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思えば、あの人のことをふと思い出してから引きずられるようにこうもふさぎ込むというのは、私のような蓮葉な女には不似合いなことかもしれません。あの人を思い出しているようで、私の淋しさばかり思い出しているのなら、お似合いかもしれません。
今夜、初めて坂本さんとお酒を飲みました。長い縁でどうしてこれまでその機会がなかったのか不思議ですけど、乾杯をしてから、初めてだと気付きました。
坂本さんから誘ってくれました。ようやく東京に着いた祝いだとか、色んなことを嘯いていましたけど、慰めてくれていたのだと私は思います。ありがたい気持ちでいっぱいなのに、私のなにも、和らいでくれません。
私はどれだけ飲んでも酔わない性質ですから、夜が深まるにつれて、坂本さんだけがどうしようもなくなっていきました。酔いに任せるように、坂本さんはご機嫌な様子で打ち明け話をたくさんしてくれました。東京に生まれて東京に育ったこと、綺麗なものを求めるうちにあの北国の小さな街に住み着いたこと、どれも私の聞いたことのない話でした。坂本さんは浄閑寺のすぐ傍で生まれたそうです。その辺りで有名な柳の木があり、その隣の、今はもうない民家に中学生になるまでいたそうです。神経の鋭い子どもで、かつてお寺に捨てられた遊女の人たちの境涯に想いを巡らせては、胸を辛くつまらせていたそうです。
「女性を、それも身体を明け渡して生きてる人たちばかりを、僕がこだわって撮るのはそのせいだと思う」
坂本さんはかなしそうにそう言いました。
二軒目の居酒屋さんから三軒目のバーへ、騒々しい街中を坂本さんに連れられて歩きました。街に溢れる光彩と喧騒に、私は眩暈のようなものを感じていました。そんな時、坂本さんがおもむろに言いました。
「今度はゆりなさんの話が聞きたいな。僕の知らないゆりなさんを、全て教えてほしい」
「話すのに飽きたんですか。私の話なんてつまらないからやめましょう」
「そうじゃない。僕にとって、ゆりなさんの話はどれも愛おしい」
いくら酔っているとはいえ、そんな風に情熱をあらわにされて、私は困ってしまいました。はぐらかすのは無理だと思って、面倒ですけどなにか話そうとしました。
そしてがくぜんとしました。私には、打ち明けることなんて一つもないのです。私はどんな過去も、なんとなく人に話してしまうことがよくありますけど、いざ胸の奥を開いて見せろと言われると、なにもないのでした。
「話すことなんてなにもありません」
さすがに虚しくなって、私はそれだけ言いました。
坂本さんはなにも言わずに私の隣を歩いてくれました。それから、少しして不意に、ぱったり立ち止まって空を見上げました。私もつられて見上げました。道に溢れかえる人たちが、急に立ち止まった私たちに軽くぶつかりながら通り過ぎていきました。坂本さんがしみじみと言いました。
「そういえばゆりなさんは、あの街から出たことないんだよね」
「生まれたところは別ですけど、もう覚えてません」
「そうか。じゃあこんな夜空は初めてだろう」
そう言われて、なんとなく視線をやっていた夜空に目を凝らすと、確かに明るすぎるようでした。まるで灰色の膜が夜空を覆っているように見えました。
「あの街の空はここまで汚れてはないね」
「そうですね。薄らですけど星も見えます」
「この空がどうしてこんな色か知ってる?」
「どうしてって……街が明るいからでしょう?」
「それもあるけど、排気ガスとかで、空気が汚れてるからなんだ」
坂本さんはそう言ってから、ふっと笑顔になって、
「僕は最近、こういう空をよく夢に見てたんだ」
「汚い空をですか?」
「うん。こうして見てると、美しくはないけれど、なんというか、元気づけられるな。人間くさくていいや」
坂本さんの言葉が共感を求めるように響いたので、私はつい、
「そうですね」
と頷きました。
すると坂本さんが嬉しそうにこちらを見て、それからまた夜空を仰ぎ、爽やかな笑い声を上げました。
「最近思うんだ。僕は綺麗なものを求めてここを出たけど、綺麗なものなんて、憧れるようなものでもなかったらしい」
「楽しそうですね」
「うん、幸福だ。ゆりなさんとここに戻って来て良かった」
坂本さんはそう言って、不意に私の手を握りました。痛いような強さでした。
「ゆりなさんも、気が晴れたと言ってくれる?」
「はい」
私は何の気なしに答えました。
「晴れ晴れしてます」
「幸せな街で暮らせば、ゆりなさんにも話すことがたくさんできるさ」
その言葉とともに、坂本さんの握り締める手が、ますますかたくなりました。
「僕はもう、あの街で美しいゆりなさんを撮りたくないな。ここで幸せそうなゆりなさんを撮ってみたい」
私は、さっきまでと同じように微笑んで頷きながら、坂本さんが恐ろしくてどうしようもありませんでした。
ひたむきな心を向けられて、私はただただ怯えてしまいました。受け流すことを許してくれそうになかったからでしょう。流すことに、流されることになれすぎたのでしょうか。掌に伝わる力と熱がとても息苦しいのでした。
街のうるさいのも、私を不安にしました。車のクラクションの音、どこかから流れてくる大きくて陽気な音楽、風を激しく引き裂いて走り去る電車、雑踏が重なり合った騒がしさ、すべてが私の心をかき乱しました。
私のようなものにはやはり、星の微かに光る静かな夜空が恋しいです。
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