昨日、今日と、坂本さんは何度も私の顔を覗き込むようにして、

「嬉しそうな顔をしなよ。もうすぐ東京に着く。あの街から随分遠くに来た」

 と言っています。確かに、この電車はあと少しで東京に入るようです。

 しかし私は落ち込んでいるわけではないのです。私にシュシュをくれたあの純粋な青年を思い出してからでしょうか、どうにも力の抜けたような感じがするのです。笑いたいのでも泣きたいのでもありません。ふとするとぼうっとしてしまいます。昔からぼんやりしている私ですけど、坂本さんの寝顔にあの青年の影を見てからは特にひどいような気がします。

 私の胸に憂鬱があるように、坂本さんは思っているようです。店のパパさんをのぞけば、私にとって最も縁の長い相手なだけに、少し物悲しくもあります。坂本さんにも私の心は通じていないようです。肌も触れたことのなければ、胸の底を見せ合ったこともないのですから、あたりまえといえばあたりまえかもしれません。どうしようもなく、また、どうでもいいことかもしれません。

 坂本さんのやさしい誤解は、そういえば昨夜にもありました。

 駅に着いて、街を歩きながら宿を探していた時のことでした。

 道端にしゃがみ込んでいる人がありました。大人の男女と、可愛らしい小さな女の子です。家族でしょう。何をしているのかと目をやると、三人は秋刀魚の載った七輪を囲んでいました。

 夕焼けの街中でそんな光景に出くわして、私は夢の中に入ったように不思議でした。思わず立ち止まって、遠くから三人に釘付けになりました。

 お父さんが大きな団扇をぱたぱた扇いで七輪に風を送ります。お母さんも同じことをしています。その二人を真似するように、女の子もあどけない手つきで、小さな身体に似合わない大きな団扇を扇いでいます。

 少しすると、お父さんがふうと息をついて首にかかったタオルで顔を拭きました。するとお母さんと女の子が、団扇でお父さんを扇いであげます。お父さんは笑ってから、また七輪へと団扇を扇ぎだすのです。

 そしてまた少しして、今度は女の子が団扇を地面に置きます。そして疲れた顔をするのですけど、その息つく様子、タオルで顔を拭う様子が、全くお父さんを真似ているのです。お父さんとお母さんが朗らかな笑い声をたてながら扇いでやると、女の子はまたお父さんのような動作で団扇を扇ぎ始めるのです。

 大人を真似る姿ほど、子どものいじらしい時はありません。私はもう幸せで胸が膨らんでしまいました。私は幸せな人を見るのが好きです。見ているだけで救われるからです。生きているのも悪くないと心の底から信じさせてくれるからです。

「いいですね、幸せな人は」

 私は、隣の坂本さんに言うでもなく、半ば独り言の心境で呟きました。

 するとすぐに坂本さんは言いました。

「嫌だね、僕は。だいたい家庭なんてのは人間の墓だよ」

 私はその露悪的な口ぶりに、私への慰めのようなものを感じました。

 きっと私の口からもれた言葉が、哀切な憧れに聞こえたのでしょう。

 私はなにも答えませんでした。いいえ、答えられなかったのでした。無限のかなしみが胸に流れて、言葉が見つからなかったのです。

「もうすぐ東京だ。あの街から随分遠くに来た」

 その時も坂本さんは、励ますような口ぶりでそんなことを言いました。

 坂本さんは、私が両親の顔も知らないことを知っています。それゆえに慌てて慰めてくれたのかもしれません。もしかすると、自惚れを怖れずにいえば、そのやさしさは坂本さんの愛情でもあるかもしれません。

 そう思えば思うほど、坂本さんから温かい想いを感じれば感じるほど、私は物言う気も失っていくのです。私は自分で考えているよりも冷淡な人間なのかもしれません。不器用なやさしさを受け入れようとせず、歩み寄ろうともしないのですから。どうでもいいというような気分なのです。私は受け流すばかりで、すべてを懸けて受け止めることも、受け止めてもらおうと身を投げ出すことも、できそうにありません。

 今、電車のアナウンスが聞こえてきました。

 もうすぐ東京に着くようです。


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