行かないで
月星寧々子
行かないで
◆
ある日の昼過ぎ、私はこれまでになく愉しい一日を過ごしていた。
彼氏との同棲が先週から始まり、漸くお気に入りのタンスが届いた。
昼食を軽く済ませた後、断捨離をしつつタンスに洋服をしまっていた。
ところがそのタンスは居場所に困っていた。
採寸を間違えたようで、寝室には置けなかった。
もう1つの部屋もまだ物で溢れていて、置けない。
怒られるだろうな、とは思いながらも仕方がないのでリビングに居てもらう事にした。
それでもこれからの事を考えると私のウキウキは止められなかった。
これからの生活や迫っている結婚、子供も欲しい。
同世代の友達がどんどん結婚している中で、やっと遅れを取り戻せそうだ。
◆
洋服を整理していると、浴室の方から物音がした。
ガタン
バタン
壁を叩いているような、シャンプーが倒れたような、音だった。
そういえば……。
あの噂は本当だったのだろうか。
同じマンションの人から聞いた話を思い出した。
◆ ◆ ◆
「このマンション、最近出るらしいのよ。女の子の幽霊。息子が見たって。
『行かないで、外で遊ぼう』
って言われたって言うのよ。もう気持ち悪くて。」
◆ ◆ ◆
同じ様な話を3,4人の奥さんが話していた。
何かの偶然だろうと思っていたが、自分の身に降りかかるかもしれない状況になると恐怖がつのる。
ガタン
バタン
やっぱり音がする。
間違いない。
風呂場に……いる。
怖くなった私は、金縛りのように動けなくなってしまった。
逃げる事も出来ない。
どうしよう。
すると、か細い声が聞こえた。
「行かないで。そっちへ行かないで。行かないで。」
声が聞こえると、不思議に体が動き出した。
ぎこちなく、足を動かし歩いている。
でもそれは自分の意志とは無関係だった。
明らかに、浴室へ向かっている。
「行かないで。そっちへ行かないで。行かないで。」
また聞こえた。
叫びたいのは山々だったのだが声が出ない。
やめて、連れて行かないで。まだ死にたくない……!
必死にそう心の中で叫んだのだが届かない。
体はどんどん浴室へ近づいていく。
「行かないで。そっちへ行かないで。行かないで。」
そして、それを見てしまった。
◆
見た瞬間、叫んだつもりだったが声がちゃんと出ていたのかは分からない。
家に鍵もかけず飛び出した。
車で少し行ったところに親友の家があったので逃げ込んだ。
支離滅裂だっただろうが、事の顛末を話した。
私の様子が尋常ではなかったのだろう。友人はこんな話をちゃんと聞いてくれた。
落ち着くようにと温かい紅茶を淹れてくれた。
紅茶を飲み終える頃には少し落ち着きを取り戻してきたが、家に帰る事は出来ない。
少しゆっくりさせて欲しいと言ったあと、あれは起こった。
東日本大震災だ。
◆
私の家の近所は津波にこそ合わなかったが、悲惨な物だった。
避難生活を余儀なくされた。
しばらくして彼が私の避難場所へ来てくれ、それが何よりも私に安心を与えた。
彼は私と会うやいなや、住んでいたアパートを見に行きたいと言い出した。
住める状態ではないだろうけど、残っている物があるなら取りに行きたいと。
私も同行する事にした。
住んでいたアパートはギリギリ形を保っていた。
しかし、部屋に入ると私は愕然とした。
地震が起きた時間、休みの日は必ずドラマの再放送を見るのが習慣だった。
テレビを見る私の定位置に……あのタンスが倒れている。
もし私があのまま家にいたら、タンスの下敷きになっていたのだろうか。
私はあの少女に……助けられたのだろうか。
その後少女には会っていない。
行かないで 月星寧々子 @tkhsnnk114
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