今夜も坂本さんはなかなか帰ってきてくれません。出来るだけ早く帰ると約束して宿を出て行ったのに。とはいえ私もそれほど心底から信じていたわけでもないですけど。

 しかし坂本さんはやはり優しい人で、独り寝の出来ないという私の幼い寂しがりを見抜いてくださっていたようです。

 今日のお昼のことです。車窓からの長閑な眺めに魅せられたらしく、坂本さんは私の手を引いて小さな駅に降り立ったのでした。

 人影がなく田園ばかりが広がる静かなところでした。私たちはあてもなく散歩を楽しんでいて、一つの湖を見つけました。それほど大きくない、よく澄んで青空を映している湖でした。

 ほとりに小屋のようなところがあり、坂本さんの興味の赴くままに立ち寄ってみると、小舟貸出という古びた看板がありました。坂本さんの呼びかける声に応じて小屋から出てきたおじいさんは、目が見えないようでした。杖をついて立ち、閉じた目をこちらに向けていました。

「舟なんて漕いだことないのですけど、簡単にスイスイと進めるでしょうか」

 私は何気なくそう尋ねました。するとおじいさんは、ぱっくり口を開けられて、

「綺麗な声ですね」

 と、呟くように言ってくださいました。

「とんでもないです、そんなの」

 恥じらいとよろこびでいっぱいで、私の声は思わず少し上ずってしまいました。

 私は鏡を見た時にふと、若くから覚えた華やかすぎる化粧のせいか、暗い目つきのせいか、その荒みようにぞっとすることがあります。だからこそでしょう、おじいさんが私の声のみを聞いて綺麗だと言ってくださって、とても救われるような思いがしたのです。

 おじいさんは、男がいるなら簡単に漕げると言ってから、私の声をまた褒めてくださって、無料で小舟を貸してくださいました。

 湖は私たちの他には誰もいなくて静かでした。坂本さんが櫂を女の人のような細い腕で漕ぎながら言いました。

「目くらのじいさんの言葉で、初めてゆりなさんの声の綺麗さに気付かされるとはね。不覚だ」

 櫂に舐められて水面がやわらかくうねり、そこに光の糸がほのかに浮かぶのを眺めながら、私はふざけて言いました。

「まだまだ気づいていない良さがたくさんあるかもしれませんよ?」

 坂本さんが、ちらとこちらを見て、ほろほろと顔を綻ばせました。

「悪さも然りだ」

「それもそうですね」

 私はふきだして笑ってしまいました。するとふっと、坂本さんの表情が曇りました。私は不思議に思って、

「どうしたんですか?」

 と聞きました。坂本さんは水面を眺めながら答えました。

「あんまりけらけらと笑わない方がいい。舟が揺れる」

 冷静な口ぶりでそう言いながら、坂本さんの目には少年のような怯えがありました。私は可笑しくて、悪戯をしたくなって、半ば本気で半ばわざと、また笑い声を上げました。坂本さんが女の子のような声で、やめろ、やめろ、と繰り返すので、私はますます舟を揺らしました。

 笑い疲れて私が静かになると、ふざけすぎてしまったようで、坂本さんはむっとしてしまいました。そして、やりかえすようにぼそりと、

「綺麗な声かな。どうも怪しい」

 と言いました。低い声のまま坂本さんは続けました。

「眠たいだけだろう。眠気の匂う声ってのは、どの女でもそれなりに美しいさ」

「まあ」

 私はおじいさんの言葉に少なからず救いを感じていましたから、そんな風に言われてしまうと、今度は私がむっとしてしまいました。私がずっと眠たいのを察してくれていたことの嬉しさは、その瞬間は見過ごしてしまいました。

「たくさんの女の人の、眠たい声を聞いてるんですね」

 今思い返すと辛く当たり過ぎだったかもしれません。それにこれでは嫉妬しているようで、誤解を招きかねません。どうして私はあんな風に言ったのでしょう。流されて寄りかかって生きてきて、いつしかこういう物の言い方が生き方として沁み付いているのかもしれないと思うと、さすがに暗澹としてきます。

