天狗さま
仮巣恵司
天狗さま
騒がしい居酒屋でのことだった。
ある縁で知り合った中年婦人――仮にSさんとする――と、二人で酒を楽しんでいた。
金曜日の夜だ、他の客も多く少々声を張らないと互いの声も聞き取りづらい。
「そうそう、我慢も限界なのよねぇ」
職場の愚痴である。
私は頷きながら適度に相槌を打っていた。
テーブルのグラスが空になる。私は酒に強いわけではないので適当なソフトドリンクを頼み、Sさんは
「どうしたらいいと思う?」
「思い切って転職とかどうでしょう」
そうしたがっている雰囲気があったので、背中を押す形になるよう返す。Sさんは大きく頷いた。
先程から私は波風立たぬような返事しかしていない。何しろ他人の人生だ、正直なところ責任感など生まれようもない。それならば相手の望んでいるであろう会話を無難にこなすのが最適解で、適度な信頼感を得られれば十分というもの。
「大変でしょうけど、長く考えれば転職ですよ。他県に出てもいいかもしれません」
「そうよねぇ……あ、そういえば」
Sさんが身を乗り出す。
「○○くんはどうなの? これからのこととか」
「はぁ、私ですか」
突然矛先が自分へ向いたので面食らう。
文章を書いている人間だとは伝えていたものの具体的な展望はまだだった。かといってべらべらと話すようなものでもないし、何よりSさんのような方にはライトノベルだゲームだ云々というのも遠い話だろう。
どう答えたものかと逡巡し、閃く。
「私が文章を書いているのはご存じでしたよね。それを追い続けるつもりです」
「いいわよね、夢があって」
「ありがとうございます。それでですね……」
Sさんを遮って続けた。
「何か面白い話とかありませんか? よければネタにしたいのですが」
話をはぐらかせつつネタを仕入れよう。そう目論んだのだ。Sさんは話たがりの
「あ、えぇ……体験談?」
Sさんは
「あるわ。こんなのでもいいか分からないけど……」
「聞きたいです。ぜひ」
辺りのガヤで話を聞き漏らさないよう、私は身を乗り出した。
Sさんは麦酒で唇を湿らせ、ほうと一息を吐く。
それが、天狗にまつわる物語の始まりだった。
◆
彼女の父親は変わった趣味を持っていたらしい。
古物
幼いSさんは気味悪いと感じながらも興味を抱いていた。
何しろ父の趣味は、彼女が物心ついた頃には開花していたのだ。立入りを禁じられた書斎に並ぶ奇妙な
大きな瓶に詰められた枯れ木のようなもの、埃を被った古書、赤黒い小振りの壺。父親の目を盗んだ侵入である、中を改めることはできない。それでも幼いSさんには刺激的な
秘密の書斎通いにこなれてきたある日のこと、いつものように侵入したSさんは異様なものを見つけた。
最奥に構える机の上、蓋の開いた
西洋のベルに似た形状をして、掌に収まるほど小さい。おそらくは
価値のあるものだと思えなかった。古びた
だが、それでも。
触れてはいけないものなのだと直感した。
置いてあった桐箱の蓋を確認する。
唾を飲み込む。
ここにいてはダメだ、という警報が頭の中でガンガン鳴った。
未発達の思考を懸命に走らせる。
悪いものを閉じ込める蓋が開いていた。
では、どうなる。
書斎を見回す。
光は遮光カーテンの間から差し込む僅かなものばかり。
干涸らびた腕や幼子を射抜く鬼面の空洞、四方に滲む薄暗い闇。
薄闇に潜む怪物を夢見ていたというのに、今は、そう。
何者かが実体を持って佇んでいるようで。
気付いたときには書斎を飛び出し、自室に閉じこもってしまった。
布団の上で震えていると、大変なことをしていたのだという実感がようやく湧いてきたのだという。
――もうやめよう。
そう心に決めたのだった。
夜、珍しくご機嫌の父親に何かいいことがあったのか聞くと、彼は嬉しそうにこう答えたらしい。
「天狗の鈴を見つけたんだ」
奇特な父親のせいで妖怪に関しては人並み以上の知識を持つSさんのことである、天狗の姿は簡単に想像できた。代名詞である赤い面に長い鼻、天地を睨む大きな目――そして、
