれました。
「私をどう思ってくれているのか一枚で分からせるんですから」
そんな、感想になっていないようなことを私は言いました。
しかし坂本さんは満足げに頷いて、
「今日ほど真面目に写真を撮ったのは初めてだけどね」
と言いました。坂本さんが喜んだのは、私のなかに愛を錯覚したからだったのでしょう。その犯人は、強いて微笑んだ私か、愛に浮かれる坂本さんか、どちらなのでしょう。きっと、どちらでもあるのです。
坂本さんは熱っぽい口ぶりで言いました。
「僕は今の今まで、カメラってのは顕微鏡のような冷酷なものだと思ってた。それが、糸電話みたいな、他愛なくて、愛おしいものだったなんて、思ってもみなかった。ゆりなさんがいなければ気付けなかったことだ」
あまりに真剣な様子に、私はもう答えることを投げ出してしまって、どうにか微笑んだまま頷くだけでした。
しんとした境内で、坂本さんの熱い言葉ばかりが響いていました。そんな折、不意にすぐ傍で一つの足音がありました。
綺麗な女性でした。私よりも少しお姉さんで、髪と目の黒が悲しいほど美しいのですけど、どこか疲れているようでした。一目見てすぐ、私と同じように生きてきた人だと直感しました。少女の頃からこうして生きてきているからでしょうか、街中で見かける女性に同じ匂いを感じることが私には時々あるのです。
彼女の存在に気付いて、坂本さんは恥ずかしそうに口をつぐみました。彼女はそんな彼にも私にも無関心な風で、私たちが前にする大きな石の塔、そうです、遊女の人たちのお墓に、しゃがみ込んで手を合わせました。
その姿のあわれさは、見ていて息をのむほどでした。潤いのない黒髪が、淋しい日光に舐められてひどく荒廃して見えました。目を閉じた横顔は死人のようにおだやかでした。神や仏ではなくて、死んだ遊女の人たちに手を合わせる彼女は、なにを想っていたのでしょうか。私は幼い頃からよく、顔も知らない父と母のことを想いながらひとり手を合わせてみることがありますけど、その時には加護を祈るというのではなく、またこの世に産み落としてくれた感謝やあるいは恨みを伝えようとするのでもなく、甘えたい気持ちが自然に私を祈りへと流してゆくのです。祈りというのは行いではなくて、うたかたの思慕にすぎないのかもしれません。心の内から咲くささやかな花なのかもしれません。
遊女の人たちへ手を合わせた彼女の胸は、どんな風だったでしょう。私には、ぼんやりとですけど分かる気がします。自らの落ちぶれてゆくだけのこれからに、かなしみながら、うらみながら、あきらめていたのではないでしょうか。なにもかもをあきらめてしまって甘い眠りのような安堵に浸されていたのではないでしょうか。彼女をそうやって見るのは、私が自分の感情に引きずられているだけなのでしょうか。
彼女は長い間手を合わせた後に、カバンから、なにかを取り出してお墓に供えました。きらきらと光る透明の小瓶に、薄い青の液体が揺れていました。一瞬なにか分かりませんでしたけど、香水のようでした。
私はお墓に香水を供える彼女の心と、香水を供えられる人たちの身の上に悲しく胸を打たれました。死してなお美しい香りを身に纏わねばならないと、女の運命とはそういうものだと、そう信じる疲れた魂が悲しかったのです。
彼女はゆっくりと立ち上がりました。そして、去りゆく瞬間に、私の方だけをちらと見て、消え入りそうな弱々しい微笑みを浮かべてくれました。私が彼女のよどみに気付いたように、彼女も私のよどみに気付いたのでしょう。すれ違う時に、微笑みとともに、香水の華やかな匂いがしました。
彼女がいなくなってから、すぐに坂本さんがなにか言おうとしました。私はそれが聞きたくなくて、遮るように、お墓の前にすっとしゃがみ込みました。きっと私の背中も、あの女性のように小さかったことでしょう。
私もなにかを供えたくて、そして祈りたくて、カバンを開けました。そこで私は初めて気が付きました。カバンの中にあるのは、私があの街から持って来たのは、わずかなお金と、あとは香水と化粧品だけでした。
お姉さんに倣って香水を供え、手を合わせてから、お寺を出ました。
お寺からホテルまでの道中を歩きながら、坂本さんはこれまでの旅の間のどの瞬間よりも、輝かしいほどあからさまに愛情を語ってくれました。
「実はね、ゆりなさんをここまで連れて来たのは、慰めるためなんかじゃないんだ」
彼はそう言ってから慌てて、
「いや、丸きり嘘というわけじゃないよ」
と打ち消しました。
「どうして連れて来てくれたんですか?」
私がそう聞くと、爽やかにはにかみました。
「慰めになるなんて、最初から思ってない。でも、励ますことにはなるかなと思って。これまでの生き方をすっぱり止めるきっかけになるかなと思って。荒療治かもしれないけど」
坂本さんの言葉に、私はなにも答えませんでした。この人と私とでは心が通わないのだと、うすうす感じてはいましたけど、確信してしまって、感情が冷めて沈んでいくのが分かりました。
「ごめんね、嘘をついて。そうは言わないで、実際に目の当たりにした方が、効果的かと思って」
「はい」
いいかげんに声をもらすと、それを坂本さんは寄り添っていると受け取ったのか、また生き生きとした明るさで話を続けました。
「昨日の夜、僕が言ったこと覚えてる? この街で幸せなゆりなさんといたいって……」
「坂本さんが覚えてて意外です。酔いどれの冗談かと思ってました」
「馬鹿言え」
茶化す私に、坂本さんは窘めるような真剣な目で答えました。
「本気だ。心底ね。あの街から遠く離れた、この場所で、ゆりなさんに幸せになって欲しい。僕にその手伝いをさせて欲しい」
「はい」
私はまた曖昧に答えて、いいかげんに頷きながら、なぜか、お墓に香水を供えたあのお姉さんの、儚い横顔ばかりを思い浮かべていました。
今にして思えば、坂本さんが彼女について一言も言葉をもらさなかったのは、不自然ではないでしょうか。坂本さんは本当になにも言いませんでした。恋に必死で気にとまらなかったのでしょうか。あるいは、私が彼女に流されていきそうに感じて、あえて避けて話したのでしょうか。まあどちらでも構いません。考えてもつまらないどうでもいいことです。
今夜は坂本さんは飲みに行かず、部屋でお酒を飲んで早くに眠りにつきました。私も一緒に布団に入りましたけど、朝方に眠る習慣のせいか、布団に寝転びながらあなたにつらつらと書き綴っています。いつもより早く寝ようとしたからか、あるいはホテルの外が騒々しいせいか、眠気はないのに頭がぼんやりしています。窓の向こうに見える空は、ネオンの明かりで様々な色に薄く染まっています。私はやはりあの街の、微かに星の見える夜空の下で流れるように生きていたいです。私が死んでどこかに投げ捨てられたとしても、いつの世にも私のような女の人はいるでしょう。その人が香水を供えてくれると思えば、幸せではなくても、静かで甘い気持ちに胸が満たされます。
明日にでも東京を去ろうと思います。坂本さんが眠っている間に、私は眠らず、夜が明ける頃ここを出ることにしましょう。
切符もありませんし、お金もごくわずかしかありませんけど、なんとかなるでしょう。駅前に立って、あの街へ旅立とうとしている男の人を見つけて、拾ってもらえばいいことです。
香水を供える しゃくさんしん @tanibayashi
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