香水を供える

しゃくさんしん


 いつも自分の心の分からない私ですけど、どうして売春婦をやめたのかはまるで謎です。幼い頃からの癖で、東京に向かう電車でも車窓にばかり視線を流して、景色の中に自分の心を探していました。

 最も深く胸に触れたのは、どの辺りの風景なのかはすっかり忘れてしまいましたけど、哀れなほど寂れた駅でした。うつらうつらしながらそれでも景色を眺めていた私の眼に、二人の制服姿の少女が現れたのでした。二人は駅のホームに退屈そうに佇んで、手を繋いでいました。

 静かな村で恋もない倦怠の日々を、二人で病的な遊びにでも耽って紛らわしているのだろうかなどと、私はとりとめなく思いを巡らせました。私はあの子たちの年の頃にはもう汚れてしまっていましたから、その胸中を推し量るのは難しいのですけど、何となく二人はそんな風に見えたのです。

 電車の速度ですぐに消えたその風景はひどく憂鬱な印象を私の胸に滲ませました。私は少し疲れているのでしょうか。今思えば私の推測の方がよほど病的かもしれません。

 そんな私を見て坂本さんは、

「またどうしようもないことを考えているね」

 と言って笑いました。

「心配しなくていい。ゆりなさんの底にまで染み付いてる憂いも、浄閑寺にお参りすれば落ち着くさ」

 あの街を私を引き連れて出発してから今まで、私は坂本さんからその言葉を何度となく聞きました。

 浄閑寺とは東京の有名なお寺だそうです。なんでも、かつて吉原という土地で身体を売って生きていた、私のお姉さんとでもいうような人たちが葬られている場所だそうです。

 あの小さな街で、私が店を出たその日のことでした。鮮やかなネオンの下を歩きながら坂本さんは私を旅に誘って、こう言ったのでした。

「遊女たちは大抵は野垂れ死をした。身寄りもないしね。それで彼女たちの死体が、吉原の近くにあった浄閑寺に投げ込まれたんだ。それで浄閑寺は投げ込み寺とも言われてる」

「そんなところに行って、私はどうすればいいんですか」

「だって、店をやめたんなら、することもなくて退屈だろう。慰安旅行とでも思って僕について来てほしい」

「自分の悲惨な最期を予見しにいくようなものです。慰安にならないじゃありませんか」

「いいや、なるよ」

 坂本さんは、強く言い切りました。写真を売って気ままに暮らす、世に捨てられたようでいていつも穏やかな、そんな彼らしくない、はっとさせるような声色でした。

 私は思わず振り向いて、彼の女の人のように綺麗な横顔を見つめました。すると、はにかむような、誤魔化すような、いつも通りの品の良い微笑を浮かべて、

「慰安になるんだ。死に際ほど愉快な瞬間はないと、僕の尊敬するタカミネリュウウンという俳人も書いてる」

「そんな偉い人の言うこと……私に同じ気持ちになれるでしょうか」

「偉くないよ、今僕が考えた人物だ」

「まあ」

 私は声を上げて笑いだしてしまいました。どこか、すっきりする感じがしました。他愛ない嘘というのはやさしいもので、胸がぽっかりと軽くなりました。

 私と同じように笑いながら坂本さんが言いました。

「新幹線や飛行機じゃなく、普通列車でゆったり旅をしよう」

「時間がかかってしょうがないんじゃないですか?」

「それが旅の醍醐味だよ。気晴らしになるさ。東京はこの街よりもずっと暖かいだろうしね」

 坂本さんははしゃいでいるように早口で言ってから、遠慮がちに付け加えました。

「僕についてきてくれる?」

 爽やかな心持ちのせいだったのでしょうか、私はそう言われると、何の気なしに頷いてしまったのでした。思えば私はいつも、この何の気なしという気まぐれに流されて、いい加減に生きてきてしまったように思います。

 しかしどうして坂本さんは、私を連れてその地へ行こうなどと考えたのでしょう。それこそ気まぐれのように不意に少女の頃からの生き方を捨てた私を、慰めようとしてくれたのでしょうか。お姉さんのような人たちに手を合わせに行って、それが本当に安らぎになるでしょうか。

 坂本さんはいつも冗談めかしていて、でも思いやりの深い人だから、半ば本気で私を慰めようとしてくれているのかもしれません。自分の悲惨な死に方を眺めれば、穏やかに人生へ諦めがつきそうにも思えます。その心持ちは前向きではありませんけど、それなりに静かな幸福ではありましょう。

 しかしまた坂本さんは、思いやりの深い方でありながら、写真を心から愛していて、お店の寮によく遊びに来ては女の子たちを撮っているような人ですから、案外そのお寺に私を立たせてシャッターを切りたいだけなのかもしれません。

 私には、写真の良し悪しや、ましてや芸術なんてものの良し悪しは分かりませんけど、かつて売春婦たちの倒れた寺に、時が流れて今、私のような売春婦以外の生き方を知らないつまらない女が佇んでいるというのは、なかなか絵になるのかもしれません。

 とすると、私はまんまと坂本さんにのせられたことになります。別に嫌でもないですけど、気持ちのいいものでもありません。

 あなたにも何度か話したことですけど、坂本さんは写真を撮る時は怖ろしい顔をすることがあります。眼がレンズのように冷ややかになって、そうなるともう何を話しかけても答えてくれません。普段は軽やかで楽しい人ですけど、その瞬間が訪れると、坂本さんは全くの他人になってしまうのです。私を雑に買う人たちと匂いが似てきます。

 とりとめなく書きつけているうちに、瞼が重くなってきました。

 坂本さんはまだ宿に帰ってきません。

 私はいつの間にか一人で寝られなくなっていたようです。仕事をやめてから知りました。身を堕とした十三の頃より、二十四になった今の方が、はるかにたくさんのことがおぼつかないのはどういうわけでしょう。人に甘えすぎたのでしょうか。しかし誰か私を甘やかしてくれた人はいたでしょうか。私は誰に、何に甘えてここまで来てしまったのでしょう。

 雨の降る音が聞こえます。こんな夜にこうして日記なんて綴っていると、どうも苦しい方へばかり心が流れていきます。あなたの初めの方のページには、楽しかったこと嬉しかったことも溢れているかもしれません。悲しみがあってもそれは過ぎ去ったものです。頭も眠気でぼうっとしてきましたし、過去の日々を読み返しながら坂本さんの帰りを待つことにします。

 それにしても、明日も出発が早いと言っておきながらこんな時間まで出歩いて坂本さんも困ったものです。きっとまたお酒に溺れているのでしょう。あの人が宿を出て行く時、私は一人で寝られないことをどうして言い出せなかったのでしょう。分からないことばかりです。分からないふりをしているのかもしれません。

 坂本さんが晩秋の冷たい雨に濡れていないか心配です。


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