Sさんは妖怪の実在を疑っていなかった。天狗も当然いるものなのだろう。怪人じみた山の精が鈴を持っていたことは驚きだったが、それよりもまず、どうやって手に入れたのかが気になった。
これまでの古物と違って、明らかに誰かの所持品なのだ。面や木乃伊などはせいぜい人間の手を渡ったものだろう。しかし曰くが真実なら、本来所持していたはずの天狗はどうしているのか。
「……ねぇ、お父さん」
Sさんは疑問を胸に仕舞い込んだ。
きっと、言えばまた怒られるから。
「よかったね」
珍しく機嫌のいい父親なのだ、逆鱗に触れては敵わない。
「あぁ、そうだな」
父もそれ以上の開陳を行わなかった。一家の団欒と共に、その日の夜は更けていったのだそうだ。
危惧が現実を浸食したのは翌日からだった。
上機嫌はどこへやら、毎晩のように母親とSさんに拳を振るった。母娘二人は涙を堪えながら嵐の通過を堪え忍ぶ。元より気性の荒い父のことだ、また数日もすれば機嫌は直るはず。そういう淡い期待すら破壊したのか父親の暴力は日に日に増していった。
異変に気付いたのは罵声に混じる言葉。
「馬鹿野郎! おめぇ、こんなことも出来ねぇで……天狗さまに何言われるか……!」
違和感が拳の合間を縫ってくる。しかし繊弱な女二人、問い質そうなどという発想の出る余地もなく、ただ庇い合うのが精一杯で、違和感はすぐに消えてしまったのだ。
来る日も来る日も、また明くる日も、家は光源のない廃屋のように重苦しく、父親が帰ってくれば曇天から暗雲、雷鳴の壮絶さを思わせる暴力。
そして、天狗の機嫌を伺うような発言。
語気を荒げる姿は普段のそれと比べ明らかに異常だったのだという。
眼は爛々と光り、顔は怒りで真っ赤だった。唾を飛ばしながら激怒する様は何者かに取り憑かれたよう。毎日、連日、収まらず。
いっそ死んでしまおうかと考えたこともあった。
ところがある日、いとも容易く静寂が訪れる。
交通事故だった。
仕事帰りだった父親は、そのまま帰らぬ人となった。
しかし、ただ一つ、天狗という言葉だけは明瞭にだったのだという。
◆
「――ていう話、体験談なんだけど、どう?」
Sさんが語り終えたともに、居酒屋の賑わいが戻ってきた。
錯覚だ。
ふぅ、と細く長い息。
Sさんは頬杖をついてこちらに微笑む。
「○○くんはどう思う?」
「……どう、とは?」
「使えるかどうか。そのために聞いたんでしょ?」
そうだった。
話の内容に気を取られ、本来の目的を失念してしまっていた。
「そうですね、まだ何とも……でも、話してくださってありがとうございました」
どこか熱っぽい彼女と視線を合わせぬよう、私はわざとらしく腕時計を確認した。
「……Sさん、そろそろ時間なんじゃないですか?」
「あっ、そうだわ!」
「今日はご馳走様でした。楽しかったです」
私達は会計を済ませて店を出た。夜気は冷たい湿気を孕んでいて冷たい。
「それじゃあ、また」
そそくさと帰ろうとする私を呼び止め、Sさんは緩慢な口調で問いかけてきた。
「ねぇ。お父さんは――」
会話の節々から漂っていた、暴力気質な父親の素性、母娘共に抱いていた憎しみ。
幼心に植え付けられた蒐集品への愛情。
先程会計を済ませたときに見えた、鞄の中のくすんだ黄銅色。
「――天狗さまに連れて行かれたんだと思う?」
「……分かりません」
湧き上がる勝手な想像を振り切るように、私は頭を振った。
次に彼女と会った数週間後、Sさんの様子は普段と何ら変わりなく、あの晩の出来事などなかったかのようで、私もこれ以上彼女の暗部に触れようとはしなかった。
――真に恐ろしいのは生者である。
どこかで聞いた月並みな言葉が思い出された。
天狗さま 仮巣恵司 @N_charis
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます