15.天女の羽衣(後編)

 ロータスに寄ってもよかったのだが、駈が帰りたそうなようすだったから自宅で父子ふたりきりの夕食を終えた。

 散歩をしたせいか駈はすぐに眠たそうな顔になり、早めに風呂をすませてベッドへと放り込んだ。


 駈が寝入ったのを見届けて自分もうとうとしていると、玄関で扉を開け閉めする音が響いた。今夜、来るとは聞いていないが、もしかしたらと思ってはいた。

 落ち着いてリビングへ行くと、美登利がソファのクッションに顔を埋めてうなっていた。またか、と達彦は彼女の肩に手をかけた。

「頭が痛い……」

「薬を持ってくる」

「もうやだ、頭が痛い……」

 子どものように泣き出す彼女から離れられず、達彦はしばらくの間その細い背中を撫でていた。やっぱりだ。今日、一ノ瀬家へと行ってきたのだろう。


 ひとりで悪役になろうとするからだ、どんなに悪ぶったところで良識的なただのお姫様なのに。

「もうやだ」

 そんなふうに愚痴をこぼして、それなら巽のところへ行けばいい、とでも言ってほしいのか。

 だが、達彦は絶対にそうは言わないことを知っているから彼女はこうして弱音を吐くのだ。正人や誠にはこんな姿は見せない。達彦にだけだ。


 意味もなく嫌がるのにかまわず無理やり鎮痛剤を飲ませると、しばらくぐずっていた美登利はやがて大人しくなった。

「かける……」

 ふとクッションから頭を上げて、泣き濡れた瞳のままつぶやく。

「駈は?」

「もう寝てる」

 美登利は無言で立ち上がり、ふらふらと駈の部屋へと入っていった。はぁっと息をついて達彦はソファに座る。


 こんなふうに彼女が不調を訴えるようになったのはここ数年のことだ。そのときどきで、お腹が痛いと泣いたり頭が痛いと泣いたりする。子どもみたいに泣きじゃくる姿に最初はうろたえもしたけれど、だいぶ慣れた。彼女なりのガス抜きなのだとすれば、こうしているうちはまだ大丈夫なのだろうと思える。

「まだ」。自分の思考に達彦は舌打ちする。


 榊亜紀子から聞き出した話によると、三十歳を越えたころから巽も体調を崩すことが多くなったという。それまではまったくの健康体だったのに。

『みどちゃんに来てもらいましょうか?』

 苦しむ彼を気遣ってそう亜紀子が(余計な)提案をしても、今はまだいい、と巽は微笑むのだそうだ。


 何が「まだ」だ。待ったところでその時は訪れない。未来永劫あいつにだけは渡さない。強く強く達彦は念じる。かつては嫉妬と執着ゆえに手放せなかったその想いを、今では別の執念でより強固な決意へと変えている。彼女を得てから、息子を得たから。


 息子のために苦労することで愛情を証明するような、母親の献身をそう受け止めて成長した達彦だから、子ども自身にとって親の愛は毒にも薬にもなることをよく知っている。

 自分自身、愛していると言い切れる美登利に対するそれだって、歪んでいる自覚はある。ただの執着だと詰問されれば否定はできないし、美登利だって苦笑いするだけだろう。


 愛のなんたるかがわからない人間が、愛情を必要不可欠とする子どもを持てるわけがない。達彦はそう考えていたし、巽もだから自分の子どもをつくらないことにしているのだろう。そういうところは似た者同士だと揶揄されるくらいだ。


 でも駈は生まれた。彼女によく似た男の子。父親の達彦にも似ていて(当たり前だ)、伯父の巽にも似ている(血縁だから仕方ない)。

 父親の自分も舌を巻くほど賢くて、油断できないほど鋭い、なのに子どもらしく純真で。出会ったばかりの、美登利はそんなふうだった。だがそれも跡付けな理由で。

 単純に愛おしかった。ひねくれ者な自分でも、それは認める。愛する存在が、この世にひとつ増えたのだ。


 ――順序を逆にして言い訳にしているようね。家庭を持つことでしっかりできるようになるの。


 今は昔、城山苗子に説教された通りになったので、それは反抗心もなくなるというものだ。



 しんと静まり返っている子ども部屋を覗いてみると、美登利は駈の隣に潜り込んで一緒に眠っていた。寝顔だけなら傍らの我が子と変わらない、少女みたいにあどけなかった。


 三人がかりだ。ばかりかそれぞれの子どもを得て、それでも不安は消えない。奪われ、失う。その悪夢が付きまとう。

 子どもを持って、安定したのはむしろ男たちの方だとはなんの皮肉なのか。それならどうして彼女は子どもを産みたがったのか。羽衣と、引き換えにするつもりではないのか?


 逆説で考えてみるのは達彦にとってはもうクセのようなもので、そちらが真理のようにしっくりきてしまうのは、悪魔的な兄妹と戦ううえで仕方のないことである。

 彼女が破滅するなら、達彦は間違いなく後を追う。魔王とふたりきりになどさせるものか。だが幼い息子を見ると決意は揺らぐ。

 結局のところ現実的にならざるを得ない。現実的に、絶対に、彼女を境界線の向こうへは行かせない。

 だからいくらでも泣きついてほしいと思う。どんな罵詈雑言も受けとめるし、殺されたって文句は言わない。いちばん最初に兄妹を追い詰めた、それが自分の役割だから。





 寝起きのいい駈は毎朝ぱちりと目を覚ます。いつものようにベッドの上でむくりと起き上がり、そして感じた。お母さんの匂いがする。


 きちんと着替えをしてからリビングへ行くと、お父さんがまだ眠そうな顔で新聞を広げていた。

「おはよう、お父さん」

「うん」

「お母さんは?」

「ちょっと前に帰った」

「そっか」

 残念だけど別にいい。一緒に眠れただけで嬉しいから。


「話したのか?」

「ううん、会ってないよ。でも夢を見たから」

「…………」

 お父さんは真顔で駈をじっと見つめる。

「なに?」

「おまえは大丈夫かと思って」

「なにが?」

「なんでもない。さて、朝メシは何にする?」

「今日はコーンフレークの日だよ、お父さん」

 朝食の準備を手伝うために、駈はキッチンへと向かった。

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天使と悪魔 奈月沙耶 @chibi915

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