 しかしその時の私は本心でそう言って、本心で冷たく坂本さんを見つめました。すると思いがけないことに、坂本さんはカバンの中からカメラを取り出したのです。そしてこちらへ向けてシャッターを切ったのです。

 私がぽかんとしていると、

「綺麗な湖を背景にゆりなさんのむっとした顔ってのが面白くて」

 坂本さんはそう言って茶目っ気のある笑みを浮かべました。私はその表情に、胸をつかれました。カメラを持った坂本さんがそのように笑うのを初めて見たのです。いいえ、あの微笑みは、これまでのどんな時のものより温かかったような気すらします。

 坂本さんはそのまま、何枚かシャッターを切りました。私は撮られるがままになりながら、

「不思議です」

 と自然に呟いていました。

「なにが?」

 坂本さんが問いかけながらファインダーをのぞきます。

「今日の坂本さんは、写真を撮ってるのに、写真を撮ってないみたいです」

「…………眠すぎておかしくなった?」

 そう言って坂本さんは、ファインダーから目を外して微笑みました。何もかもをそうやって慰めてくれそうなやさしさでした。

「……そうかもしれません」

 私はぽすんと舟の上で横になりました。優しさに抱き倒されたように、身体から力が抜けたのでした。波の静かな揺れが身体に伝わりました。秋晴の空の高さを眺めていると、すうっと吸い込まれてしまいそうでした。

 まだ私にカメラを向けている坂本さんに、私は何の気なしに言葉を投げかけました。

「今日は、こんなポーズをしてとか、ここに視線を向けてとか、言わないんですね」

「うん。言わない。言わないね」

 坂本さんは、言い聞かせるような不思議な口ぶりで、はっきりと言いました。それから、少し小さな声になって、

「自然なゆりなさんが欲しいんだよ」

 と言いました。

 はっとして私は顔を上げましたが、坂本さんの顔はカメラとカメラを持つ手とで隠れていました。隠していたのかもしれません。ファインダーの向こうの目も見えませんでした。坂本さんも私も、言葉がありませんでした。シャッター音と微かな波の音が、囁き声のように美しく聞こえました。

 坂本さんのあのような純粋さは意外でした。あんなにも初心な人だとは思ってもみませんでした。しかし思えばこうして旅をしていて、毎夜並んで眠っても何もありません。これは異常と言えば異常でしょう。

 私自身にも初心な匂いは微かにしましたけど、これはそれほど意外ではないでしょう。それは坂本さんに寄り添わせるような、言うなれば坂本さんの純真に流されたゆえのものだという気がします。私も奥底ではまだ少女だったと、そう信じ込めるほど私は無邪気ではありません。青空を映す湖が曇天を映すこともあれば雷の光にも染まるようなものです。坂本さんに引きずられたに過ぎず、私の純潔は私の純潔ではなかったでしょう。きっと私の魂は今なお売春婦のもので、流れるままに流れていくばかりです。

 坂本さんは今夜宿を出て行く時にはもう、あの人らしい軽妙な落ち着きを取り戻していました。

「一人で寝られない二十四の女なんて初めてだ」

 上着を羽織りながら、出しぬけに、そんなことを言いました。

 私はそんなこと打ち明けていませんから、驚いてしまって、

「どうして知ってるんですか?」

 と、思わず滑稽な声で聞きました。

 すると坂本さんは何でもなさそうに、

「分かるさ。ゆりなさんは剥き出しすぎる」

 そして立ち上がりながら、

「今夜は早く帰るよ。そして子守歌でも歌ってあげよう」

 坂本さんはそう言って笑い、私の頭を撫でて、出て行きました。待っていますねと言って見送ると、横顔だけ振り返って、微笑を湛えて頷きました。

 もう夜も更けてきましたけど、まだ坂本さんは帰ってきません。

 思いがけず純粋なあの人はなにを考えているのでしょう。駆け引きのつもりでしょうか、それとも約束を固く守ることに少年のような恥じらいを覚えるのでしょうか。どちらでもあるような気がします。

 今ごろ、落ち着かない心をお酒で必死に宥めているのかもしれません。


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