昨夜、というよりもほとんど朝になってから帰ってきたせいで、坂本さんは電車の中ですやすやと眠っています。たくさんの人の中で、ごとごとと揺られながら、よくもまあこんなに安らかに眠れるものです。赤ちゃんのような寝顔です。

 あの人のカバンにあった小説を読んでみましたけど難しくてつまらないですし、かといって私は電車で寝れる性質ではないので、仕方なくこうしてつらつらとあなたに何か書きつけてみるわけです。

 坂本さんの愛らしい寝顔は、私に一人の人を思い出させます。坂本さんの純粋さも私にあの人を思い出させるのかもしれません。男の人に、他の男の人を連想するのは、悪いような気もしますけど……。

 一年ほど馴染みにしてくれていた人です。人の覚えが悪い私にとって、今でも思い出せるお客さんというのは稀なのですけど、それでも名前は思い出せません。あの人は私をいつもゆりなさんと呼びましたけど、私からなんと呼んでいたかはどうしても思い出せません。

 手慰みに綴る日記もあなたで十冊目くらいでしょうか。昔のものを読めばあの人の名前も分かるのでしょうけど、みんなお店の寮のどこかに眠っています。いつもページがなくなるとその辺に放りっぱなしにしてしまいます。

 けど構いません。ほどよく忘れてこそ美しく思い描けることもあります。あなたには彼のことを何度も聞かせましたけど、私は今また彼を思い出したいのです。どうか付き合ってください。

 私が十八で、彼も十八でした。初めは二十と言って来たのですけど、私が十八だと答えると、実は自分もとすぐに打ち明けてきました。打ち明けなくともそれぐらいだとは分かっていました。あまりに純でした。私を買ったお金は、親から貰ったお年玉だと言っていました。

 彼に女を教えたのは私でした。顔を染めた彼から初心であることを告白されたのは、ことの済んでからでした。

 私はそんなことは初めてで、聞いた途端はっとして、何か怖ろしいことをしてしまったようで、泣き出しそうにさえなったのでした。自分の初めの夜には、全然あっけらかんとしていたのですけど。

 彼との日々は、私を少女にしました。齢が一緒で、彼が清らかなこともあって、私はしばしば、一般に言う青春というものを自分が享受しているような気にもなりました。

 忘れっぽいせいで色んなことがもう忘却の彼方ですけど、それでも今も胸をときめかせてくれる思い出がたくさんあります。

 ある時、彼は桃色のシュシュを私に買ってきてくれたことがありました。学校からの帰り道に店先で見かけて、似合うと思ってつい買ったんだと、彼は言いました。街中で普通の生活をしながら私のことを思い出してくれたというのが、私には夢のようでした。男の人から何かを贈られるのは、私のような職業だと珍しいことではありませんけど、そのシュシュよりも嬉しかったものはありません。手渡されて早速髪を結んで見せると、彼は言葉もなく微笑んでくれました。贈り物をいただいたと、本当に言えるのは、あの時だけかもしれません。

 旅行に行ったこともありました。お店の人やお客さんにねだられるとお金をあげてしまうのでいつも貧しい私を、彼は学校の傍らにアルバイトで貯めたお金で、南の島へ連れ出してくれたのでした。私には初めての旅でした。飛行機から一つの窓を分け合い海を見下ろして、偶然に二人そろって、

「早く泳ぎたいね」

 と呟き笑い合ったのは、私の寂しい人生で最も幸福だった瞬間かもしれません。

 彼が私のもとへあまり訪れなくなったのは、そのようにして仲の深まり始めた頃からでした。

 彼は私にこの仕事をやめてくれと何度も言いました。しかし本当にそうなって私が全てを放り出したら、自分では養えないことをよく分かっているようでした。

 彼は私のところへ来ても私を抱かなくなりました。金で買わずに、他の男の手から離れたところでしか、私の身体に触れたくないのだと言い出したのです。彼は嫉妬に悶えなければいけないのを嫌がって私とあまり会わなくなっていきました。

 私は彼をそれなりに愛おしく思っていたように覚えているのですけど、しかし他の人へ身を許すのになんの呵責もありませんでした。少女の頃から気ままに生き過ぎたのでしょうか。時には自分を騙そうとして、私はなんて悪い女だなどと思ってもみましたが、どこかくすぐったいような気持ちがするだけでした。

 次第に彼は全く姿を見せなくなりました。それから数年を経て、今年の春にまるで別人のようにたくましくなってやってきました。一瞬、誰だか分からなかったほどでした。すっかり大人の男の人でした。

 子どもが出来て結婚することになったと、彼は言いました。自分のような人間が妻と子を持てるようになったのは、ゆりなさんが僕を男として目覚めさせてくれたからだとも、彼は言いました。彼はやはり私に触れませんでした。

 少しくらい憎むのが自然だったのかもしれませんけど、しかし私の胸は、晴れやかな祝福とあこがれのようなものでいっぱいでした。私もこのように人を愛せれば幸せなのだろうかと、らしくないことを思い巡ったりもしました。

 おめでとうと言って、恨み言の一つもこぼさない私に、彼は乾いた微笑みを見せました。嫉妬しないことに幼い不満を見せるほど、もう子どもではないようでした。もはや私を愛さないせいでもありましょう。

 私はどうでしょうか。私はまだ、彼を愛しているように思います。しかし、今まで出会った人、もう忘れてしまった人、皆さんそれなりに愛しいようにも思えます。だからこそ彼は私から離れていってしまったのでしょうか。誰も彼も愛するというのは、誰も愛さないということなのかもしれません。私は甘え流されてばかりで愛することを知らないようです。

 もしかすると、彼の久しぶりの来訪が、私に売春婦をやめさせたのでしょうか。私自身のけがれを思い知らせたのでしょうか。突飛な思いつきのようですが、笑って退けることができません。

 そうです、思い出しました。私がいつもの気まぐれに任せて、ここを出て行くと店のパパさんに告げたあの日、私は朝から何の気なしに部屋の掃除をしていて桃色のシュシュを見つけたのでした。

 その時は懐かしいとばかり思って心の大きく揺れるようなことはなかったですけど、それが私に放恣な決意を促したのではないでしょうか。確信ではないですけど、どうもそんな気がしてなりません。しかしそのシュシュも、あの寮に置いてきてしまいました。

 いつの間にか電車が山の傍を走っているようです。車窓の向こうにちらちらと紅葉が見えます。冬の近づきつつあるために葉は少なく骨のような枯枝ばかりのくすんだ風景の中に、わずかに残る葉の暗い赤や黄が揺れているのはなんともいえないもの侘しさです。

 電車の走る風のせいか、少ない葉もぱらぱらと落ちていきます。


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